エミリー・ディキンソン「鉛筆がないのなら」

あなたのいない夕暮れに 〜新訳:エミリー・ディキンソン

12-01-2022 • 9分

あなたへ


こんにちは。新しい年の幕開けは、丘の上から1年先まで見渡せそうなほど、キリリとよく晴れた空模様でした。おかわりありませんか。

今朝は散歩の帰りに、お正月休みの小さな商店街を通りました。アーケードを中ほどまで進むと、誰でも弾けるピアノが置いてありました。そこに小学校高学年くらいの女の子がひとり、「ぽろろん」と鍵盤に触っていました。まだ目覚めない町の中で、音楽は眠ることなく、「ぽろろん」と佇んでいました。そのメロディ未満のメロディは、これから始まる1年の物語のプロローグのようでもありました。


私の心には、12歳の頃から大切にしている、ピアノの音色に綴られた物語があります。

小学生の頃、私のクラスは音楽室の隣の教室で、週に一度、掃除の当番が回ってきました。

出席番号が前後だった、ピアノが上手な彼女とは当番もいつも一緒でした。

ある日、掃除が終わってみんなが出て行くと、彼女がおもむろにグランドピアノを弾き出しました。彼女の奏でるメロディに、心の奥をきゅっと掴まれたような気がして、思わず「何て曲?」と尋ねると、少しためらいがちに「今、作ってて……」という答えが。「音楽って、作れるの?」と、すでに出来ている音楽しか知らなかった私は、この当たり前の事実に、とても驚いたのでした。


この日から、掃除が終わると、ピアノの前にふたりで残るようになりました。少しずつ長くなってゆくメロディを聴きながら、生まれたばかりの音楽に触れることに、胸を震わせていました。「今日はここまでかな」と立とうとする彼女に、「もうちょっと」とせがむと、もう少しだけ弾いてくれることもありました。


彼女は、ちょっと特殊な家のお嬢さんでした。保護者会には、彼女を「姫」と呼ぶ、じいやが来て、運動会となればバズーカ砲のようなレンズを抱えた専門カメラマンが、彼女の勇姿を収めに来ていました。お誕生日会は盛大で、帰りがけには全員にお土産が用意されました。私が頂き忘れた時には、じいやが黒塗りの車で自宅まで届けに来てくれたこともありました。

大人の中で育っていたせいか、彼女は年齢より落ち着いた空気をまとい、遠くで目が合っても、にっこり微笑むような女の子でした。


小学校を卒業すると、彼女はヨーロッパの全寮制の学校へ進学しました。季節ごと届く手紙に添えられた写真の中の彼女は、封を開くたび、美しく成長してゆきました。

牛乳ビンの底のようにぶ厚い眼鏡はコンタクトレンズになり、ショートに切り揃えていた髪は、ロングヘアーのポニーテールに。モスグリーンで統一されたブレザーの制服を身につけ、華やかな同級生と映る背景は、教科書でおなじみの大聖堂。初めての気になる男の子は、王子さまみたいなフランス人。遠い国から届く数々のピースを繋ぎ合わせるうち、彼女が遠い物語のお姫さまになったように感じました。


だんだんと、互いに手紙も途絶え、いくつかの春が過ぎ去ったある日、久しぶりの便りが届きました。手紙には、写真ではなく、ある紙が添えられていました。


それは、音楽室で奏でられた、あのメロディを譜面に起こしたものでした。

3枚に渡る五線譜の物語は、最終小節まで綴られており、ひとつの音楽が完成していました。


鉛筆で書かれた、細くて、やさしい筆圧の音符。

心の奥で、花のように咲くメロディ。

楽譜を持つこの右手が、終止符に触れた時、左胸に小さな痛みを覚えました。


私はピアノが弾けないので、

譜面からメロディを揺り起こすこともできないまま、今も。

そして、彼女に何も返せないままに。


今日は、あの時に似た痛みを、

チクリと思い出してしまう、そんな詩をおくります。


> If it had no pencil

> Would it try mine-

> Worn-now-and dull-sweet,

> Writing much to thee.

>

> If it had no word,

> Would it make the Daisy,

> Most as big as I was,

> When it plucked me?

>

> 鉛筆が ないのなら

> 私のを どうぞ使って

> 今では 小さく丸くなったチビ鉛筆

> あなたに たくさん書いたから

>

> 言葉が ないのなら

> デイジーを

> あの日 摘み取られた私と

> 同じ大きさの


世界中すべての音楽を聴けたとしても、出会うことはない、放課後の音楽室の物語。

交わす言葉が途絶え、何十年たった今も、ふいにメロディを口ずさむことがあります。


「今も大切にしています」


彼女にそう伝えるかわりに、

私がもらった心の花を、私なりの方法で、

誰かに渡してゆこうと思う日々です。


私の中の小さなお姫さまは、

今も遠いどこか異国の地で、私の知らないメロディを奏でている。

そうやって物語は、終わったあとも、知らない場所で続いていると思いながら。


今年も、あなたの物語が「ぽろろん」と、穏やかに綴られてゆきますように。

鉛筆に、時に、花に乗せて。

また手紙を書きます。


あなたのいない夕暮れに。


文:小谷ふみ

朗読:天野さえか

絵:黒坂麻衣