あなたのいない夕暮れに 〜新訳:エミリー・ディキンソン

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「あなたのいない夕暮れに」は、世界の名詩を現代にあわせた新訳でお届けするボイスレターです。第一弾は、南北戦争の時代を生きたアメリカの詩人エミリー・ディキンソン。 彼女は生涯を自然の中の家の中で白いドレスを着て過ごし、ほとんど外にでることがなく、窓から差し込む光を頼りに詩作を続けました。 文:小谷ふみ 朗読:天野さえか 絵:黒坂麻衣 read less
アートアート

エピソード

【短編映画】あなたのいない夕暮れに 〜新訳:エミリー・ディキンソン
10-01-2024
【短編映画】あなたのいない夕暮れに 〜新訳:エミリー・ディキンソン
メッセージ 南北戦争の時代を生きたアメリカの詩人に、エミリー・ディキンソンという女性がいます。彼女は生涯を自然の中の家の中で白いドレスを着て過ごし、ほとんど外にでることなく、窓から差し込む光を頼りに詩作を続けました。 わたしたちはその生き方から、自分の心の中にある壊れそうなものを現実世界の棘のようなものから守りたいという気持ちと、それでも創作を通じて現実世界と関わりたいという祈りのような気持ちの両方を感じます。 その生き方から着想し、1つの映画と2つのドレスが生まれました。 ディキンソンの詩を新訳したこの朗読短編映画「あなたのいない夕暮れに」。 私達がforget me notそしてtouch me notと名付けたオートクチュールの技法をつかって作られた2つのドレス。 現実と理想、幸と不幸が重なりあい揺れながら、世界を生きているあなたの心のよすがになりますように。 出演 天野さえか寺田ゆりか スタッフ 衣装:田中美帆(May & June)ヘア&メイク:茂手山貴子撮影:帆志麻彩(yori.so gallery & label)音楽:横山起朗ジュエリー協力:Ryui英語字幕:天野さえか韓国語字幕:渡辺奈緒子脚本:小谷ふみ監督・編集:高崎健司(yori.so gallery & label) 撮影協力 gallery room yori.soシラハマ校舎秋谷・立石海岸長野県蓼科四季の森ホテル produced by yori.so gallery & labelwith love for Emily Dickinson
エミリー・ディキンソン「傷つく誰かの心を守れたなら」
11-08-2022
エミリー・ディキンソン「傷つく誰かの心を守れたなら」
こんにちは。   強い日差しにカーッと照りつけられたり、急な雨にザーッと降られたり、あわただしく交互に使う日傘と雨傘を、晴雨兼用ひとつの傘にしたら、どんな空もさあ来いや、と思えるようになりました。   今月、私はまたひとつ年を取ります。半世紀近く生きても、心の中の日照りや大雨、どちらにも使える心の傘は、なかなか見つからないものですね。おかわりありませんか。   先日、数々の引越しとともに、我が家の食器棚にあり続けた、りんごの形の白いお皿を割ってしまいました。それから、あまり時間をたたず、家族が大切にしているお茶碗も......。   なかなか打ち明けることができず、お茶碗を使わずに済む、丼やカレー、麺ものなどを食卓に並べ続けましたが、2週間が限界でした。なんとか、修理したお茶碗を手に謝ることができ、「形ある ものは、いつか壊れるから」という言葉に、一瞬救われました。でも、見る度に傷跡は痛々しく、胸の内にもヒビが入ったように、ため息が漏れ出ます。   この感じは、持病が再発したり、いつもの道で大怪我をしたり、町で知らないおじさんに急に怒鳴られたり、親しくしていた人との関係が修復できなくなったり......目には見えない壊れたもの の破片で、心に傷がついた時の感覚によく似ています。   こんなことなら、ずっと使わず、棚の奥にしまっておけばよかったのか。そんなことも頭によぎります。あれがよくなったのか、これがよくなかったのかと、ぐるぐる考え、つまるところ、もう、物事に波風立たぬよう、自分の心が揺れないよう、どこにも行かず、誰にも会わず、ただじっとしていればいいのか、と。   形があるものは、いつか壊れる。形がなくても、傷つくし、元には戻せない状態になってしまうことがあります。でも、それを恐れて、ずっと棚の中に居たら、それでは生きていることにならない。物も、人も、この世界に降り立ったら、傷つきながら、壊れながら、何もせずにはいられないのだなと、半ば諦めのような、覚悟の決まらないヤセ我慢のような心境になりました。   どうにかくっついた傷を、「これは私の生きた印」なんて思えるようになるには、時間がかかります。それでも、お茶碗も、私も、まだ、がんばれそうです。   こんなこともあり、この夏は誕生日を前に、最近の私のテーマである、ちゃんと「使い切る」という意識がより強くなったように感じます。それは、エコ的な意味とはちょっと違うものです。昔から、気に入った布やシール、好みの便箋や葉書を集めては、ただ眺めるのが好きだったのですが、ある日、私がいなくなったら、これらは必要なくなったものとして処分されるのだと、せつない気持ちになりました。   ならば、自分でちゃんと使い切ろう、物がこの物であることを、まっとうさせてやろうと、真剣に、目の前の布の気持ちになったりして。   今は、彼らのベストな使われ方を考えるのが楽しいです。ミシンの登場も、手紙や葉書を出す頻度も、増えました。   同じように、私の拙い言葉を添え、あなたにおくってきた詩は、私の心が小さく集めてきたもの です。言葉が手紙の風に乗り、私のかわりに、あなたに会いに行ってくれていたわけですが、離れていても、便箋の四角い窓から同じ景色を眺めることができたなら、書いてよかったと思えそうです。 こうやって、自分が得てきたものを、何かのために手放してゆけたら、どんなにいいでしょう。おこがましい願いというのは承知で、この命もまた。   今日は、そんな切なる願いを託した詩を、おくります。   > If I can stop one heart from breaking,   > I shall not live in vain;   > If I can ease one life the aching,   > Or cool one pain,   > Or help one fainting robin  > Unto his nest again,   > I shall not live in vain.     >    > 傷つく誰かの心を 守れたなら   > 生きてよかった きっとそう思える   > 生きる痛みを 和らげることが できたなら   > 苦しみを 癒やすことが できたなら   > ぐったりした コマドリを   > 巣に戻してやることが できたなら   > 生きてよかった きっとそう思える   ......とはいえ、私たちは、毎日毎日、生活しているだけで、あっちこっち壊れたり、いろいろ割れたり、もう、大小さまざま傷だらけ。今日を、明日に渡す、それだけで精一杯な日も。   自分も、みんな、大きらい、そんな夜もあります。   与えられた日々を使い切る道すがら、何かの誰かの「ためになる」のは、自分を生きる、そのおまけくらいでいい。でも、そのおまけの、魅力と威力たるや。   何かのために、生きたい。誰かに、必要とされていたい。ここに、時に本体をしのぐ、大いなる付録が隠されているわけです。   子どもが夢中になる、おまけがすてきな、お菓子のように。     でも、たいそうなものになろうとしなくても、先ずは、自らの命の歩みを。   前向きも、後ろ向きも、足ぶみだって、自分の歩み。   その道すがら、目の前で転ぶ人に、そっと手を差し伸べられたなら、   隣で涙を流さず泣く人の、背中をさすれたなら、   それで十分。   そうやって、世界は、   傷つけ、傷つけられ、反対側では、救い、救われ、   自ずと、お互いさまを、巡ってゆくでしょう。   それはまるで、「好き、嫌い、好き、嫌い......」を繰り返す、 いつかの花占いのように。   どうか、あなたが、     世界に、自分自身に、   差し出すさいごの一枚が、「好き」で、ありますように。   追伸   あなたのいない夕暮れに、   手紙を出しに家を出る時はいつも、   日傘も、雨傘も、晴雨兼用の傘もいらない、   しばし、世界中のかなしみを忘れてしまうほどの、   夕焼けの空でした。   ありがとう。   文:小谷ふみ   朗読:天野さえか   絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「夜明けがいつ来てもいいように」
07-07-2022
エミリー・ディキンソン「夜明けがいつ来てもいいように」
こんにちは。   ひと晩で、舞台の背景セットが変わったように、雨雲が跡形もなく消え、夏の空が一気に広がりました。はしゃいで、一年ぶりにノースリーブのワンピースを着てみたら、二の腕が驚くほど太くなっていて、戸惑っています。冬の間に蓄えた脂肪が、夏の眩しすぎる光に、さらされています。   おかわりありませんか。    先日、この夏空のように、突然のお客さまを、我が家にお迎えしました。この機会を逃したら、今後、会えるか分からない。そんな奇跡的なタイミングは、ある日の夕方やって来ました。   それは、旅先から、我が家を経由して、帰路に着く計画。こちらは、予告ありの流れ星を受けとめるような、高揚感と緊張感。   でも、あと3時間で駅に着くとの連絡をもらった時、リビングには、まだしまっていない冬の暖房器具、梅雨前に洗いそびれたこたつカバー、既に登場している扇風機や風鈴、繕い途中の浴衣……ひと部屋に、春夏秋冬、全員集合している状態でした。くわえて、食材の買い出しと、食事の準備もせねばならない。   うちには、こんな時に頼りになる、小さな部屋があります。日ごろ「ゲストルーム」と呼んでいますが、ここにゲストを迎えたことは、いまだ一度もありません。   この部屋は、家族がインフルエンザになったら隔離・療養施設になり、筋トレに目覚めれば、違う自分に着替えられる魔法のクローゼットになります。そして、お客さまが来た時には、散らかったものを押し込む部屋になります。つまり、「ゲストが来た時、散らかりを隠すルーム」であるところの「ゲストルーム」なのです。   とにかく、リビングでくつろぐ四季たちを、この部屋に手際よく誘導したら、あとは、お客さまをお迎えすることに集中。おかげで、料理にも手をかけられ、ともに食卓を囲み、できる限りのおもてなしすることができました。   そして、電車を乗り継ぎ3時間以上かけてやって来た流れ星は、わずか1時間ちょっとの滞在ののち、最終の新幹線、時速300キロの風をつかまえ、帰ってゆきました。   「短い時間だったけど、いい時間を過ごしてもらえたかな」と、心地よい疲れと、余韻に浸る深夜。でも、トイレと隣り合う、ゲストルームのもうひとつの扉が全開で、中が丸見えだったことに気がついたのは、無事に帰宅したとのお礼の連絡を受けた後でした。   「会える」ということは、日ごろ、別々に流れている互いの時間が、重なること。   それは、前々からすり合わせられることもあれば、突然に互いの流れが合い出すこともあります。   「さあ、いつでもどうぞ」と、いつ誰が来ても準備万端、どこの扉が開いても大丈夫、そんな風に過ごせたら、どんなにいいだろうといつも思っています。でも実際は、なかなかそうはいきません。   今日は、いつやって来るか分からない、   出会いへのそなえを、はっと思い出させてくれる、   そんな詩を送ります。   > Not knowing when the Dawn will come   > I open every Door,   > Or has it Feathers, like a Bird,   > Or Billows, like a Shoreー   >    > 夜明けが いつ来てもいいように   > あらゆる扉を 開けておく   > 夜明けは   > 鳥のように 羽ばたいて   > 浜辺のように 波よせるから   薄紫に明けてゆく空を見つめる気持ちで、会いたかった誰かを待つ。   朝焼けする胸のおく、「この自分でお迎えして大丈夫かな」、そんなちょっとした不安な気持ちも、見え隠れしながら。   そんな時のため、   散らかった気持ちを、隠してくれる、   見せないでおきたい闇を、見えなくしてくれる、   そんな駆け込み寺のような、秘密の小部屋を、   心やどこかに、持ちながら。   でも、その扉は、閉め忘れずに。   二の腕の準備が整うまでのしばしの間、   夏色のカーディガンを、羽織っておこうと思います。   また手紙を書きます。   あなたのいない夕暮れに。 文:小谷ふみ   朗読:天野さえか   絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「蜘蛛が銀の玉 ひとつ抱きかかえ」
