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永瀬清子の世界
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岡山県出身の詩人・永瀬清子さんの詩をRSKアナウンサー 小林章子の朗読でお届けします。 どんな景色が心に浮かぶでしょう? 人生のステージや生活に合わせて読むことができる永瀬さんの詩の世界。 多感な時期の悩み、結婚、両親、夫や子供など家族のこと、生活の中での驚きや発見、山や川、植物や天体など自然について、世の中について、老いについて。 永瀬さんの詩は、過去の自分を振り返ったり、これから行く道の道しるべにしたり、人生を一緒に歩いてくれるようです。
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アート
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3日前
#34 「焔について」
永瀬さんは、現在の岡山県赤磐市松木で暮らし始めた頃、山の木を切って薪を作って、かまどでご飯を炊いていた時期がありました。世帯場すなわち台所には、まだ電燈がついていなかったので、ゆれる焰、薪のはじける音などを感じながらご飯を炊いていたのだと思います。のちに永瀬さんは、「何だか原始的な焰の美しさが私にはうれしくて、あとで電燈をつけて貰えた時、動かぬ平凡な光に逆にがっかりした」(『すぎ去ればすべてなつかしい日々』)と当時を振り返っています。焰を見つめていた時間は、小さいながらも確かな喜びの時間だったのではないでしょうか。<文・白根直子>
エピソード
3日前
#34 「焔について」
永瀬さんは、現在の岡山県赤磐市松木で暮らし始めた頃、山の木を切って薪を作って、かまどでご飯を炊いていた時期がありました。世帯場すなわち台所には、まだ電燈がついていなかったので、ゆれる焰、薪のはじける音などを感じながらご飯を炊いていたのだと思います。のちに永瀬さんは、「何だか原始的な焰の美しさが私にはうれしくて、あとで電燈をつけて貰えた時、動かぬ平凡な光に逆にがっかりした」(『すぎ去ればすべてなつかしい日々』)と当時を振り返っています。焰を見つめていた時間は、小さいながらも確かな喜びの時間だったのではないでしょうか。<文・白根直子>
11-11-2024
#33 「梢」
この詩の最後「こころのめくら」という表現は、不適切な表現ですが、1932年の作品発表時の時代的背景、また著者が故人であるという事情に鑑み、そのまま朗読しています。 「梢」は、1932年春に永瀬さんの従兄が亡くなり、やり場のない悲しみを書いた詩です。この従兄は、永瀬さんが詩人を志した時に、広く学ぶことが必要なのだと心理学や経済学など様々なジャンルの本を紹介して、応援してくれた人でした。永瀬さんは、「梢」という詩で、詩を樹木にたとえています。具体的には、宮沢賢治さんのように物事の本質を表現できる詩を「美しい樹木」や「幹」にたとえて賢治さんへの憧れを述べ、そのように書けない自分を折れやすい「梢」にたとえて、賢治さんのように書けない悲しみ、さらに従兄が亡くなった悲しみを織り込みながら表現しています。<文・白根直子>
04-11-2024
#32 「十一月」
「十一月」詩は、冬の訪れを感じる頃、樹木がより美しく生長するために、不要な枝を整理していく様子を書いています。次の季節への準備をするために斧や鉈で切られていく枝葉、そして次第に美しく整っていく樹形。切られた枝葉は燃やされていきます。これらを思うと永瀬さんの詩を書く姿とも重なります。詩を書くためには、書きたいことを掴み、言葉を選び、詩ではないものも薪のように加えながら、自分にしか書けない詩を書きたいと願っていた永瀬さん。新しい季節を迎えるために、樹木を剪定するように自分の身の回りを整理していく。この詩を読むと十一月をそんなふうに過ごしてみたくなります。 <文・白根直子>
28-10-2024
#31 「梳り(くしけずり)」
