エミリー・ディキンソン「世界に春が芽吹いたら」

あなたのいない夕暮れに 〜新訳:エミリー・ディキンソン

07-03-2021 • 8分

あなたへ


こんにちは。

吹く風に柔らかな春を感じられるようになりました。おかわりありませんか。

まだ寒の戻りもあり、厚手の衣類をしまったり、また引っ張り出したり、身にまとうものも定まらない日々です。


町の桜もまた、冷たい風に膨らみかけたツボミを固くし、ほっとほころべるその時を、じっと待っているようです。


桜が咲きそうなこの時期になると、私には「桜の音」が聴こえます。正確には聴こえるような気がして、木のそばに寄ると耳の奥がむずむずザワザワするのです。


桜は咲く直前になると、あの茶色いゴツゴツとした木の皮や枝から、「桜色の水」が採れるそうです。冬のあいだ、ひっそりと木の幹に蓄えられてきた「桜の水」は、春の日差しや南風を合図にツボミへと向かい、花となって咲くのです。


そして桜は、花びらや葉を散らしてからも「桜」であり続け、次の春に花咲くその時を、全身に「桜の水」を抱きながら待ちわびるのだそうです。

この時期、私に聴こえる「桜の音」は、木の幹を流れる桜色の水が、花びらに向かう音なのかもしれません。


冬のあいだ、すべてが枯れたように見えた木々や草花、姿を消した虫や生き物たちも、幹の奥で、土の底で、静かに春の準備を重ねていたのですね。南風に小さく目覚めても、寒さに引き戻されながらも、やがて芽吹き、花咲き、春にほころんでゆくのだなと感じます。


一方、私は春の光の元に照らされる準備がまだ出来ていません。毎日着込んだ冬着はクタクタになり、肌はカサカサ、髪もボサボサ。コタツの安らぎともお別れしなければならないのかと、冬の眠りから覚めたくないような気持ちにもなります。


南風が吹くだけでは、なかなか起き上がれない心もあります。

今日はそんな、まだ立ち上がれない私たちへの、春の詩をおくります。


"Spring comes on the World -

I sight the Aprils -

Hueless to me, until thou come

As, till the Bee

Blossoms stand negative,

Touched to Conditions

By a Hum -

世界に春が芽吹いたら

あらゆる4月の姿が目に映る

でも あなたがいないと

私にとっては彩りのない世界

それはまるで

ミツバチがやって来るまでは

立ち尽くすだけの花のように

その羽音に心ときめかせながら"


この心を揺り起こし、コタツの外へ引っ張り出してくれる誰かにとってのミツバチは、ずっと会いたかった友人だったり、新しく始める趣味だったり、枯れた庭に顔を出す新芽だったり。


私には「あの人は元気かな」と思い出すように、春が来るたびに「あの桜は咲いたかな」と心に浮かぶ木があります。それは古いお城の跡地に立つ大きな桜の木で、ある眠れない夜、散歩に出かけた時に出会いました。

その満開の桜は、少し肌寒い、月も星もない夜空の下で、暗闇のなかボウッと浮かび上がって見えました。桜色の炎をつけた、大きなタイマツのように。


誰もいない静かな場所で、いっぱいに広げた枝、その枝の先の先まで、可憐にも力強く花咲く姿。誰が見ていても、見ていなくても、誰のためでもなく、桜は「桜」でした。


毎年、あの古城跡の桜はどんなに豊かな流れを抱いているのだろうかと、耳を澄まし、春を迎える気持ちを高めています。


時に、冷たい風に引き戻されながらも、あなたの新しい季節が立ち上がり、前へと歩みを進めますように。

あの遠くの桜を想うように、あなたにほころぶ春を想い、ここでそっと耳を澄ましています。


あなたのいない夕暮れに。


文:小谷ふみ

朗読:天野さえか

絵:黒坂麻衣

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