13-06-2022
エミリー・ディキンソン「蜘蛛が銀の玉 ひとつ抱きかかえ」
こんにちは。   灰色の空が広がり、お天気ぐずつく日が増えてきました。空のご機嫌に振り回されて、体調や気分が、すっきり晴れない日も多くあります。おかわりありませんか。   先日、雨あがりの遊歩道の植え込みに、十以上の小さな蜘蛛の巣ができていました。レースのような巣には一面、小さな雨の丸いしずくがくっついて、そのひとつひとつが、日の光にキラキラ輝いていました。まるで、銀色に光る、雨後のオセロ大会のようでした。   この時期は、雨の恵みを得て、草木が育ち、虫の活動も活発になってきますね。働くアリの数も増え、花から花へ舞う蝶や、クローバーに集まる小さなハチ、そして、できれば、家の中に入って来て欲しくない虫も……その対策も、そろそろ始めなくてはいけないころです。   数年前、家族がムカデにかまれたことがありました。玄関で靴を脱ぎ、スリッパをはいた瞬間、痛みに叫び出し、こちらは何が起こったか分からず、おろおろ。その瞬間、見たことのない大きなムカデが、マッハのスピードでリビングの奥へと走り去るのが見えました。   救急センターへ電話しながら、腫れあがる足を応急処置。幸い、大事には至りませんでしたが、その後、カーテンが揺れるだけで大騒ぎするほど、取り逃した大ムカデに、しばらく怯えて過ごしました。アナフィラキシー症候群の心配もあり、今もムカデを見ると過剰に反応してしまいます。   私の住む場所は、自然が豊かなのはいいのですが、いろんな虫が家の中に入ってきます。でも、考えてみれば、私たちの方が、後から引っ越して来たわけで、彼らの場所にお邪魔しているのは、こちらの方なのでは、と思うようになりました。   それからというもの、虫のみなさんになるべく迷惑をかけぬよう、家の周りに結界を張るがごとく、自衛を心がけるようになりました。具体的には、玄関に虫の好まないハーブを植えたり、窓を開けるたび、ハッカスプレーをシュッとひと吹きしたり。心なしか、思わぬ遭遇に悲鳴をあげることが減りました。家のなかに、爽やかな香りも広がり、一石二鳥です。   ハーブやハッカに、全くおかまいなしの様子なのは、蜘蛛です。家の中、外、かまわず、よく巣を作ります。でも、お互いに使わない空間を共有しているので、現役の巣は、そのままにしています。そして、空き家になったものは、もういいよねと取り去るようにしています。   どこにいようとも、自分の世界を、淡々と作り上げる蜘蛛。     今日は、銀の糸が織りなす、儚い宇宙を感じる詩をおくります。   > The Spider holds a Silver Ball   > In unperceived Hands ―   > And dancing softly to Himself   > His Yarn of Pearl ― unwinds ―   >    > He plies from nought to nought ―   > In unsubstantial Trade ―   > Supplants our Tapestries with His ―   > In half the period ―   >    > An Hour to rear supreme   > His Continents of Light ―   > Then dangle from the Housewife's Broom ―   > His Boundaries ― forgot ―   >    > 蜘蛛が 銀の玉 ひとつ 抱きかかえ   > 手のうち 見せぬまま   > ひとり 軽やかに おどりながら   > 真珠の糸を ほどいてゆく   >    > 何もないところから   > 何もないところへと   > 編みあげてゆく   > 命をつむぐ そのためだけに   > 気づけばもう   > 壁の飾りに 取ってかわって   >    > 1時間もすれば それはすばらしい   > 光とひと続きの世界が できあがる   > つぎの瞬間 家のひとの ほうきに ぶらり   > 世界の継ぎ目は もう過去のもの   よく晴れたある日、近くの森におじゃましたときのことです。歩き疲れ、座ったきりかぶに、先客がいました。ムカデです。一瞬ドキッとしましたが、森のムカデは、日光を浴びながら、ひたすら、ぼーっとしていました。どれが手か足か分からないですが、時折、もぞっと手足を動かしながら。   あの日、スリッパの大ムカデは、私たち以上に、びっくりし、怖かったのではないか。本来は、こんなにも、のんびりした生きものなのに……ごめんよと思いながら、森のひとときを、ともに過ごしました。   穏やかに、そっと暮らしていたいだけ。   その気持ちは、虫も、人も、同じなのですよね。   この手前は、私の世界。   その先は、あなたの世界。   互いの世界の境界線を、探りながら、   ひとつの世界を、分けあえたなら。   でも、ひとつを共有することは、   人同士となれば、さらに難しい。   気づけば、際の、せめぎ合い。   心を開け放しても、安心していられるハッカの香りが、   心の窓際にも、シュッとひと吹き、欲しいときがあります。   お互いに、「いい自分」のままで、いられるために。   一方で、ハッカをまいても、まかなくても、   おかまいなしの気ままな関係にも、憧れながら。   そして、一度でいいから、あの透き通る銀の玉を、   腕いっぱい、抱きかかえてみたいものです。   ハッカの香りは、夏の、心の、窓が開く合図。   あなたの元にも、届きますように。   また手紙を書きます。   あなたのいない夕暮れに。   文:小谷ふみ   朗読:天野さえか   絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「草原をつくるなら クローバーとミツバチを」
12-05-2022
エミリー・ディキンソン「草原をつくるなら クローバーとミツバチを」
こんにちは。 日を追うごと、草木がぐんぐん育ち、うす緑色だった柔らかな葉っぱも、その濃さと力強さを増しています。見ているだけで、元気を分けてもらえそうですね。おかわりありませんか。命の息吹を、そこかしこに感じる5月、私はいくつかの記念日を迎えます。 毎年、この時期になると、春の大掃除をしながら、棚の奥のホコリっぽくなった思い出ボックスを取り出します。そして、1年ぶりの思い出と再会し、また新たに、この1年に得た記憶を箱につめます。今年は、さらに手を伸ばし、棚のもっと奥に眠る、ボロボロの箱を開いてみました。 そこには、学生時代の寄せ書きや、友達にもらった特別なお土産などが入っています。それは、沖縄の星の砂の入った小瓶、デンマークの街並みのスノードーム、アフリカの動物のキーホルダーなど、時代も、国も、さまざま。私のものではない、旅の思い出。私には、難しい病が眠っているので、大きな旅に出ることは叶いません。でも、沖縄の海がテレビに映れば、星の砂の感触が、本の舞台がデンマークの街ならば、スノードームに舞う雪が……遠い昔、そこにいたことがあるかのように、わずかな懐かしさが、胸に広がります。 旅のかけらを集めた箱の中は、小さくても、私の世界そのものなのです。箱の奥をさらに掘り進めると、小さな金の大仏が10体、発掘されました。 一瞬ギョッとしましたが、これらは、小学校の社会科見学の鎌倉で、自分が買ったものです。5センチほどの大きさながら、精巧にできたお姿に心惹かれ、自分と家族、塾の友達のお土産にと選んだのでした。 でも、渡すタイミングを逃すこと、四半世紀以上。箱のフタを開くたび、ギョッとして、「このチョイスは……」と、過去の自分への言葉を飲み込みます。 そして、心の中で、「ありがたく、ここまで歳を重ねております」と手を合わせ、秘密の仏殿の扉を、ふたたび閉じるのでした。他にも、もう会えない彼女がくれた、オレンジ色の花束のリボン、涙も笑いも共にしてきたのに、1つだけ欠けてしまったお揃いのマグカップ。どれも、誰かにとっては、ガラクタのようなもの。でもそれが、自分にとっては、思い出のものであったり、どうしても捨てられないもの、また、特別な思い入れがあるものなのです。「これは世界のかけら」また「これは思い出のしっぽ」と言って、ガラクタは増えてゆく一方。でも、いつか、ある時、たったひとつを残し、すべてを手放そうと思っています。さいごのさいごに、手にしていたいものは、何だろう。自分に問いながら、その「たったひとつ」とは、まだ出会えていないような、すでに持っているような。それが分かるまで、今しばらくは、小さなガラクタを集めてしまいそうです。果てのない想像の世界へと、 はたまた、底のない深き思い出へと、 連れ出してくれるのは、いつも「小さきもの」。今日は、そんな、 小さなひとつから広がる世界の詩をおくります。 To make a prairie it takes a clover and one bee, One clover, and a bee, And revery. The revery alone will do, If bees are few. 草原をつくるなら クローバーとミツバチを クローバーひとつ ミツバチ1匹 それから 思い描くこと ミツバチが いないなら 思い描く それだけでうちの庭のクローバーも、タテに、ヨコに、もこもこと、成長しています。 この緑の一角を、じっと見つめていると、草原にいるような気持ちになります。花が咲けば、ちょうちょも、ハチも、やってくるメルヘンな風景。「クローバー畑に寝そべって、空を眺める」という、憧れのシチュエーションを再現してみたところ、背中がびしょびしょ、虫らだけになりました。 クローバーは、かわいい様子からは想像できないほど、根っこが強く、結びつきあい、水分をたっぷり抱いて、小さな生きものを、育んでいるのです。現実はいつも、想像の、少し斜め上をいくものだと、びしょびしょの背中に実感しました。世の中のすべてを、ひとりで経験することはできませんが、 沖縄の星の砂、デンマークの雪、そして、大仏10体のゆくえ…… 想像のフレームの外は、上下左右、ちょっと斜め、全方位に広がっています。そんな箱の中の無限の可能性を、ぼんやり見つめながら、今年も5月を迎えています。どこかで、生まれたばかりの赤ちゃんが、泣いています。 泣き声のさきに、広がる未来が、 豊かなおどろきに満ちた、すこやかな日々でありますように。そして、今は小さなその手に、 いつか、たったひとつの、ガラクタを。 また手紙を書きます。 あなたのいない夕暮れに。 文:小谷ふみ   朗読:天野さえか   絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「自分の居場所を決めるのは その心」
14-04-2022
エミリー・ディキンソン「自分の居場所を決めるのは その心」