詩「梳(くしけず)り」は、長い髪がもつれ乱れるように、「私」が「あなた」との間で迷い、疑い、思い悩む姿を書いています。髪をくしけずる、つまり櫛で髪をといて整えるように、「私」の心を整えたいと思っているのです。「私」の迷う心を言葉にしていくことで心が整理され、「私」の心がくっきりとしていきます。「私」と「あなた」を見つめるこの詩からは、掌編小説のような物語も見えてきます。自由に想像をひろげ、世界を見つめることができるのも詩のおもしろさではないでしょうか。<文・白根直子>
21-10-2024
#30 「吉井川によせて」
永瀬さんは、「吉井川によせて」の中で、吉井川を「古くてあたらしい女」だと表現しています。そして「お前はいつも私だ」と自分と重ねていることが印象的です。永瀬さんは、岡山県の三大河川である吉井川、旭川、高梁川を「美しい三人の姉妹」にたとえた詩も作っています。永瀬さんの暮らした赤磐市松木は吉井川が近くを流れることから、とりわけ親しみを感じ、日頃から詩人の目でみつめていたことが想像されます。<文・小林章子>
14-10-2024
#29 「秋の日に」
永瀬さんは、農業に勤しみながら、詩を作りました。永瀬さんの言葉は、実体験に基づく力強さがあります。<文・小林章子>
07-10-2024
#28 「草の実」
「草の実」は、1977年に「また」という題名で発表し、十数年かけて書き直していったものです。永瀬さんは、この作品で、10代の頃から詩を書き続けてきた半生を振り返っています。晩年の永瀬さんは、詩を書いてきたことが、「大きな何者かの計画どおりだった」。つまり何か目にみえない大きな存在に書かされていたのではないかと考えないではいられなかったようです。永瀬さんは、いい詩は暗唱できるとたびたび語っています。それは、心に深く刻み込まれるような言葉で書かれているからです。そのような言葉にたどりつくまで、永瀬さんは、どうしても書いておきたいことを、繰り返し話したり書いたりしています。また、詩として発表したものを詩集に入れるばかりではなく、随筆や短章として発表したものを詩に書き直しています。この「草の実」もそうした詩のひとつです。<文・白根直子>
30-09-2024
#27 「夜に燈ともし」
永瀬さんは、自分の詩に絵を添えた色紙を描いています。子どもの頃から絵を描くことが好きで、目に見えるように詩を書くことを心がけていた永瀬さん。この詩の一節に絵を添えた色紙が赤磐市に寄贈された資料の中にありました。皆が寝静まった夜に小さな明かりをともして詩を書いていたことを、淡い藍色の丸の中にシャーベットオレンジの丸が水彩絵の具で表現しています。一人で静かに過ごす夜、この詩がぐんと身近になるかもしれません。<文・白根直子>
23-09-2024
#26 「一粒の蓮の実」
この短章の冒頭にある「一粒の蓮の実を長く隠しておくことだよ」は、鮎川信夫さんの言葉です。永瀬さんは、17歳から詩を書きはじめ、詩という「一粒の蓮の実」を育てていました。そしてそれはすぐに実るような簡単な願いではありませんでした。その頃、短歌や俳句は女性の教養として認められていたのに、詩はそうではありません。出発点からして困難な道を選んでいたのです。50代の永瀬さんは、「詩人は何を報われるのか/だんだん年齢と共に困難をますその仕事のために何を努力するのか」と悩んでいました。この悩みに応えてくれたのは時間です。つまり、永瀬さんにとっては書き続けていくことでした。「一粒の蓮の実」は、永瀬さんが75歳の時に発表しています。体が不自由になってしまった夫と生活を支えながら、新聞や雑誌などに寄稿し、世界連邦運動、岡山女性史研究会、詩画展、講演、朗読会などで、非常に忙しい毎日でした。「一粒の蓮の実」では、「ある朝ふと眼がさめ、南の風に蓮の花のあやしくあまい匂いを嗅ぐ時」とタゴールの詩を引用しています。これは、永瀬さんが十代の頃に読んだ『ギタンジャリ』という詩集からで、最晩年になっても「最も好きな詩集の一つ」でした。「一粒の蓮の実」は、いつかきっとという気持ちを持ち続けることのすばらしさや、「時がほんの少しずつ達成していく事」、つまり「老いること」の意味や価値を、永瀬さんご自身の生き方とともに教えてくれます。<文・白根直子>
