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永瀬清子の世界
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岡山県出身の詩人・永瀬清子さんの詩をRSKアナウンサー 小林章子の朗読でお届けします。 どんな景色が心に浮かぶでしょう? 人生のステージや生活に合わせて読むことができる永瀬さんの詩の世界。 多感な時期の悩み、結婚、両親、夫や子供など家族のこと、生活の中での驚きや発見、山や川、植物や天体など自然について、世の中について、老いについて。 永瀬さんの詩は、過去の自分を振り返ったり、これから行く道の道しるべにしたり、人生を一緒に歩いてくれるようです。
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アート
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6日前
#23 「わずかの時間に」
永瀬清子さんがこの詩を書いたのは、永瀬さんが63歳のとき。夏の終わりの風景に「とどまれ」と呼びかける場面が印象的です。永瀬さんは41歳のときに書いた「この夏の最後の詩 我夏を恋う、夏を恋う」の中でも、夏の終わりの美しい瞬間に「とどまれ」と願っていました。夏の終わりの美しさを紙に写し取る余裕のない年月は過ぎ、ようやくその瞬間を逃さず、紙と筆で捕えられるようになった喜びが書かれています。<文・小林章子>
エピソード
6日前
#23 「わずかの時間に」
永瀬清子さんがこの詩を書いたのは、永瀬さんが63歳のとき。夏の終わりの風景に「とどまれ」と呼びかける場面が印象的です。永瀬さんは41歳のときに書いた「この夏の最後の詩 我夏を恋う、夏を恋う」の中でも、夏の終わりの美しい瞬間に「とどまれ」と願っていました。夏の終わりの美しさを紙に写し取る余裕のない年月は過ぎ、ようやくその瞬間を逃さず、紙と筆で捕えられるようになった喜びが書かれています。<文・小林章子>
26-08-2024
#22 「土に近く」「この夏の最後の詩 ー我夏(われ、なつ)を恋う、夏を恋う」
永瀬清子さんは、農業にも従事していました。「土に近く」というのは、日中の仕事においても、またこの詩にあるように夜寝ているときにさえ、感じていたことなのでしょう。永瀬さんの敬愛する作家、宮沢賢治も農業への造詣が深く「土に近い」という共通点がありました。永瀬さんの作品には、土に近い感覚があるからこそ表現できる命や宇宙があるように感じます。<文・小林章子>
19-08-2024
#21 「踊りの輪」
永瀬清子さんは、この「踊りの輪」を「盆踊りの時の詩」であるけれども「西洋の湖水のほとりみたいなところで、妖精の出てくるような土地のことを思いながら、書いていたという気持ちがする」と語ったことがあります。永瀬さんを研究する学芸員、白根直子さんは、「松木での暮らしと大正時代の『赤い鳥』で読んだ西洋が混ざっているイメージをお持ちだったようだ」と話しています。<文・小林章子>
12-08-2024
#20 「美しい国」
「美しい国」は終戦の翌年、昭和21年(1946年)10月に発表されました。永瀬さんは、終戦の翌年から次々と詩集を出版し、この「美しい国」を表題作とした詩集『美しい国』を、昭和23年(1948年)に出版しています。永瀬さんは「国や性別を超えて幅広い世代の人に届けたいという思い」を持っていました。そこで、英訳しても美しさがでるような詩を意識していたようです。永瀬さんの次女の井上奈緒さんは、「母が詩をつくるときには、『いつも英文に訳しやすいようにフレーズを考えているのよ』と話していた」と証言しています。この証言を受けて詩人の井坂洋子さんは、曖昧な表現ではなく目にみえるように具体的な言葉で書いていたとことを指摘しています。永瀬さんの詩の魅力は、こうした書き方にもあるということがわかります(文 白根直子さん)
05-08-2024