こんにちは。   日ごと気温が、急上昇したり急降下したり、何を着ればよいやら毎日悩んでいましたが、春のご機嫌はようやく落ち着いたようですね。クローゼットから出しては、しまってを繰り返していた冬の服も、やっとクリーニングに出しました。身にまとうものが薄くなると、気持ちも少し軽くなったような気がします。おかわりありませんか。   1年ぶりに、春ものの服を出し、ふと冷静に並べて眺めてみたところ、何だかどれも、似ている服ばかり。 たまには気分を変え、ちょっと違うタイプの服を着てみたくなり、さっそく買いに出たのですが、いいかなと手に取る服は、またいつもと同じ感じの服……。ひとつ隣の店の「あの服」を選んだら、知らない自分が現れたりしてと妄想しながら、結局、何も買わずに帰ってきました。   「自分らしさ」というものは、いつも私の味方で、心地よくも心強い、一番落ち着く「居場所」です。それはきっと、これまで選んできたものの数々……着るもの、食べるもの、行くところ、話すことば……ひとつ、ひとつから出来上がっているのですよね。   知らず知らず、「自分ぽいもの」を選び続け、出来上がったのは、脆そうで実は簡単には崩れない「自分らしさ」。これに寄りかかって過ごすことは、とても楽ではありますが、たまに窮屈で、ちょっと味気なく感じることがあります。   「自分らしさ」の外にもある、「好きなもの」と出会わないまま、この一生を終えていいのかなと、思ったりもして。   私の友人で先輩でもある方が、60代で大型2輪の免許を取り、ご両親の介護を経て、70代直前で念願のハーレーに乗るようになりました。   日ごろは、晴れの日も雨の日も、着物がユニフォームのような彼女。身にまとうもの、一枚でも薄く少なくしたい酷暑の待ち合わせにも、凛とした着物姿で現れました。私が不躾に、「暑くないのですか」と尋ねても、「夏の着物は、見る方に涼を分けるものなのよ」と微笑む。その笑みに、真夏の風に揺れる、風鈴の気持ちを見たような気がしました。   そんな彼女が、着慣れた着物を脱ぎ、黒い革ジャンを着て、結い上げた髪をほどいてヘルメットをかぶる。 白い足袋のかわりにレザーブーツを身につけて、自分の身体より大きなバイクにまたがり、風を切って走ります。   着物の裾にすら、わずかな風も起こさず歩く彼女が、ブルルン、ドロロン、ズドドドドと、地鳴りのようなエンジンを吹かし、爆音の彼方に、新たな自分を見つけて。   あふれかえるものの中、手に取れるものも、目に見えないものも、どれもいいけど、どれでもない。自分が欲しいもの、求めているものすら、分からなくなることがあります。「選ぶ」感性が、すっかり硬直しワンパターンに陥っている私にとって、彼女の激変は、とても眩しいものでした。   私たちが選べないのは、生まれおちる場所と、生きる時代。   でも、ある時、ある場所で、   自分の命を得たそのあとは、選択の連続です。   選んだもの、同時に、選ばなかったもの、   そのひとつ、ひとつで自分が作られ、   周りの世界は、彩られてゆきます。   自分らしさの中で、また、外で、   「ここに決めた」や「あなたに決めた」と、腹をくくる。   その瞬間、閉じながら、開いてゆく内なる世界。   今日はそんな、「心決めた瞬間」を思わせる詩を送ります。   The Soul selects her own Society -   Then - shuts the Door -   To her divine Majority -   Present no more -   Unmoved - she notes the Chariots - pausing-   At her low Gate -   Unmoved - an Emperor be kneeling   Upon her Mat -   I've known her - from an ample nation -   Choose One -   Then - close the Valves of her attention -   Like Stone -       自分の居場所を決めるのは その心   扉を閉じたら   与えられた多くのものに   背を向けて     心動かされない   小さな門の前に   迎えが来ていることに 気づいても       心揺れたりしない   その入り口で   立派な人が 膝をついて 待っていても      私には分かる   多くの生きる選択肢から ひとつを選んだら   それからは もう何も見えない 聞こえない   かたい石のように閉ざす その心を   よく行く図書館でのことです。ずらりと並ぶ棚を前に、「ここにある、ほどんどの本を読むことないのだな」と、手に取る本もまた、世界に入ってゆきやすいものばかり選んでいることに、ちょっともったいなさを感じました。   その日から、「選ぶ」リハビリを兼ね、毎週行くたびに、図書館の端の棚から順に、必ず1冊の本を選んで帰ることにしました。手を伸ばすことはなかった分野の棚の前に立ち、「この中から1冊、選ぶぞ」と、小さな覚悟を決める瞬間、それは調べものの本を探す時とは、明らかに違う感覚です。本日の棚の本を、くまなく、じっくり、吟味して、タイトルの意味すらよく分からない本の中から、「君だ」と1冊、手に取る。   そうやって選んだ本を開く時は、知らない国に初めて足を踏み入れるような気持ちです。   そのうち、ずっと手元に置いておきたい本にも出会い、本屋さんで買い求めると、自宅の本棚の「色み」がちょっと変化してきたようにも感じます。   そうして選ぶものが変わってくると、少しずつ「自分らしさ」も、グラデーションのように変化してゆくのかもしれませんね。   でも、   自分らしくても、自分らしくもなくても、   結局、何を選んだところで、   実は、自分の果ては、どこまでも自分。   そのことに、   ちょっとガッカリしながら、   ほっと安心して。   あなたが、あなたであれば、   それだけで、私は嬉しいのです。   また手紙を書きます。   あなたのいない夕暮れに。   文:小谷ふみ   朗読:天野さえか   絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「石ころって いいな」
10-03-2022
エミリー・ディキンソン「石ころって いいな」
こんにちは。   本格的な春の目覚めに向け、今日は、髪を短く切り揃えました。帰り道、すれ違った学生さんのコートの下、胸元にちらり、ひと足早く咲いた春の花を見つけました。卒業、門出の季節を迎えているのですね。おかわりありませんか。   学生のころは、進級や進学といった節目がありましたが、大人になってからの日々には区切りがつきづらいものです。ですが、特に人生のイベントがなくても、この時期は自然と気持ちが改まりますね。   この春、赤ちゃんの頃から見てきた近所の子どもたちが、小学校にあがります。   我が家の外壁には、少し低いコンクリートの台のような場所があり、そこがよく外遊びをする彼らに重宝されています。ちょうど幼児の腰の高さなので、彼らの遊びのおもむくまま、ベンチやジャンプ台になったり、時に歌や踊りのステージになったり、そして、おままごとのキッチンになったりします。   キッチン利用時には、どこからともなく登場する「パンケーキの石」と呼ばれる、丸くて平たい石があります。大人の手のひらほどのサイズの、色白のきれいな石です。灰色のコンクリートのキッチンの上で、木の実や葉っぱでデコレーションされると、赤や緑の彩りに映え、つい頬張ってみたくなるほど美味しそうなのです。   パンケーキの石は、私たち近所の大人たちとともに、子どもたちがあれこれ工夫しながら、出来るようになってきたことの数々を見守ってきました。   ところが、春一番が吹いたころのことです。パンケーキの石が、半分に割れてしまっていたのです。丸いパンをちょうど真ん中でちぎったような片割れが、ある日、ころんと転がっていました。子どもたちは一瞬、戸惑っていましたが、手に馴染むチョークにして、すぐ新しい遊びの仲間として受け入れていました。でも、もう半分が、どこを探しても見当たらないのです。   大人の私の方が喪失感に苛まれ、片方がいなくなって初めて「パンケーキの石」のこれまでの歩みに、思いを巡らしました。そもそも、海岸の砂が長い時間をかけて固まってできたような石が、どこから、どうやって、丘の上のコンクリートキッチンにたどり着いたのだろう、と。   石ころは、地球の子ども。   ある時、ふるさとから飛び出して、ごろごろ転がり、他の石とぶつかりながら、だんだんと角が取れ、丸くなり、やがて、子どもの手のなか、やさしい形に。そして、また途方もない時間をかけて、ふるさとへ還ってゆきます。   じっと見つめていると、私たちの時計では計れないほどゆっくりと呼吸をしている、ひとつの「意志」を持った生きもののようにも思えてきます。石だけに。   この春、子どもたちが自分の足で小学校に通えるまでに成長したのを見届け、「あとは頼んだよ」と二手に分かれ、春風に誘われるまま、旅の続きに出たのかもしれません。いつかまた、別々の物語を携え、ひとつになることを夢見て。   どこにでもある丸い石ころ。でも、小さな隣人たちの人生の中で、あっという間に過ぎてしまう幼児期を、ともに過ごした特別な石であったことにはかわりはありません。   新年度、パンケーキの石も、次のステージへ。   きっとどこかでまた別の名前を付けられたりしながら、    「寄り道だって、自分の歩む道」と気ままに転がり続けている。   そんな「石ころの生きざま」に憧れてしまう詩をおくります。   > How happy is the little Stone   > That rambles in the Road alone,   > And doesn't care about Careers   > And Exigencies never fears ‒   > Whose Coat of elemental Brown   > A passing Universe put on,   > And independent as the Sun   > Associates or glows alone,   > Fulfilling absolute Decree   > In casual simplicity ‒   >   > 石ころって いいな    > 道ばたに ひとり ころころと   > うまく歩もうなど 思わずに   > 危ないことも 怖がらず   > その飾らない茶色の衣は   > 過ぎゆく宇宙がくれたもの   > おひさまのように 我が道をゆきながら   > 誰かと力を合わせたり ひとり磨かれ光ったり   > 自らの命(めい)を果たし 尽くそうと   > 自由気ままな 無邪気さで   20代のいつかの春、新卒で入社した会社を辞める時、もうすぐ定年退職のマネージャーに挨拶に行った時のことです。3年も経たずに辞めることを、不甲斐なく、恥ずかしく思う、そう漏らすと、   「『石の上にも3年』ならば、あなたは、私の歳になるまでに、あといくつ石の上に座れる?まだ随分あるでしょう」と。   帰り道、図々しくも100歳まで生きるとして、残りの人生を3で割ってみました。すると「あと最大25個も座れるではないか」と、気持ちが少し楽になったのでした。   以来、先の人生を3で割る癖もついてしまいました。確かに、3の倍数だけは順調に重ねたものの、座っては転がり落ちを繰り返し、座れた石はごくわずか。気づけば、手持ちの石も意外と少なくなってきていることに、ちょっと慌てる時もあります。   憧れは、パンケーキの石。   この場に留まり、ひとつのことに心と時間を費やし極める「苔むす石」であり、   まだ見ぬ世界へと、軽やかに身を投じてゆく「転がる石」でもありたい……。   そんなハイブリットな石を心に。   あなたも、どうぞ、石の意志のままに。   じっくり、取り組みたいことがある。   まだまだ、見てみたい景色もある。   あなたの町に吹く春風が、   どちらに向かう背中も、やさしく撫でてくれますように。   風の行方を楽しみに、また手紙を書きます。   あなたのいない夕暮れに。   文:小谷ふみ   朗読:天野さえか   絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「憧れは種のように」
08-02-2022
エミリー・ディキンソン「憧れは種のように」