16-09-2024
#25 「老いたる友 c 八十才をすぎた友人のことば」
永瀬さんは、 2 歳の頃に父の仕事のため金沢に転居し、終戦の年に岡山に帰ってきたので、岡山には友達と呼べる人はいませんでした。そしてできた最初の友達は 1888 年生まれの杉山千代さん。永瀬さんとは親子ほど年が違いますが、それは関係ありませんでした。少しでも自分の至らないところを改めて、よりよく生きようとする杉山千代さんを深く尊敬していた永瀬さん。日々を新しく生きようと願う永瀬さんの心には、杉山千代さんの生き方が深く刻まれ響き合っていたように思えてなりません。<文・白根直子>
09-09-2024
#24 「貴方がたの島へ」
永瀬さんは、戦後間もない頃から、長島愛生園・邑久光明園・大島青松園の入所者の方々と詩を通じた交流をしていました。「貴方がたの島へ」は、永瀬さんが長島愛生園の機関誌『愛生』に発表した詩です。今年6月、この詩を朗読した俳優の竹下景子さんにうかがいました。「永瀬さんの詩は、人としての尊厳を高らかに謳い上げている。永瀬さんのその心意気にまずとても力をもらいました。同情するだけじゃないのよっていう、憐れんだりする、施しの気持ちだけじゃないのよっていう。もっと先に一緒にいこうよという強いメッセージを感じて、それはもう時代を越えて、もっといえば、いま同じように苦しんでいる人、弱い立場の人。ひと昔前は大きく男性と女性と分ければ、私たち女性もその弱いほうの立場にあって、今少しずつね、社会の中で状況が変わってきていますけど、そういった弱い立場にある人すべての人たちに向けての、これは応援歌だなと思って」<文・小林章子>
02-09-2024
#23 「わずかの時間に」
永瀬清子さんがこの詩を書いたのは、永瀬さんが63歳のとき。夏の終わりの風景に「とどまれ」と呼びかける場面が印象的です。永瀬さんは41歳のときに書いた「この夏の最後の詩 我夏を恋う、夏を恋う」の中でも、夏の終わりの美しい瞬間に「とどまれ」と願っていました。夏の終わりの美しさを紙に写し取る余裕のない年月は過ぎ、ようやくその瞬間を逃さず、紙と筆で捕えられるようになった喜びが書かれています。<文・小林章子>
26-08-2024
#22 「土に近く」「この夏の最後の詩 ー我夏(われ、なつ)を恋う、夏を恋う」
永瀬清子さんは、農業にも従事していました。「土に近く」というのは、日中の仕事においても、またこの詩にあるように夜寝ているときにさえ、感じていたことなのでしょう。永瀬さんの敬愛する作家、宮沢賢治も農業への造詣が深く「土に近い」という共通点がありました。永瀬さんの作品には、土に近い感覚があるからこそ表現できる命や宇宙があるように感じます。<文・小林章子>
19-08-2024
#21 「踊りの輪」
永瀬清子さんは、この「踊りの輪」を「盆踊りの時の詩」であるけれども「西洋の湖水のほとりみたいなところで、妖精の出てくるような土地のことを思いながら、書いていたという気持ちがする」と語ったことがあります。永瀬さんを研究する学芸員、白根直子さんは、「松木での暮らしと大正時代の『赤い鳥』で読んだ西洋が混ざっているイメージをお持ちだったようだ」と話しています。<文・小林章子>
12-08-2024
#20 「美しい国」
「美しい国」は終戦の翌年、昭和21年(1946年)10月に発表されました。永瀬さんは、終戦の翌年から次々と詩集を出版し、この「美しい国」を表題作とした詩集『美しい国』を、昭和23年(1948年)に出版しています。永瀬さんは「国や性別を超えて幅広い世代の人に届けたいという思い」を持っていました。そこで、英訳しても美しさがでるような詩を意識していたようです。永瀬さんの次女の井上奈緒さんは、「母が詩をつくるときには、『いつも英文に訳しやすいようにフレーズを考えているのよ』と話していた」と証言しています。この証言を受けて詩人の井坂洋子さんは、曖昧な表現ではなく目にみえるように具体的な言葉で書いていたとことを指摘しています。永瀬さんの詩の魅力は、こうした書き方にもあるということがわかります(文 白根直子さん)