#19 「有事」
永瀬清子さんは、戦時中、軍の言論統制に悩まされていました。多くの詩人が、表現の自由を奪われた時代、永瀬さんは戦争を賛美する詩を他の詩人と同様に「辻詩集」に寄せています。「日本の妻はなげかない。/その時敵弾が彼をつらぬいたときいてさへ/なほその頬にはほほえみがのぼる。」 永瀬さんは戦時中の想いを1988年にRSKが制作した番組で語っています。 「情報局がきて必ず雑誌を見るわけ。表紙はこれではいけないとか、こんな言葉を使ったらいけないとかいちいちいわれるんですよ。だから書く気がしなくなるんです」「世の中がよくなることは望んでいましたけど、親や家を棄ててまでということにはならなかった。親や家を愛していた」 永瀬さんは自由に表現できないことの怖さをこの「有事」という詩に込めたのです。<文・小林章子>
29-07-2024
#18 「星座の娘」
永瀬さんが生きた時代は、女性の幸せは結婚で「良妻賢母」であることが世の中に認められる生き方でした。そして、永瀬さんは家を継がなければなりませんでした。永瀬さんにとって、詩人という生き方は、女学校を卒業したらすぐに結婚させたいと考える両親の愛情に反することになり、自分の理想と現実に引き裂かれるような思いでした。永瀬さんを研究する学芸員、白根直子さんは「星座の娘にある複雑な思いは、晩年の永瀬さんならばもう少しやわらかい言葉や表現で書いたはずで、全体的に少し硬い言葉や表現は娘時代の永瀬さんでなければ書けない。そういうところも初期の詩の魅力だ」と話しています。<文・小林章子>
22-07-2024
#17 短章「手さぐり人生」
「手さぐり人生」は、1980年、思潮社の短章集「焔に薪を」に掲載されています。夫を不満に思っていたことが娘の一言で後悔へとつながり、近所のおじさんのユーモアで笑い涙にかわる、永瀬さんの心の動きがまっすぐに伝わってきます。<文・小林章子>
15-07-2024
#16「私は地球」
永瀬さんの詩は、驚きや発見に満ちており、「私は地球」もそうした詩のひとつです。「私」と「地球」を等しく捉え、大きく広く、小さく狭く、視点を変えながら書かれています。たとえば、一人の愛は「ペンペン草のかげで雨やどりしているようなもの」と頼りなく弱いものです。ところが、その愛は「挫折の時に/ついに押しつつむ屍衣」、つまり、時としてどのようなことも受け入れて包み込む大きさ、強さとなるのです。「私」が秘めていた愛の力に驚かされます。詩人の井坂洋子さんは、「おどろく」「おどろく」と続いていることを、この詩の特徴の一つと指摘しています。「おどろく」は、リズミカルに、まるで「四十億年」という果てしない時間の中で受け継がれていく生命のように、この詩の中で繰り返されていきます。永瀬さんの詩に驚かされるのは、こうした視点と表現にもあるのではないでしょうか。<文・白根直子さん>
08-07-2024
#15「歓呼の波」
昭和十二年、1937年。この年のことを、永瀬さんは自筆の年譜に書いています。「二月、次女奈緒生まれる。三月、父歿(ぼつ)、六月、舅歿、七月、支那事変はじまり夫の応召(おうしょう)、東京駅は兵隊と歓送者とで身動きもできぬほどであった。夫は岡山四十八聯隊へ入隊。秋、夫は中国へ出征した。夫は保定の激戦の直前、肺浸潤のため後退し、危うく全滅をまぬかれた」永瀬さんにとって激動の一年となった昭和十二年。産後間もなく実の父と義理の父を相次いで亡くし、夫の出征を見送った永瀬さん。当時の思いを1988年、RSKの番組で語っています。「みんなの歓呼の中を出て行きまして、こんなにみんなの歓呼で送り出すのは間違っているのではと一人苦に思いましたけど思うようにできなかった」「歓呼の波」には、永瀬さんの胸を締め付けられるような思いが込められています。<文 小林章子>
01-07-2024
#14「七月」