あなたへ   こんにちは。頬が凍るような風吹く日々が続いていますが、町のショーウインドはもう春の装い。毎年、「まだこんなに寒いのに、気が早いなあ」と思うのですが、暦は二十四節気の始まり「立春」を迎えました。冬はもう、春にバトンを渡したのですね。おかわりありませんか。   家の裏に、種類の違う紫陽花を3つ植えているのですが、葉っぱの赤ちゃんたちも一斉に芽吹いていました。七十二候が「東風解凍(はるかぜ こおりをとく)」とうたうように、霜柱も解け、土の中の生きものたちも、わずかに漂う春の香りに目覚めつつあります。   壁のカレンダーを太陽の「天の暦」とするならば、土に生きるものたちの季節を語る二十四節気と七十二候は「地の暦」のよう。「暑い」「寒い」といった体感とは少しズレがあるものの、私たちの暮らしのそばで、身体と心の調子にも深く結びついていると実感することがあります。   実は昨年から、こっそり取り組んでいる、運動の素人には少し難しい課題があります。   「Y字バランス」です。   十数年前、家族と将来の夢を語った時、すぐに思いつかず、苦し紛れにこれを掲げたことがありました。ずっと忘れていたのですが、昨年、体調を崩したり、大怪我をすることが続いた時、自分を作り直そうと決め、改めて目に見える目標として設定したのでした。   でも、何をやればいいか分からず、まずは体力をつけるべくスイミング。そして、同施設内のスタジオプログラムにも参加。タルタルなのにカチカチの身体で、鏡に囲まれたスタジオに立った時の、絶望的な気持ちといったら……。心の中、自分のガマの油に溺れながら、バレエやヨガ、太極拳、さらには、フラ、サルサまでつまみ食い。「体の使い方の共通項」など見つけながら、身体の方程式をYの字に解こうとする日々を送ってきました。   抱えた悩みが、淡い期待や小さな希望に育つこともありました。身体が柔らかく強くなったら、心もしなやかになれるのではないか。そしたらば、揺れやまぬゆりかごに、眠る病も目覚めなくなるのではないか、とも。   ところが、年末年始で生活のリズムが崩れ、たたみかけるように「寒の入り」、身体が動きづらく、筋肉も硬くなってゆきました。さらに、北風に身をぎゅっと縮める上に、たくさん重ね着をするので、心身ともに氷る石像のようになりました。   でも、あとひと月も経てば、「魚上氷(うお こおりをいずる)」時が来る、そう少し先の暦を拠りどころに、氷の下のワカサギの気持ちで、遠くの陽の光にゆらゆらと、揺られるままに過ごしました。   そして、いま「立春」。わずかながら、身体の奥が緩んで来たように感じます。冬眠期を超えてみると、以前より動きが深まったようにも。パンの生地や、ハンバーグのタネも、冷蔵庫で寝かせると美味しくなるように、人間にもそのような期間が必要なのかもしれませんね。   今はまだまだ、Y字どころか、T字行き止まりのこの身体。   目に見えないものの変化は、地底のマントルのようにとてもゆっくりです。   でも、ある時を超えると、すっと動くようになる、   そんな境界線があるのではないかと思っています。   きっと誰もが知っている、「自転車に乗れた」、あの瞬間のように。  暗い土の中から、明るい地上を目指す。   暗闇に佇む希望への、応援メッセージのような詩をおくります。   > Longing is like the Seed   > That wrestles in the Ground,   > Believing if it intercede   > It shall at length be found -   >    > The Hour, and the Clime,   > Each Circumstance unknown -   > What Constancy must be achieved   > Before it see the Sun!   >    > 憧れは 種のように   > 土のなか もがきながら   > 2つの世界をとりなす一線を越えたなら   > きっと 辿り着くと信じて   >    > 時の流れも 風の色も   > なんの手がかりも ないままに   > その ひたむきさは やがて実を結ぶ   > 太陽の光に出会うころには   春の新芽、そして夏の蝉。     彼らは地図や目印もないのに、どうやって暗闇から地上を目指すのでしょう。  私たちにも、そんな能力があればいいのにと羨しく思いますが、   生きとし生けるもの、みんな、   明るい方に向おうとする本能を、持ち合わせているのかもしれません。   「立春」を過ぎると、   雪解けの水が空にかえる「雨水」、   そして、冬ごもりから虫が目覚める「啓蟄」へ。   恵みの涙とともに、土も、身体も、ゆるみ、   春の扉は、さらに大きく開いてゆきます。   身体よ、心よ、柔らかく、強くなれ。   そろそろ、脚よ、あがれ。   卵をタテに立てるような、じれったさ。   壁のカレンダーに焦ってしまう日には、   地の暦に励まされながら、   時に、ちょっと逃げ場にしながら。   三寒四温の春のリズムで、   行きつ留まりつ、ちょっとずつ進んでゆく。   Yの字の進捗を、またお知らせさせてください。   あなたのいない夕暮れに。
エミリー・ディキンソン「鉛筆がないのなら」
12-01-2022
エミリー・ディキンソン「鉛筆がないのなら」
あなたへ こんにちは。新しい年の幕開けは、丘の上から1年先まで見渡せそうなほど、キリリとよく晴れた空模様でした。おかわりありませんか。   今朝は散歩の帰りに、お正月休みの小さな商店街を通りました。アーケードを中ほどまで進むと、誰でも弾けるピアノが置いてありました。そこに小学校高学年くらいの女の子がひとり、「ぽろろん」と鍵盤に触っていました。まだ目覚めない町の中で、音楽は眠ることなく、「ぽろろん」と佇んでいました。そのメロディ未満のメロディは、これから始まる1年の物語のプロローグのようでもありました。   私の心には、12歳の頃から大切にしている、ピアノの音色に綴られた物語があります。   小学生の頃、私のクラスは音楽室の隣の教室で、週に一度、掃除の当番が回ってきました。   出席番号が前後だった、ピアノが上手な彼女とは当番もいつも一緒でした。   ある日、掃除が終わってみんなが出て行くと、彼女がおもむろにグランドピアノを弾き出しました。彼女の奏でるメロディに、心の奥をきゅっと掴まれたような気がして、思わず「何て曲?」と尋ねると、少しためらいがちに「今、作ってて……」という答えが。「音楽って、作れるの?」と、すでに出来ている音楽しか知らなかった私は、この当たり前の事実に、とても驚いたのでした。   この日から、掃除が終わると、ピアノの前にふたりで残るようになりました。少しずつ長くなってゆくメロディを聴きながら、生まれたばかりの音楽に触れることに、胸を震わせていました。「今日はここまでかな」と立とうとする彼女に、「もうちょっと」とせがむと、もう少しだけ弾いてくれることもありました。   彼女は、ちょっと特殊な家のお嬢さんでした。保護者会には、彼女を「姫」と呼ぶ、じいやが来て、運動会となればバズーカ砲のようなレンズを抱えた専門カメラマンが、彼女の勇姿を収めに来ていました。お誕生日会は盛大で、帰りがけには全員にお土産が用意されました。私が頂き忘れた時には、じいやが黒塗りの車で自宅まで届けに来てくれたこともありました。   大人の中で育っていたせいか、彼女は年齢より落ち着いた空気をまとい、遠くで目が合っても、にっこり微笑むような女の子でした。   小学校を卒業すると、彼女はヨーロッパの全寮制の学校へ進学しました。季節ごと届く手紙に添えられた写真の中の彼女は、封を開くたび、美しく成長してゆきました。   牛乳ビンの底のようにぶ厚い眼鏡はコンタクトレンズになり、ショートに切り揃えていた髪は、ロングヘアーのポニーテールに。モスグリーンで統一されたブレザーの制服を身につけ、華やかな同級生と映る背景は、教科書でおなじみの大聖堂。初めての気になる男の子は、王子さまみたいなフランス人。遠い国から届く数々のピースを繋ぎ合わせるうち、彼女が遠い物語のお姫さまになったように感じました。   だんだんと、互いに手紙も途絶え、いくつかの春が過ぎ去ったある日、久しぶりの便りが届きました。手紙には、写真ではなく、ある紙が添えられていました。   それは、音楽室で奏でられた、あのメロディを譜面に起こしたものでした。   3枚に渡る五線譜の物語は、最終小節まで綴られており、ひとつの音楽が完成していました。   鉛筆で書かれた、細くて、やさしい筆圧の音符。   心の奥で、花のように咲くメロディ。   楽譜を持つこの右手が、終止符に触れた時、左胸に小さな痛みを覚えました。   私はピアノが弾けないので、   譜面からメロディを揺り起こすこともできないまま、今も。   そして、彼女に何も返せないままに。   今日は、あの時に似た痛みを、   チクリと思い出してしまう、そんな詩をおくります。   > If it had no pencil   > Would it try mine-   > Worn-now-and dull-sweet,   > Writing much to thee.  >     > If it had no word,   > Would it make the Daisy,   > Most as big as I was,   > When it plucked me?   >    > 鉛筆が ないのなら   > 私のを どうぞ使って   > 今では 小さく丸くなったチビ鉛筆   > あなたに たくさん書いたから >      > 言葉が ないのなら   > デイジーを   > あの日 摘み取られた私と   > 同じ大きさの   世界中すべての音楽を聴けたとしても、出会うことはない、放課後の音楽室の物語。   交わす言葉が途絶え、何十年たった今も、ふいにメロディを口ずさむことがあります。   「今も大切にしています」   彼女にそう伝えるかわりに、   私がもらった心の花を、私なりの方法で、   誰かに渡してゆこうと思う日々です。  私の中の小さなお姫さまは、   今も遠いどこか異国の地で、私の知らないメロディを奏でている。   そうやって物語は、終わったあとも、知らない場所で続いていると思いながら。   今年も、あなたの物語が「ぽろろん」と、穏やかに綴られてゆきますように。   鉛筆に、時に、花に乗せて。   また手紙を書きます。   あなたのいない夕暮れに。   文:小谷ふみ   朗読:天野さえか   絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「これは世界におくる手紙」
01-01-2022
エミリー・ディキンソン「これは世界におくる手紙」
あなたへ こんばんは。冷たく澄んだ冬の夜空に、イルミネーションの光が華やかに咲く季節になりました。おかわりありませんか。 今日は、ちょっと気が重い用事を、やっと終えた帰り道、小さな光が散りばめられたケヤキ並木を歩きました。私がひと呼吸するよりも、ゆっくり点滅するきらめきのなか、この1年をほっと振り返りました。それはまるで、今年のフィナーレへと続く花道のようで「一年間、おつかれさまでしたね」と語りかけてくるようでした。なんだか感傷的になり、ちょっと涙ぐんでしまいました。 あなたは、どんな一年を過ごしましたか。 私は暮らしに、とても大きな変化がありました。ライフステージが変わる時は、心の状態や身体の調子、人との関係や何かとの距離感、これまでうまく保ってきたバランスを崩しがちです。気をつけなくちゃと分かっていたのに、よろけて、転んで、倒れたまま、しばらく起き上がることができない日々が続きました。 誰かに会うのも、どこかに出かけるのもままならなく、かといって、本や映画にも集中できませんでした。出来ないづくしの自分を、暗く深い穴の中でどんどん持て余してゆきました。 そんな時、車で30分ほどの、少し遠くのパン屋さんに連れて行ってもらいました。このお店は数年前に、家族のザ・ベストオブパン屋を見つけようと、あらゆるお店を巡って見つけたお気に入りのお店です。 ここは、店内の雰囲気だけでなく、パン自体に弾けるような活気があります。トレーとトングを手に、店の入り口に立つと、にこやかなパンたちが一斉に「いらっしゃいませぇ!」と迎えてくれるようなのです。 種類も豊富で、パンそれぞれが、自らのテーマソングを持っていそうなほど個性的でもあります。 よくある定番のアンパンですら、艶やかで存在感があり、あの有名なマーチを歌い出しそうです。 そう、みんながヒーローのように、ぼくを、わたしを、お食べよ!と、語りかけてくるのです。 どうしてもお腹に力が入らない時、口にふくむと、ふんわりあたたかく、ひと口ごと、おへその辺りから、まさに愛と勇気が満ちてゆくようでした。悲しい気持ちから抜け出せない時、心配ごとに絡まってしまった時、その時の気持ちに添うように、味が変わるようにも思えました。 パンは、食べられる手紙のよう。でも、その手紙へは返事の書きようもなく「ありがとう」のかわりに、いくつもの「ごちそうさま」を重ねました。 そうやって、心は、ひと口ごとに、立ち上がって来たように思います。 パンに励まされたり、イルミネーションに労われたり、私たちは、目の前を浮遊する無数のメッセージに、生かされているのかもしれません。 メッセージは、言葉あるなしに関わらず、様々な姿を借りて、誰かから、誰かへと、届けられている。 今日は、そう感じずにはいられない詩を送ります。 