05-08-2024
#19 「有事」
永瀬清子さんは、戦時中、軍の言論統制に悩まされていました。多くの詩人が、表現の自由を奪われた時代、永瀬さんは戦争を賛美する詩を他の詩人と同様に「辻詩集」に寄せています。「日本の妻はなげかない。/その時敵弾が彼をつらぬいたときいてさへ/なほその頬にはほほえみがのぼる。」 永瀬さんは戦時中の想いを1988年にRSKが制作した番組で語っています。 「情報局がきて必ず雑誌を見るわけ。表紙はこれではいけないとか、こんな言葉を使ったらいけないとかいちいちいわれるんですよ。だから書く気がしなくなるんです」「世の中がよくなることは望んでいましたけど、親や家を棄ててまでということにはならなかった。親や家を愛していた」 永瀬さんは自由に表現できないことの怖さをこの「有事」という詩に込めたのです。<文・小林章子>
29-07-2024
#18 「星座の娘」
永瀬さんが生きた時代は、女性の幸せは結婚で「良妻賢母」であることが世の中に認められる生き方でした。そして、永瀬さんは家を継がなければなりませんでした。永瀬さんにとって、詩人という生き方は、女学校を卒業したらすぐに結婚させたいと考える両親の愛情に反することになり、自分の理想と現実に引き裂かれるような思いでした。永瀬さんを研究する学芸員、白根直子さんは「星座の娘にある複雑な思いは、晩年の永瀬さんならばもう少しやわらかい言葉や表現で書いたはずで、全体的に少し硬い言葉や表現は娘時代の永瀬さんでなければ書けない。そういうところも初期の詩の魅力だ」と話しています。<文・小林章子>
22-07-2024
#17 短章「手さぐり人生」
「手さぐり人生」は、1980年、思潮社の短章集「焔に薪を」に掲載されています。夫を不満に思っていたことが娘の一言で後悔へとつながり、近所のおじさんのユーモアで笑い涙にかわる、永瀬さんの心の動きがまっすぐに伝わってきます。<文・小林章子>
15-07-2024
#16「私は地球」
永瀬さんの詩は、驚きや発見に満ちており、「私は地球」もそうした詩のひとつです。「私」と「地球」を等しく捉え、大きく広く、小さく狭く、視点を変えながら書かれています。たとえば、一人の愛は「ペンペン草のかげで雨やどりしているようなもの」と頼りなく弱いものです。ところが、その愛は「挫折の時に/ついに押しつつむ屍衣」、つまり、時としてどのようなことも受け入れて包み込む大きさ、強さとなるのです。「私」が秘めていた愛の力に驚かされます。詩人の井坂洋子さんは、「おどろく」「おどろく」と続いていることを、この詩の特徴の一つと指摘しています。「おどろく」は、リズミカルに、まるで「四十億年」という果てしない時間の中で受け継がれていく生命のように、この詩の中で繰り返されていきます。永瀬さんの詩に驚かされるのは、こうした視点と表現にもあるのではないでしょうか。<文・白根直子さん>
08-07-2024
#15「歓呼の波」
昭和十二年、1937年。この年のことを、永瀬さんは自筆の年譜に書いています。「二月、次女奈緒生まれる。三月、父歿(ぼつ)、六月、舅歿、七月、支那事変はじまり夫の応召(おうしょう)、東京駅は兵隊と歓送者とで身動きもできぬほどであった。夫は岡山四十八聯隊へ入隊。秋、夫は中国へ出征した。夫は保定の激戦の直前、肺浸潤のため後退し、危うく全滅をまぬかれた」永瀬さんにとって激動の一年となった昭和十二年。産後間もなく実の父と義理の父を相次いで亡くし、夫の出征を見送った永瀬さん。当時の思いを1988年、RSKの番組で語っています。「みんなの歓呼の中を出て行きまして、こんなにみんなの歓呼で送り出すのは間違っているのではと一人苦に思いましたけど思うようにできなかった」「歓呼の波」には、永瀬さんの胸を締め付けられるような思いが込められています。<文 小林章子>