永瀬清子さんは、随筆「小鳥と花の意味」に、岡山出身で小鳥博士といわれる川村多実二(かわむらたみじ)さんの言葉を引用して詩を書くことへの決意を表明しています。「『花の美しいのは地球の春をかざるため、小鳥の啼くのも地上の春をかざるため。だからご覧、その相互関係のため人間の存在によって花は一層美しくなりうるのだ』と。私はこれをきいて一つの救いに出あった事を感じた。私たち詩を書く者が希望を失って、何のために書くのだとつぶやく事はもういらない。私が詩を書く事、それはきっと宇宙のためなのだから。私がその川村学説を自分の小さい詩の雑誌に書いた時、若い同人たちの注意はすこしも惹かなかったが、ずっと前に詩を書くのをやめた古い私の友がすぐ手紙をよこした。『私にとってなんと嬉しい報せだったでしょう。あなたは私の為したすべての事は失敗ではなくて必要な事だったとはげまして下さったの。なぜなら私の仕事はすこしも世間の役に立たなかったにしろ、私のせい一杯で地上を飾ることだったのですもの。小鳥の声と同じに』。(中略)力一杯に生き、又苦しんだら、耳に入った僅かの言葉からも必要な喜びや助けが汲みとれるとしたら、或は一篇の詩も同じその助けになるかもしれない」。<文 小林章子>
24-06-2024
#13「合唱組曲「燃える故郷」五章 やけこげの」
お聴きいただいているのは、永瀬清子さんが作詞、木下そんきさんが作曲し、1981年6月、岡山合唱団により初演された合唱組曲「燃える故郷」のうち五章「 やけこげの」です。この組曲は、1945年6月29日の岡山空襲を伝えるもので、七章で構成されています。五章「やけこげの」には、苦しい生活の中でも希望をもって暮らす子どもの姿が描かれています。多くの人に読まれている「降りつむ」という詩にもつながるような希望や励ましがあり、苦しみから立ち上がろうとする姿が印象的です。永瀬さんは、自身の戦争体験を詩や随筆などに綴り講演会で語るだけではなく、岡山の女性たちによる証言集も出版しています。永瀬さんは、尊敬する宮沢賢治の「ヨクミキキシワカリソシテワスレズ」を生涯にわたり心がけていましたが、戦争体験についても記憶し記録しています。<文 白根直子>
17-06-2024
#12「六月の夜」
この詩は、六月の夜、川沿いのポストに投函するときの様子を描いたものですが、永瀬さんは随筆「美しい夏至」の中にも、川沿いのポストへ投函にゆくときのことを書いています。「夕食後うす闇のころ、私の家の近くを流れ岡山市内を貫流する西川という用水の下手の橋の所まで手紙を入れにいった。家の近くの橋で川むこうにわたり、川沿いの道を下っていくと川幅はそのあたりで五、六メートルはあり、水無月(みなづき)の川はなみなみと水量がある。ふと気づくと道のまんなかに昼間の雨でできた浅い水たまりがあり、その中で何かひどくばたついている様子。夕あかりですかしてみると、水たまりにほとんどいっぱいになって四十センチ以上もある大きな魚がはねている。私はあまりめずらしいのですぐ近くの煙草屋さんへいき、ちょっと来てごらんなさい、と言うとすぐ三、四人の人が飛び出して来てすばやく用意のタモで押えた。それはひげのある正真正銘のナマズであった」「六月の夜」の出来事を表した詩と随筆から、永瀬さんの解放感と旺盛な好奇心が伝わってきます。<文・小林章子>
11-06-2024
#11「揺れさだまる星」
「揺れさだまる星」では、永瀬さんが田植えのために水を引いていた時、前日に読んだ伊東静雄の詩の世界が自分の目の前に現れた驚きを書いています。「いろんな事を知らないでいる人と知っている人とでは同じ道を歩いても深さがちがう」「つらい世の中を忍耐してゆく時にも小さなよろこびを知っている人は強い」と考えていたからこそ、感じることができました。<文 白根直子>
03-06-2024
#10「イトハルカナル海ノゴトク」