This is my letter to the World That never wrote to Me̶ The simple News that Nature told̶ With tender MajestyHer Message is committed To Hands I cannot see̶ For love of Her̶Sweet̶countrymen̶ Judge tenderly̶of Me これは世界におくる手紙 返事をくれたことはないけれど 自然が語りかけてくる ちょっとした知らせを 優しくも おごそかにその言づては ゆだねられて 出会うことのない 誰かの手へと 私たちはともにある その愛しい想いを抱いて あなたがそっと 決めたままに 「さあ、これからどうしていこうか」。長く降り続いた涙がやみ、心が傘をとじるころ、今度は次の一歩を選ぶ時です。まだぬかるんだ道をゆく頼りないつま先には、期待と、同時に、迷いも生まれます。そんな時には、目についたものから、必要以上に意味深くメッセージを受け取ってしまいがちで、困ったものです。 道すがら、赤や黄色信号ばかりに当たると「やめておけってことかな」と、ためらいます。 古着屋さんで、パッと手にしたTシャツに’’ALL IS WELL’’と書いてあれば、「うまくいくかな」と、勢いに乗っかろうとします。 自分の気持ちが、まだグラグラしている時は「言って欲しい言葉」を、また同時に「言って欲しくない言葉」を無意識に探して、拾ってしまうのかもしれませんね。 受け取るメッセージは、その時の自分次第で変わってゆくのだと思うと、目の前の景色が自身を映し出す壮大なモニターのように見えてきます。 世界が自分の同一線上にあるものなのだとすれば、こうして書いているあなたへの手紙も、実は自分への手紙なのかもしれません。 そして、あなたと手紙を交わしながら、私たちは重なり合う世界を、互いに感じ合っているのですね。 自分を、自分の日々を、よりよくすることで、あなたと分け合う世界もよくなると思えば、 もう少しだけ、優しく、あとちょっとだけ、頑張れそうです。 一方で、自分では、どうにもならない、いいことも、よくないこともある毎日です。 あなたにとって、少しでも、いいことが多い明日でありますように。 1日の終わりに、1年の終わりに、 祈りながら、また手紙を書きます。 あなたのいない夕暮れに。 文:小谷ふみ 朗読:天野さえか 絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「月と星の灯りが 道を照らし」
11-11-2021
エミリー・ディキンソン「月と星の灯りが 道を照らし」
こんにちは。   暮れゆく秋のため息が、街路樹を赤や黄色、橙(だいだい)に染めてゆきます。丘の上まで続く「いろは坂」も、カラフルな葉っぱのグラデーションに縁取られました。坂道のカーブの途中で振り返ると、深く色づいた町を一望できます。もう少し背が高かったら、あなたの町のいちょう並木も見つけられそうです。おかわりありませんか。   今日は、いろは坂をのぼりきったところにある、丘の上の喫茶店で手紙を書いています。   私の住む町は、アニメ映画の舞台になったことがあります。休日には、いろは坂や丘の上で、カメラをさげた映画のファンの方とよくすれ違います。この喫茶店は、多くの方が旅の羽休めに立ち寄る場所となっています。   「さあ、どうぞ」といつも開かれた扉に入ると、アニメの主人公がお世話になりそうな愛らしい雰囲気のおかみさんが出迎えてくれます。   テーブルの上には手書きの町歩きマップ、壁には映画のポスターが飾られています。棚には、原作漫画やノベライズ本、そして、訪れた人たちから贈られた手書きの絵なども並べられています。   2階の席は一面大きな窓ガラスで、丘の上をよく見渡せます。景色の真ん中にあるのは小さな円盤のバスロータリーで、盆栽のようによく手入れされた植え込みになっています。春は桜、夏にはセミの声、秋は紅葉、冬は雪に染まり、季節ごとにその装いをガラリと変えます。   ロータリーの周りを、車やタクシーが秒針のようにくるくると、そして、20分おきにバスが長針 のようにぐるーりと巡ります。丘の上のロータリーは、この町の時計のようなのです。 「次のバスが来るまで、本の続きを読もうかな」と20分タイマーが時を刻み始めたところで、おかみさんが頼んだコーヒーを持って来てくれました。そして「お客様からいただいたの。よかったら召し上がってね」とメニューにないおやつを出してもらえました。   常連さんや、ここを気に入った旅の方が、お土産を持って再び来られることが多いそうです。運がいいと、こうしてコーヒーにおともが付いて来るのです。今日は、お芋のパイでした。   ちなみに前回は、コーヒーゼリーでした。パフェグラスに乗せられた、ぷるぷるの黒いゼリーに、ほんのり甘いクリーム。時計盤から踊り出るように咲く桜を眺めながら、小さな銀のスプーンでひと口。それは、ほろ苦く甘く、混ざり合った黒と白が、互いに引き合うような濃密な味でした。これを機に「大人のそっけないデザート」というコーヒーゼリー観は、すっかり変わってしまいました。そして、食べものとも、一期一会があることを知りました。   帰り際に、差し入れてくださった方にお礼を言おうとしたのですが、「今、あのバスでお帰りになったところです!」と、ロータリー脇の停留所から、ちょうどバスが出発したところでした。   バスは、コーヒーゼリーの旅人を乗せ、桜吹雪の向こうへ、ゆっくりと消えてゆきました。   丘の時計の針は、どれほどの旅人を運んで来たのでしょう。   目を閉じて、時計の真ん中から、   旅する自分を眺めてみたくなる。   今日は、そんな詩を送ります。   > The Road was lit with Moon and star -   > The Trees were bright and still -   > Descried I - by the distant Light   > A Traveller on a Hill -   > To magic Perpendiculars   > Ascending, though Terrene -   > Unknown his shimmering ultimate -   > But he indorsed the sheen -   >    > 月と星の灯りが 道を照らし   > 木々はきらめき 佇んでいた   > 遥かな光のなか   > 丘の上に旅人がひとり   > 魔法にかけられたような急な坂道を   > 地を踏みしめ 登ってゆく   > 向かう先はゆらめき 果ては知れない   > ただ その光を感じながら   この町の丘を訪れるのは、人間だけではありません。   今年の夏には、新たな旅人の存在に気づきました。   毎年、夏の夜に「ワンワン!ワンワン!」と犬が一定のリズムで鳴くのです。ずっと犬の夜鳴きだと疑わなかったのですが、今年はふいに「あれは犬ではないのでは」という話になりました。   「次、鳴いたら、声の方へ行ってみよう」と待ち受け、ある夜、その時が来ました。濡れた髪でパジャマのまま、夜空に遠く響く声を辿り、できるだけ音を立てずに夏の夜を走りました。   声は、私たちを丘の上に抜ける竹やぶの通路へと誘(いざな)いました。息を潜め、耳を澄ますと、一本の大きな木の上から、「ワンワン!ワンワン!」とはっきり聞こえてきました。   調べてみると、声の主はアオバズクでした。アオバズクは、夏になると日本を訪れる旅の鳥です。   見上げた木に、アオバズクの姿を捉えることはできませんでした。ただ、木々の隙間に、白い三日月がぷかりと浮かんでいました。 あの月から見たら、私たちとアオバズクは、同じ木に佇んでいるように見えるだろうな。そう、アオバズクと自分を、遥か遠くから眺めた夜でした。   丘の上の時計が、月が、   今日も旅する者を、迎えては、見送っています。   長い目で見れば、私たちもみんな、   ある一時期、この世を訪れ、いずれ去る旅人です。   旅のあいだ、互いに、近づいたり、遠ざかったり。   時に、言葉を交わしたり、交わさなかったり。   でも、   出会わなかった出会いが、心にずっと残ることがあるのです。   外は、冷たい風が吹き始めたようです。   赤茶色の葉っぱが一枚、窓に張り付いて、ひらひらと手を振るように飛んでゆきました。   行く先は、冬でしょうか。   あなたが、暖かく過ごしていますように。   また手紙を書きます。   あなたのいない夕暮れに。   文:小谷ふみ   朗読:天野さえか   絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「心には いくつもの扉があって」
07-10-2021
エミリー・ディキンソン「心には いくつもの扉があって」
あなたへ こんばんは。 町が秋色に染まりゆく日々に、人恋しいような、ひとりでいたいような、振り子のように心揺れるのは、秋の空のせいでしょうか。おかわりありませんか。 夕方には、暗闇がますます濃くなり、西の空の一番星がいっそう輝きを増すようです。 秋の夕暮れに、どの星よりも早く、強く輝く金星を見つけると、友達の黒猫を思い出します。 10年ほど前のこの時期に、猫が苦手な友人が、猫と暮らし始めました。 もともと犬派を公言し、いつか行き場を失った犬を迎えたいと話していた彼女。猫のことを、嫌いというより不気味だと怖がって、黒猫が前を横切るだけで、縁起が悪いと騒いでいたこともありました。そんな彼女が、おとなの黒猫を迎えた時には、ちょっと信じられない気持ちでした。 猫を迎えてひと月ほど経った頃、彼女の家に遊びに行く機会がありました。新しい家族、黒猫のイクリプスに会えるのを楽しみにしていたのですが、会うことはできませんでした。 彼女の家に来た日からずっと、ベットの下から出て来なかったのです。 聞けば、多頭飼育がうまくいかなかった家の隅で、ひどく痩せ細り、うずくまっているところを保護されたそうです。警戒心が強く、保護されている間はゲージ奥のドーム型ベッドに篭り、誰にも姿を見せることはありませんでした。   ある日、彼女が施設を訪れ、ゲージの前を通りかかった時のことでした。何気なく奥を覗き込んでみると、かすかに「にゃあ」という鳴き声が。それが、彼女には「やあ」という言葉に聞こえたのだと言います。   それから、しばらく会いに通ったのち、スタッフの方に「ずっとゲージから出てこないかもしれない」と言われても、受け入れを申し出たそうです。 彼女の家に来て、ゲージを出たのはよかったものの、すぐベット下に姿を消したイクリプス。私が訪れた時、半分開いた扉の隙間から部屋を覗くと、ベットの下からじっとこちらを伺っているのが分かりました。 その姿は暗闇に溶け、金色の目だけが、夜空に浮かぶ2つの星のように鋭い光を放っていました。 扉が大きく開いて明かりが差し込むと、目の奥にある丸い瞳が、キュっと縦に細くなり、身構えるのが分かりました。でも、扉を完全に閉めてしまおうとすると、「にゃー」とひと鳴き。それはまるで「いやー」と言っているようで、「そこは開けておいて。ひとりにしないで」という言葉が、闇の奥から聞こえてくるようでした。 黒い瞳は、心の扉のように、開きかけては閉じ……を繰り返していました。 それでも彼女はイクリプスが来てから、夜よく眠れるようになったと言っていました。 いてくれるだけでいい、いつかここが安全な場所だと分かってもらえればいい、とも。 今日は、誰かに心を閉ざしたことも、閉ざされたこともある私たちに、 「こんな心持ちでいたらいい」という、ヒントになりそうな詩をおくります。 The Heart has many Doors ― I can but knock ― For any sweet "Come in" Impelled to hark ― Not saddened by repulse, Repast to me That somewhere, there exists, Supremacy ― 心には いくつもの扉があって 私は そっと扉をたたくだけ 「どうぞ」と やさしい答えを待ちながら じっと 耳を澄まして 扉を開けてくれなくても 大丈夫 心満たされるから そこに いてくれるだけで 大切なあなたが あれから、彼女とイクリプスに、いくつもの季節が訪れました。 徐々にベットの下から顔を出すようになり、扉の向こうから、じーっと彼女を観察し続けたイクリプス。数ヶ月経ったある日、台所に立つ彼女の足に、黒く滑らかな身体を寄せて来たそうです。 やがて、彼女の膝の上でお腹を出して眠るまでになりました。こっそり教えてもらったのですが、イクリプスのお腹は、輝くように真っ白なのだそうです。 黒い闇の扉は、密かにあたたかな白い光を抱いていたのでした。 相変わらず、私には姿を見せません。でも、お泊まりに行くと、闇夜にその気配を感じます。電気を消してしばらくすると動き出し、そのうち、おもちゃで遊びはじめ、家中を走り回ります。 そして、闇の中シュッシュッと横切る金色の目は、まるで2つの流れ星のようなのです。 彼女にそう言ってみると、「何か願っていいよ、2つ」とちょっと得意げな返事が返って来ました。不吉だなんて言っていたのは誰だっけ。流れ星2つ分の願いごとを考えながら、いつの間にか眠りにつきました。 翌朝、目を覚ますと、イクリプスのお気に入りのおもちゃが2つ、私の枕元に並べられていました。 開くか分からない扉を、そっとノックし続けた彼女。 でも、最初に「やあ」と彼女の扉をノックし開いたのは、イクリプスの方でした。 誰の心にもある「開かずの扉」。 「ほっといて」。 「ひとりでしないで」。 扉の向こうのかすかな声に、耳を澄ましながら。 また、手紙を書きます。 あなたのいない夕暮れに。
エミリー・ディキンソン「かなしみのように ひっそりと」
09-09-2021
エミリー・ディキンソン「かなしみのように ひっそりと」
あなたへ こんにちは。夏の炎を吹き消すような、涼しい風が吹く季節になりました。おかわりありませんか。   思い出したように火照る日はまだありますが、燃え盛る夏の間には出来なかったことに、やっと手を伸ばしています。   今日は、海外に住む友人に手紙を出しました。エアメールを書くのは数十年ぶりで、宛名の書き方を思い出そうとしていたら、学生時代の色あせかけた記憶も一緒に引き出されてきました。   高校時代に、アメリカで寮暮らしをしていた時のことです。   車で1時間は走らないと町に出られない田舎町での日々に、日本から送られてくる荷物や手紙は、一番の楽しみでした。   毎日、カフェテリアで朝食が終わるころ、手紙や荷物が届いている人の名前が呼ばれます。名前を呼ばれた人は嬉しそうに取りに行き、呼ばれなかった人は羨ましそうにその様子を眺めます。   自分宛の手紙があった日は、そそくさと部屋に持ち帰り、ひと息つきます。そして、青と赤の縞模様に縁取られた封筒を丁寧に開くと、まずは一気に読み、それから一字一字ゆっくり読みます。すると、手紙の内容はもちろんですが、筆圧で出来た文字のでこぼこや、インクのにじみ、手の湿気で少しよれた、薄く柔らかな便箋そのものが愛しく感じられるのです。   あんなに待ち遠しく、嬉しかったエアメール。あの小鳥の羽のような便箋と封筒の生産を、今はもう終了したメーカーがあるそうです。電子の手紙にその居場所を譲っていたことを知った時は、とても残念で寂しく、同時に、ちょっと後ろめたい気持ちにもなりました。   それは、去りゆく季節への、惜別の感情に似ていました。   今日は、静かに去った夏に、残された者が想いをしたためた日記のような詩をおくります。   > As imperceptibly as Grief   > The Summer lapsed away-   > Too imperceptible at last   > To seem like Perfidy-   >    > A Quietness distilled   > As Twilight long begun,   > Or Nature spending with herself   > Sequestered Afternoon-   >    > The Dusk drew earlier in-   > The Morning foreign shone-   > A courteous, yet harrowing Grace,   > As GUEST, that would be gone-   >    > And thus, without a Wing   > Or service of a Keel   > Our Summer made her light escape   > Into the Beautiful.   >    > かなしみのように ひっそりと   > 夏は過ぎ去った   > 背を向けられたことに   > 最後まで 誰も気づかないほど   >    > 夜のとばりが ゆっくり降りるように   > 静けさの雫が にじみ出て来る   > 窓の外の午後は 誰に邪魔されることなく   > 静かに自然の時を刻む   >    > 夕闇は ますます足早に深まり   > 朝日は 今までとは違う輝きを見せる   > それはまるで   > ともに過ごした人が去っていくよう   > こちらを気遣いながら   > でも 切なくなるほど優雅に   >    > そうやって 翼も   > 船の便もないのに   > 私たちの夏は 軽やかにすり抜けて行った   > 美しき彼方へと   日本からのエアメールは、隠したホームシックを優しく包んでくれたものでした。また、外国から届いたものは、居ながらに異国の遠い空へと連れ出してくれるものでした。   大学生の頃、ヨーロッパへ放浪のひとり旅に出た友達から、1週間ごとに旅の記録が送られてきたことがありました。そこには、写真や記憶には残しきれないことが淡々と、紙いっぱいに書かれていました。放浪の旅なので返事を書きようもなく、一方通行の手紙は、空から届く旅の本のようになりました。   恋人ではなく、なぜ私に託すのかと当時は不思議に思いましたが、今なら分かるような気がします。恋は、やがては消えて去る、ひとつの季節ようです。儚い風が吹くことのない誰かに、孤独な旅の歩みを知っていて欲しかったのかもしれません。   今も手紙を保管していることを、照れ屋の友に伝えられずにいます。いつか大人になったら箱ごと渡そうと思っていたのですが、どれほど大人になったら、青い春が残した旅の手紙を、恥ずかしい気持ちにならずに読めるでしょうか……我が身に置き換えては、計り兼ねています。   私たちのもとを去った季節は、今も意外な姿で眠ったまま、   いつか箱のふたが開く、その時を待っているかもしれません。   あなたとの、このやりとりも、   私たちが生きた日々の足跡になってゆくのかなと思いながら、   また手紙を書きます。   あなたのいない夕暮れに。 文:小谷ふみ   朗読:天野さえか   絵:黒坂麻衣   ## 小谷ふみコメント:エミリー・ディキンソンの私訳によせて  最近、友人と絵はがきのやりとりしているのですが、彼女が選んだ絵はがきとカラフルな文字から、その暮らしぶりや家族のようす、さらには彼女の内側に広がる世界そのものまでもが、切手が貼られた小さな窓から伝わってくるようです。 「手紙は、肉体は伴わず、精神だけを伝えるという点で、私にはいつも不滅そのもののように思われるのです」という言葉を残したアメリカの詩人 エミリー・ディキンソンは、今から150年ほど前、南北戦争の時代に生き、生前は無名でしたが、1700編もの詩を残していました。 その暮らしは、いつも白いドレスを身にまとい、自宅からほとんど外に出ることはありませんでした。そして社会と世界と、彼女なりの距離を取りながら、詩をひそやかに書き続け、限られた人と手紙のやりとりをして過ごしました。 彼女の詩や手紙には、閉じた窓の向こうに彼女が見つけた、いつまでも失われることのない世界が広がっています。“stay home” ”keep distance” この閉ざされた日々に、彼女の「詩」という窓の向こうを、一緒に眺めてみませんか。 2020年 秋 小谷ふみ
エミリー・ディキンソン「天国はきっとすぐそばに」
04-08-2021
エミリー・ディキンソン「天国はきっとすぐそばに」
あなたへ こんにちは。太陽が直接吹きかけてくるような熱い風が、町を真夏の色に染めてゆくような日々ですね。おかわりありませんか。 我が家の庭では、夏が熟すのと歩調を合わせるように、ホオズキが濃い橙(だいだい)に熟れてきて、夜、暗い庭を眺めると、ぽっぽっと浮き上がって見え、お盆が近いことを感じさせます。 先日、一足早く父とお墓参りに行き、暮らしを共にしていた動物たちが眠る場所へも行きました。昼間でも薄暗い通路を渡り、ずらりと並んだ扉の一つを開けると、時が止まったような愛犬たちの写真が出迎えてくれます。 写真の向こう側から、変わらず愛らしい視線をこちらに向けている犬たち。鼻と胸あたりに迫るものを、黙って感じていると、「おお!元気にしてたか?」と写真を手に取り、歴代七匹の名を一匹、一匹、点呼する父。そして、「またな!がんばれよ!たのむよ!」と片手をあげます。 その声がけに、何か間違っているような、間違ってはいないような……おかしな気持ちになっていると、鼻にツンと迫っていたセンチメンタルも遠のきました。 帰り際、「来る度に、もう会えないんだなって思うね」と呟くと、「秘密の通路があったりして」とぽつり。もう一度振り返ったら見えるかなと、角度を変えて何度も振り返りながら帰ってきました。 これから、父の言葉を思い出しつつ、ホオズキを収穫してお盆の準備をします。 数年前、家族のリクガメが亡くなってから、お盆の行事のようなことをしているのですが、亀が、馬や牛に乗って帰ってくるのはちょっと難しいかなと、ナスやキュウリの代わりに亀の形をした風鈴を玄関にぶらさげています。ゆっくり歩く彼のためにお盆より少しだけ早く、そして道に迷わないように、あるだけのキャンドルを門に灯し、そばにホオズキを置きます。するとホオズキは、ロウソクの光をまとい、橙色の灯篭のようになるのです。 夏の闇にホオズキキャンドルを灯すようになってから、早くにあちら側に行ってしまった友や、会ったことのないご先祖様も、ちょっと立ち寄ってくれるかもしれないと思うようになりました。それからは、あの人の好きだった色の花や、小さなおむすびなども用意しています。 帰ってきた魂は、空洞のホオズキの中に宿ると言われています。 小さな旅館の一室のようなホオズキに「元気だった?」と声をかけながら、私たちはあと何度「迎える側」の夏を過ごすのでしょう。 今日は、夏のたび少しずつ近づいている「秘密の通路」の向こう側、その存在を感じる詩をおくります。 Elysium is as far as to The very nearest Room If in that Room a Friend await Felicity or Doom-- What fortitude the Soul contains That it can so endure The accent of a coming Foot-- The opening of a Door— 天国はきっとすぐそばに 一番近い扉の向こう 誰もが望む歓びか 終わりを告げる哀しみか その部屋のなか 友が待つのなら 魂は挫けることなく じっと待ち受ける 近づいてくる足音を 開きつつある扉を 今年は祖母の新盆でもあります。大往生だった祖母の葬儀は、涙と笑顔のお別れ会でした。帰宅後、疲れてベッドになだれ込むと夢を見ました。 それは、クルクル回る光の輪の夢でした。 光は目を開けていられないほど強く、それでも瞳にグッと力を入れよく見てみると、私たち孫やひ孫たちが、子どもに戻った姿で手をつないで輪になってクルクル回っているのです。 その中にひとり、知らない女の子がいました。 そして、その少女は「おばあちゃんだ」とすぐに分かりました。 光はあまりにも眩しく、顔はよく見えないけれど、それはまちがいなく少女に戻った祖母でした。私はただじっとクルクル回り続ける光の輪を、目が覚めるその瞬間まで見つめていました。 人は、「秘密の通路」を抜けて、 夢と現実のような、あの世へ、この世へ、隣の部屋へ。 それはいつも一方通行のように見えて、きっとクルクル回る光の輪のように。 今年は、ホオズキキャンドルに、祖母の好きだった甘納豆も用意するつもりです。いつか、私の番が来たら、玄米多めのフルーツグラノーラがあると嬉しいです。 当分その予定はありませんが、忘れたころ、手紙にまた書きます。 あなたのいない夕暮れに。 文:小谷ふみ 朗読:天野さえか 絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「小鳥が小道におりて来た」
07-07-2021
エミリー・ディキンソン「小鳥が小道におりて来た」