永瀬清子さんと生前交流のあった詩人・谷川俊太郎さんは「イトハルカナル海ノゴトク」の決然とした口調に魅せられたといいます。<谷川俊太郎さんインタビュー>「永瀬さんとの関わりあいというのは、僕は小学生のときからなんですよ。私の父が永瀬清子さんの詩が好きで、永瀬さんの詩集を書庫に置いていたのね。で、僕が他人のものに関心を持ったときに永瀬清子の詩集があったもんだから、それで読み始めて、ほかの現代詩とちょっと違うところがあって、いいなと思ったんですよ。それが始まり」―ちょっと違うところというのは、どういうところでしょうか。「永瀬さんは女性としての、なんか、仕事とか生活に、なんか、なんていうのかな、離れないで詩を書いていらっしゃるから、当時の現代詩っていうのはもっとずっとみんな抽象的だったんですね。だから永瀬さんの詩がとても普通な人間の暮らしに根付いているというところが、新鮮だったわけ」
27-05-2024
#9「わが麦」
永瀬さんは、麦の収穫について書いた詩や随筆なども残しました。たとえば随筆「麦刈日記」(『女詩人の手帖』日本文教出版 1952 年)には、夫や子どもたちと麦を刈りとって荷車で運び、玄関に積み重ねたことを書いています。この詩では、「おまえは黄金色の絃なんだ。/思いのままに鎌で弾く瞬間なんだ。」と、チェロを演奏するかのように、夕暮れに一人で麦を刈っている「私」の姿を表現しており、まるで一枚の絵のようです。永瀬さんは、かつて「宮澤賢治はどう考へても絶えず音楽を胸にかなでてゐた所の詩人である。」(「宮澤賢治の韻律」『宮澤賢治研究』第 1 号 1935 年 4 月)と評していました。農作業を通じていっそう宮澤賢治を慕い、魅力を発見していた永瀬さん。麦刈りを演奏にたとえる永瀬さん自身も、胸に音楽を奏でていた詩人なのだと思います。<文・白根直子>
20-05-2024
#8「植林の詩(うた)」
永瀬清子さんは、1950年の随筆「山刈り」の中に、植林の前、山全体にびっしり生えつまった「女子竹(おなごだけ)」を刈り取ったことを書いています。女子竹を初めて見て「筆の軸!ああこれは大変な天然資源ではないのかな、或いは天然記念物ではないのかな」と驚き、そのときの山の様子を「生えつまっていても竹なので、なんとなくすき通り、奥行きが明るくて葉ずれの音と一緒に金色の陽の光がチラチラしている」と表現しています。永瀬さんは、山仕事の中にもユーモアや美しさを見出し、その感動が作品となっています。
13-05-2024
#7「アンターレス さそり座への願い」
この詩は、永瀬さんが亡くなる2年前の1993年5月に発表し、没後直ちに出た詩集『春になればうぐいすと同じに』に収録されました。この詩に書いたお母さんのエピソードは、永瀬さんが随筆や短章に書き、講演で何度も語っている大切なエピソードのひとつです。永瀬さんは、この詩を発表した一年半後、1994年11月に井原市文学賞の選考中に倒れて入院しました。まるで自分の最期を予言するかのようです。永瀬さんは、1995年2月17日の誕生日、午前6時25分にこの世を去りました。その時の空を星図で再現すると、「アンターレス」がありました。永瀬さんの詩に登場する火星、木星、金星、月などの天体も空にあり、まるで天に帰る永瀬さんを見守るかのようでした。<文・小林章子>
06-05-2024
#6「めぐってくる五月には」
「めぐってくる五月には」は、1990年、思潮社が出版した現代詩文庫の『永瀬清子詩集』に収録されています。永瀬さんを長年研究する赤磐市教育委員会の学芸員・白根直子さんは「草木の緑が燃えるように鮮やかになる五月。新しい季節を迎えると、自分自身も新しく生まれ変わるような気がします。そんな季節のめぐりのように、何度でも立ち上がり、やり直していこうとする姿に励まされる詩」だといいます。永瀬さんの詩は、時を越えて読む人を励ましてくれます。<文・小林章子>
29-04-2024
#5「流れるごとく書けよ」
エピソードの説明はありません
21-04-2024
#4「大いなる樹木」
「大いなる樹木」は1947年に出版された第三詩集の題名にもなった代表的な詩です。1945年の岡山空襲で永瀬さんの自宅は焼け残りましたが、戦後は現在の赤磐市松木の生家に移り、慣れない農業に勤しみます。そうした時代に、大いなる樹木のようであろうとした永瀬さんの決意は並々ならぬものであったと想像します。 <文・小林章子>