あなたへ こんばんは。夕暮れの風の隙間に、蝉の声が交じる季節になりました。おかわりありませんか。蝉の声は夏の目覚めの合図のよう。あの夜の出来事も蝉が鳴き始めたばかりのことでした。 足りないものをコンビニに買いに行った夜のこと、自動ドアの蛍光灯の下に何か黒いものが転がっているのを見つけました。それは、ひっくり返ったカブトムシのメスでした。夏はまだ始まったばかりだというのに、なぜか傷だらけでツヤも悪く、生きることへの諦めの空気を漂わせ、起き上がらせてもじっと動きません。 昆虫や動物を保護することは、彼らの日常に足を踏み入れ、自然の摂理に逆らうことになるのではないかといつも躊躇うのですが、コンクリートの上で命が絶えるのはやはり忍びなく、ひとまず連れて帰ることにしました。家に帰るとすぐにプラスチックの箱に穴を開け、新聞を敷き、餌には……楽しみに取っておいた頂き物の桃を入れ、そして最後に、放心状態のカブトムシを高級桃の上に乗せました。私もその桃、食べたかったんだけどなと羨ましさをこらえて。 翌日も一日中、桃の上で同じ体勢のカブトムシのカブ子。週末にはカブ子を桃ごと土に返しに行こうと、そのままにしておきました。もう元気にはなれなくても、さいごは桃の甘い香りに包まれ安らかに、と願いながら。 「ブーン、ボン!ブーン、ボン!」夜中になんだろう。 小さなプロペラが回る音がする。そして、ぶつかる音がする。音をたどると、カブ子が箱の中をブンブン飛びながら、蓋にガンガン体当たりしていたのです。まる二日間、桃にかぶりつき、元気とガッツを取り戻したカブ子。荒ぶる直径3センチの戦闘機を、朝が来るまで小さな箱に閉じ込めておくことは出来ないと、森へ返しに行くことにしました。 森は、夜もまだ続く蝉しぐれ。肌に触れてきそうなほどに降りそそぐ蝉の羽音が、森の入り口のカーテンのようでした。それは静かな月に照らされて、向こう側へ二本足の生き物が立ち入ることを、少し恐ろしく思わせました。 箱の蓋を開けると、コンビニの蛍光灯では弱々しかったカブ子の背中が、力強く月明かりを受けとめていました。そして、桃にも、私たちにも振り返りもせず、カーテンの向こうへと消えて行きました。 茶色くしおれ残された桃。役目を終え、私の我慢が報われた瞬間でもありました。視線を少し上に向ける。また、ちょっと下に向ける。 それだけのことで、私たちが分け合っている世界に気づくことができる。 今日はそんな、いつもは見えない互いの日常がふいに交わる瞬間を、そっと束ねたような詩をおくります。 A Bird, came down the Walk - He did not know I saw - He bit an Angle Worm in halves And ate the fellow, raw, And then, he drank a Dew From a convenient Grass - And then hopped sidewise to the Wall To let a Beetle pass - He glanced with rapid eyes, That hurried all abroad - They looked like frightened Beads, I thought, He stirred his Velvet Head. - Like one in danger, Cautious, I offered him a Crumb, And he unrolled his feathers, And rowed him softer Home -Than Oars divide the Ocean, Too silver for a seam, Or Butterflies, off Banks of Noon, Leap, plashless as they swim. 小鳥が小道におりて来た 私が見てるのも知らないで 虫を半分にちょんと切り 食べてしまった 生のまま それから そばの草葉から 露をひとくち 塀の方にぴょんとひと跳ね カブトムシに道をゆずった キョロキョロと見渡して あっちこっちを見回して その瞳はまるで怯えたビーズのよう ビロードの頭をかすかに動かして 何か起こるかと身がまえて 私がパンひとかけらをさし出すと 羽根をほどいて 空へと はためかせた 水面(みなも)に跡ものこさずに 銀色の海をゆくオールよりも 午後のほとりをとび立って 音もなく泳ぐ蝶よりも そっと庭のベリーの実を、小鳥が代わる代わるついばみに来るので、試しにひとつ食べてみたら、ふっくらと甘く、想像以上に美味しくて驚きました。そこで、私たちも収穫することに。 上の方に実ったものは小鳥に取っておき、下の実は虫たちへ、真ん中の実だけを自分たちに。庭のベリーを、小鳥と虫とついばみながら、 あなたにも食べさせてあげたいと思いました。 ひとつの木を、ひとつの実を、 そして、ひと夏を分け合って。 近くにいても、離れていても。 あなたのいない夕暮れに。 追伸 今年の夏もまた新たな訪問者が。 玄関を開けたところに、弱々しいクワガタの男の子、クワ氏です。 「あそこに行けばなんとかなる」と近所で評判なのでしょうか。
エミリー・ディキンソン「私は名もなき隣人 あなたは?」
10-06-2021
エミリー・ディキンソン「私は名もなき隣人 あなたは?」
あなたへ こんにちは。草木がみずみずしく潤う季節になりました。おかわりありませんか。 この季節になるといつも、雨の合間を縫って楽しみに散歩をする場所があります。それは、住宅街の中にポツンとある家一軒ほどの大きさの田んぼです。冬の間は枯れた空き地のようなのですが、梅雨が始まるころ水が引かれ、幼い苗が植えられます。 そしてある時期を境に、夜の田んぼを舞台にした小さなカエルたちの大合唱が始まるのです。 カエルたちは、私が近づくと足音か気配を察知してピタリと鳴き止みます。通り過ぎてしばらくすると、また鳴き始めます。どんなカエルが鳴いているのか、姿を目にとらえたくてそっと近づいてみるのですが、いつも同じところで気づかれてしまいます。青い闇の中で、カエルとの「ダルマさんが転んだ」を繰り返すうち、田んぼ全体が巨大なカエルのように思えてきます。 翌日、昼間に通りかかった時、よく目を凝らして見てみると、青い巨大なカエルは、指先で摘めるほどの小さなカエルでした。 昔、近所の池に大量に発生したおたまじゃくしを捕まえて帰ったことがあります。数日経ったある朝、小さな手足を生やしたおたまじゃくしたちは、カエルと呼ばれるにふさわしい姿になり、蓋をしていなかった水槽から飛び出していました。小さなカエルだらけになった玄関で、半泣きになりながら、一匹、一匹、捕まえ、水槽に入れ、蓋を閉めて池に戻しに行きました。水槽は、おたまじゃくしの時よりも重く感じられ、カエルたちが道路に飛び出さないよう、ぎゅっと力を込めて蓋を押さえた手の痺れを、今も覚えています。 我が家の玄関で変態した記憶を持つ命が池の中で受け継がれ、今、田んぼのカエルの中に、彼らの子孫がいるのではないかと思ったりもします。とはいえ、「あの時のカエルのお孫さん?」などと確かめようもなく、今夜もただ、名もなきカエルの鳴き声を聞いています。 今日は、そんな、名もなきカエルの自問自答のような詩をおくります。 I'm Nobody! Who are you? Are you — Nobody — Too? Then there's a pair of us? Don't tell! they'd advertise — you know! How dreary — to be — Somebody! How public — like a Frog — To tell one's name — the livelong June — To an admiring Bog! 私は名もなき隣人 あなたは? あなたも 同じ? じゃあ これからを ともに? 内緒にね みんなおしゃべりだから 何者かになろうなんて うんざり カエルのように みんなに知られようと 6月のあいだずっと その名を叫び続けるなんて 自分をほめそやしてくれる 沼に向かって 名前の「名」という漢字の由来には、夕刻の暗闇で「あなたは誰?」と尋ねることからきているものがあります。 夜のとばりが降りる中、私を知らない誰かに「あなたは誰?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか。自分の名前や肩書きを答えても、闇の中では風の音と同じです。自分が何者か答えられるようになりたい、 誰かになりたい、そう願う時もありますが、未だどれもピンとこないまま生きています。 カエルは鳴き声で、その存在をアピールします。好きな相手を引き付けるため、敵を遠ざけるため、その時々に鳴き声を変えながら。 誰かに自分を見つけて欲しくて、いいね、すてきねと言われたくて、声をあげる。一方で、そのことに辟易して、耳を塞ぎたくなり、口をつぐみたくなりながらも、「私はここにいる」と叫ばずにはいられない。それは、生きものの本能なのかもしれません。 夜の散歩の帰りに寄ったコーヒー店、入り口の棚の上にカエルが一匹ちょこんと座っていました。店員さん曰く「この時間になると現れて、いつの間にか居なくなるんです」。出入りする人はみな、その存在を認めていて、いないと心配になり、いるとほっとするそうです。 当のカエルは、周りがどう思うかなどお構いなしに、自らが選んだ場所に小さく座り、鳴きもせず、心地よさそうに6月の夜風に吹かれていました。 今夜も、自分の内から外から鳴きやまぬ、名もなきカエルの大合唱。 その奥に鎮座する、鳴かないカエルに耳を澄まして。 また手紙を書きます。 「あなたは誰?」と問いながら。 あなたのいない夕暮れに。 文:小谷ふみ 朗読:天野さえか 絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「真実をありのまま語って でも目を合わせずに」
08-05-2021
エミリー・ディキンソン「真実をありのまま語って でも目を合わせずに」
あなたへ   春の新生活のざわめきも遠ざかり、日常が静かに落ち着いてきました。   おかわりありませんか。木々の緑が日を追うごとに濃くなり、散歩をするのに気持ちのいい朝も多くなりました。最近は、少し荷物になってもカメラを持って歩くようにしています。   今、私の元には、大中小3つのカメラがあります。ひとつは、祖父から受け継いだ古いお爺ちゃんカメラ、もうひとつはコンパクトなデジタルカメラ、そして文字通りおもちゃのようなトイカメラ。棚の上に、黒とシルバー、合わせて3つの相似形が並ぶ様子は、三兄弟のようでとても可愛らしいです。   特に末っ子のトイカメラはネックレスのようにいつも首から下げています。本体は片手のひらに包まれてしまうサイズで、「それで本当に撮れるの?」とみんな驚きます。確かに、小さいだけでなく、よく見るとレンズも歪んでいるし、シャッターボタンを押しても音がしないので、撮れているのか不安になります。 でも、ちょっと残しておきたい瞬間に、小さな付箋を付けるようにカチッとボタンを押しておく。撮られる方も、おもちゃのウインクに構えることなく、ありのままでファインダーに収まります。   後日、パソコンにつないで撮った写真を開いてみると、これが驚くほど……ひどい写りなのです。手ぶれは当たり前、笑顔など横に縦に歪んで、いつどこで撮ったのかも思い出せないような、ちょっと笑ってしまうような写真がたくさん。でも、それがとてもよいのです。いびつになった世界は、妙に安らぎます。   結局のところ、カメラに映るものも、私たちの瞳に映るものも、光りを反射しただけのよく似た虚構に過ぎなくて、真実の形や姿など誰も見ることができないのかもしれません。   それでも、人は真実に近づこうとします。   最近は、携帯電話のカメラの画質も性能も驚くほどよくなりました。でも、鮮明になり過ぎた世界に、少し疲れを感じる時があります。   今日はそんな眩しすぎる真実を見つめる時のヒントになるような詩をおくります。  Tell all the Truth but tell it slant —    Success in Circuit lies    Too bright for our infirm Delight    The Truth's superb surprise        As Lightning to the Children eased    With explanation kind    The Truth must dazzle gradually    Or every man be blind —        真実をありのまま語って でも目を合わせずに    まわり道に そっと横たえて    日々のささやかな悦びには 眩しすぎるから    真実の秘めたる 息をのむような驚きは        子どもたちが稲妻を恐れなくなるように    やさしく説いて    真実はゆっくりと その光りを放つといい    そうでないと みんな目が眩んでしまうから   中学生の頃、遊園地で鏡の迷路に入ったことがありました。そこでは、すべての壁が鏡でできていて、本物の歩ける道と、鏡に映っただけの道を見分けながらゴールを目指します。   最初は友達とはしゃいで歩き回っては、鏡にゴツンゴツンぶつかって、また別の道を歩きまわって……を繰り返していました。そのうち、少しもうまく先に進めないことに疲れ始め、ふと、立ち止まり、鏡の自分を眺めてみました。必要以上に明るく振る舞いがちな自分は、鏡の中でも笑顔でした。でも、鏡を映す鏡のまたその奥を覗きこむと、そこに立っていたのは、ムスッとした見たことのない自分でした。   笑顔と笑顔の鏡の隙間に、本当の姿を見た気がしてドキッとし目を逸らしてしまいました。   ゴールを出る頃に、私だけでなく一緒に入った友達も少し泣きそうになっていたのは、迷路からなかなか出られなかったから、それだけではなかったように思います。   楽しさに混じる、真実に似たものの正体は、しじみの味噌汁に混じった一粒の砂のようでした。   私たちはさいごまで、自分の本当の姿すら自らの目で見ることができないのなら、心に触れてくるものの感触や温度で、その存在を確かめてゆくしかないのですね。   鏡のようなこの世界で、   しじみの砂のような真実ではなく、トイカメラのようなかわいい嘘を、   あなたへの言葉にしのばせて、また手紙を書きます。     あなたのいない夕暮れに。 文:小谷ふみ   朗読:天野さえか   絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「心が踊るのは踏み出すこと」
10-04-2021
エミリー・ディキンソン「心が踊るのは踏み出すこと」
あなたへ こんにちは。 四季の色が春のピンクから新緑のグリーンに変わりつつあります。新年とはまた違った意味で気持ちが改まる4月の日々、おかわりありませんか。 春は出会いと別れの季節ですね。でも、新しい出会いとはすぐに仲良くなれるわけではなく、私には別れのインパクトの方が強いようです。川に流れる花びらを見送りながら、この胸の奥からなかなか出て行かない切ない気持ちをぼんやり感じて過ごしています。それでも、時間は、私の感情などお構いなしに、前へ、前へと進み続けてゆきます。 川の水面を桜色に染めていた花いかだは、今ごろ大きな海に出た頃でしょうか。 海と言えば、私が最初に就職した会社は、船会社でした。「物は動くことで価値が生まれる」という就職活動中に出会った物流業界の言葉に胸を打たれ、海を越え価値を生み出す仕事に憧れて、希望いっぱいに社会へと漕ぎ出したのでした。 入社してすぐに、巨大なコンテナ船に乗り、船や港湾について学ぶ乗船研修がありました。キラキラ光る果ての見えない海に浮かぶ大きな船は、港から見上げると大海にそびえる高層ビルのようでした。また、何も積まれていない船の底は、覗き込めば深い谷のようで、冷たく暗い空気に吸い込まれそうで足がすくみました。 こんなに巨大な船の底も、大きな海に浮かべてみれば、銀紙一枚ほどの厚さなのだと聞いて、海の、世界の深さと広さに圧倒されたものでした。私たちの暮らしや、誰かの思いを運んでいるのは、大海原に浮かぶ銀紙の小舟なのですね。 今日はそんな、まだ見ぬ景色への憧れと喜びに輝く船出の詩をおくります。 Exultation is the going Of an inland soul to sea, Past the houses—past the headlands— Into deep Eternity— Bred as we, among the mountains, Can the sailor understand The divine intoxication Of the first league out from land? 心が踊るのは踏み出すこと 内なる地で育まれた心が海へと向かう 家々を通り過ぎ—岬を越えて— 深く果てしない旅へと 山に囲まれ育った私たちのように 船に生きる人たちに分かるだろうか 霞む大地をあとに 深き海へ出た瞬間の えも言われぬ高鳴るこの気持ちが 私の社会人としての初めての航海は、うまく行かないことや失敗続きで、会社や社会にというよりも、自分自身にがっかりし、不甲斐なさに打ちのめされることばかりでした。今思い出しても恥ずかしく、苦い思いがします。 「物は動くことで価値が生まれる」その言葉の意味と同じように、泣いたり、がっかりしたり、それでも前を向こうと踏ん張ったり、...踏ん張れなかったり、揺れ動く心そのものが、その人がその人たる所以となる、そう思えるようになったのはつい最近のことです。 何も感じなくなくなったら楽なのにと思うこともありますが、いいことも、よくないことも、「心が動くことで自分になる」ということなのかもしれません。 そうやって、自分を知りながら、世界を知りながら、銀紙の小舟は海をゆきます。ある海でうまくいかなくても大丈夫、海は7つもあるのです。 しかも、その海は結局のところ、ぜんぶ繋がっているのです。バラバラに見えて、よくできたひとつのストーリーだったと思う瞬間は、きっと誰にでもあるのではないでしょうか。 あなたの小舟が、銀色に輝く意志のもとに、風の吹くまま帆の向くままに、心地よい然るべき場所へ、導かれてゆきますように。 近くに浮かぶ小舟から、いつも祈っています。 また手紙を書きます。 あなたのいない夕暮れに。 文:小谷ふみ 朗読:天野さえか 絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「世界に春が芽吹いたら」
07-03-2021
エミリー・ディキンソン「世界に春が芽吹いたら」
あなたへ   こんにちは。 吹く風に柔らかな春を感じられるようになりました。おかわりありませんか。 まだ寒の戻りもあり、厚手の衣類をしまったり、また引っ張り出したり、身にまとうものも定まらない日々です。 町の桜もまた、冷たい風に膨らみかけたツボミを固くし、ほっとほころべるその時を、じっと待っているようです。 桜が咲きそうなこの時期になると、私には「桜の音」が聴こえます。正確には聴こえるような気がして、木のそばに寄ると耳の奥がむずむずザワザワするのです。 桜は咲く直前になると、あの茶色いゴツゴツとした木の皮や枝から、「桜色の水」が採れるそうです。冬のあいだ、ひっそりと木の幹に蓄えられてきた「桜の水」は、春の日差しや南風を合図にツボミへと向かい、花となって咲くのです。 そして桜は、花びらや葉を散らしてからも「桜」であり続け、次の春に花咲くその時を、全身に「桜の水」を抱きながら待ちわびるのだそうです。 この時期、私に聴こえる「桜の音」は、木の幹を流れる桜色の水が、花びらに向かう音なのかもしれません。 冬のあいだ、すべてが枯れたように見えた木々や草花、姿を消した虫や生き物たちも、幹の奥で、土の底で、静かに春の準備を重ねていたのですね。南風に小さく目覚めても、寒さに引き戻されながらも、やがて芽吹き、花咲き、春にほころんでゆくのだなと感じます。 一方、私は春の光の元に照らされる準備がまだ出来ていません。毎日着込んだ冬着はクタクタになり、肌はカサカサ、髪もボサボサ。コタツの安らぎともお別れしなければならないのかと、冬の眠りから覚めたくないような気持ちにもなります。 南風が吹くだけでは、なかなか起き上がれない心もあります。 今日はそんな、まだ立ち上がれない私たちへの、春の詩をおくります。 "Spring comes on the World - I sight the Aprils - Hueless to me, until thou come As, till the Bee Blossoms stand negative, Touched to Conditions By a Hum -   世界に春が芽吹いたら あらゆる4月の姿が目に映る でも あなたがいないと 私にとっては彩りのない世界 それはまるで ミツバチがやって来るまでは 立ち尽くすだけの花のように その羽音に心ときめかせながら" この心を揺り起こし、コタツの外へ引っ張り出してくれる誰かにとってのミツバチは、ずっと会いたかった友人だったり、新しく始める趣味だったり、枯れた庭に顔を出す新芽だったり。 私には「あの人は元気かな」と思い出すように、春が来るたびに「あの桜は咲いたかな」と心に浮かぶ木があります。それは古いお城の跡地に立つ大きな桜の木で、ある眠れない夜、散歩に出かけた時に出会いました。 その満開の桜は、少し肌寒い、月も星もない夜空の下で、暗闇のなかボウッと浮かび上がって見えました。桜色の炎をつけた、大きなタイマツのように。 誰もいない静かな場所で、いっぱいに広げた枝、その枝の先の先まで、可憐にも力強く花咲く姿。誰が見ていても、見ていなくても、誰のためでもなく、桜は「桜」でした。 毎年、あの古城跡の桜はどんなに豊かな流れを抱いているのだろうかと、耳を澄まし、春を迎える気持ちを高めています。 時に、冷たい風に引き戻されながらも、あなたの新しい季節が立ち上がり、前へと歩みを進めますように。 あの遠くの桜を想うように、あなたにほころぶ春を想い、ここでそっと耳を澄ましています。 あなたのいない夕暮れに。 文:小谷ふみ   朗読:天野さえか   絵:黒坂麻衣
エミリー・ディキンソン「水を喉の渇きが」
12-02-2021
エミリー・ディキンソン「水を喉の渇きが」
あなたへ こんにちは。 節分をまたぎ、暦は冬から春になりましたが、しかめ面の北風はまだまだ健在で、春はどこか遠くで眠ったままのようです。 風邪など引いていませんか。 私は鼻風邪を引きかけましたが、ひどくなる前に引き返すことができました。 鼻や喉、頭やお腹、どこにも痛みや違和感がない、それだけで嬉しくなります。 日々、黙々と、身体は絶妙なバランスを保ちながら機能しているという奇跡を、調子を崩すたびに思い知ります。 そして、いつものご飯の美味しさや、外に出れば空が青いこと、その下を風に吹かれながらスタスタと歩けること、そんなありとあらゆる、日々の「当たり前」を新鮮に、尊く感じます。 でもやがて、その気持ちは、だんだんと、また「当たり前」の日々に埋もれてしまうのですが……。「当たり前」のよろこびは、忘れられやすく、とても儚いものですね。 大きな病気をしてからは、「また忘れてない?」と、チクリつねられるような瞬間があります。 月に一度、眠る病の様子をうかがいに病院に行くのですが、採血室にはいつもなぜかジャズが流れています。ジャズをバックミュージックに、左腕がチクリとすると、身体を巡る赤いものが、針の先から、透明の細いチューブを通り、ゆっくり試験管へと運ばれてゆきます。 このチューブが腕に触れると、それはとても温かいのです。 こんなに温かいものが、私に、あなたに、巡っているのだということに、いつも驚いてしまいます。 最近では、「パブロフの犬」のように、ジャズを聴くと「痛み」と「ぬくもり」の記憶が、身体の奥に湧き上がります。 私のジャズの聖地が、ニューオリンズでもブルーノートでもなく、病院の採血室なのはヒミツです。 今日は、そんな「痛み」を知る「ぬくもり」の詩をおくります。 Water, is taught by thirst. Land — by the Oceans passed. Transport — by throe — Peace — by its battles told — Love, by Memorial Mold — Birds, by the Snow. 水を 喉の渇きが 大地を 渡ってきた海が 喜びを 苦しみが 平和を 戦いの物語が 愛を 思い出の輪郭が 小鳥を 雪が伝えてくれる 北風の隙間からふわふわと舞っていた雪が本降りになり、今朝、起きたら町が一面、雪に包まれていました。 近所の小学校でチャイムが鳴り、聞こえてきたいつもとは違う子どもたちの歓声に、ハッとしました。その声がまるで、雪の中を飛び立つ小鳥のようで。 真っ白なスクリーンのようになった校庭に駆け出し、はしゃぐ子どもたちの声に、何か気づいていないことや、忘れてしまっていることがあるような気がして、すぐに溶けてしまう雪のひとひらを手にするように、その儚い気配を追いかけてしまいます。 楽しかったことや、ぬくもりは、柔らかな雪のように手のひらからすぐ消えてしまうのに、悲しみや痛みの記憶は人の心に深く積もりがちです。 明日、目が覚めたら、あなたに積もった辛いことや悲しいことが、雪と一緒に溶けてなくなっていますように。 あなたに、やがてやさしい春が目を覚ますように祈っています。 ここで、ジャズを聴きながら。 あなたのいない夕暮れに。 文:小谷ふみ 朗読:天野さえか 絵:黒坂麻衣