映画のお話

mizushimama

自分が観た映画について、おしゃべりの練習をかねて語ります。 なるべくネタバレしないように話します。 メッセージはこちらから👇 https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8 read less
テレビ・映画テレビ・映画
映画批評映画批評

エピソード

第3回「ゲストとお話」寺山修司とトランプとサブカル(ゲスト:トークラさん)
4日前
第3回「ゲストとお話」寺山修司とトランプとサブカル(ゲスト:トークラさん)
「寺山修司とアングラの未来」 「100回なんてすごいね」そう言われて、私はようやく自分のポッドキャストが大台を迎えたことに気づいた。更新が滞り気味だったこともあり、特別な感慨が湧くわけでもなかったが、悪い気がしない。 今回のゲストはトークラさん。アングラ文化を語るにはこれ以上の適任者はいないだろう。 彼との会話は、まるで川の流れのようにどこまでも続いた。寺山修司の魅力から始まり、アングラ文化の再評価、現代社会が抱える閉塞感の正体、そしてSNS時代における表現の困難さまで。どれも結論を求める話ではなかったが、だからこそ面白い。 寺山修司展に足を運んだという彼は、展示されていた手紙の話を熱っぽく語った。イラストや遊び心が散りばめられたその手紙は、送り手の意図がそのまま形となった作品だったという。「将来高値がつくから」と冗談めかして送りつけられた手紙に、私たちは彼の破天荒なユーモアを感じた。 「アングラに惹かれる若者と会話した」とトークラさんが話す。閉塞感を抱えた時代には、主流から外れた表現が魅力的に映るのかもしれない。ポリコレの息苦しさ、SNSであふれる即時的な言葉たち。これらに反発するかのように、寺山修司のような“余白”のある表現が、再び注目を集めているのだろう。 だが、私たちは同時に気づいている。寺山修司のような存在は、もう出てこないのかもしれない、と。メインカルチャーが崩壊した現代においては、かつてのような明確な“対抗軸”が存在しない。紅白歌合戦やレコード大賞といった象徴に反発することで生まれるエネルギーが、どこにも行き場を持たない時代。アングラと呼ばれるものすら、どこか中途半端になっている。 「寺山修司が現代にいたら、YouTubeやSNSを使い倒していたんじゃないかな」と私は思った。彼はきっと、既存のフォーマットを壊しながら、新たな場を作っていただろう。視聴者に問いかけ、揺さぶり、また次の問いを投げかける。そんな姿を想像すると、妙にリアルに感じられるから不思議だ。 会話は最後に、哲学カフェの話題へと移った。トークラさんが主催するその場は、まるで寺山修司の遺した「路上演劇」の再解釈のように思えた。政治や芸術を語り合い、意見を交換する。時代遅れかもしれないが、だからこそ貴重な場だ。 「寺山修司は僕たちのすぐそばにいるのかもしれないね」そんな言葉で締めくくられた今回の対談。終わらない会話と、どこかに残る表現への渇望。それらすべてが、現代のアングラを象徴しているようだった。 また半年後、彼をゲストに招いたときには、何が見えているだろうか。アングラの灯火はまだ消えていないと信じたい。
100.映画「侍タイムスリッパー」(2024年)時を越えたこの映画と、侍のような孤独な語り
28-10-2024
100.映画「侍タイムスリッパー」(2024年)時を越えたこの映画と、侍のような孤独な語り
気づけばこの配信も100回目。ようやくこの数字に到達したわけですが、まぁ、他にもゲスト呼んだり、いろんな特別企画を挟んでいるので、実際の配信回数はとっくに100を超えています。でも「ただ一人で映画を語る」という枠の中で迎える100回目というのは、何とも言えない気持ちになりますね。そもそもこの配信、何で始めたかといえば、一人で映画についてしゃべり続けることで、自分の表現力や伝え方を磨きたいと思ったからです。仕事に活かせればいいかなーなんて期待もあったわけです。まぁ、趣味と実益を兼ねて、筋トレならぬ“公開しゃべりトレーニング”って感じで。しかしですね、こうやって続けていくと気づきます、これはなかなか弊害があるなと。一人でしゃべり続けるのって思ってたよりも性質が悪い。最初はいいんですよ、「面白く話さなきゃ」とか「分かりやすく伝えよう」なんて、意識して工夫もしてるから。でも回数が重なると、無駄に話が長くなるんですね。配信だから、どうせなら聞きごたえをと引き延ばしたり、妙にテンポを崩したりしているうちに、回りくどくなるクセが染みついちゃう。仕事の会話なんかでも「あれ、自分だけが気持ちよくしゃべってない?」って気づくことが増えてしまって、完全に本末転倒です。ほんと良くない、独りよがりな筋肉がついてしまった。まぁそんなこんなで、今回100回を節目にやめようかなと頭をよぎりつつ、でもやっぱり続けたい気もするんですよ。話題が変わりますが、最近、tiktokでサザエさんのパロディなんかもやってみて、これが少しバズりまして。生成AIを駆使してクレイアニメで、サザエさんを描いてみたわけです。そしたら通知が鳴りやまなくて、まぁいわゆるバズったわけなんですよ。さて、そんなわけで今回語る映画は、映画でバズっている『侍タイムスリッパー』。この作品、じわじわ話題を集めていて、地元の映画館でも上映が始まったので観に行きました。感想としては、率直にいうと、私には少しピンとこなかったんです。映画館には年配の方が多くて、観客の笑いもどこか懐かしさに満ちているような空気がありました。50~60代以上には強烈に響くんだろうなぁ、そんな印象です。この作品は、往年の日本映画のテイストを多分に含んでいるのですが、ギャグや小ネタが妙にこっ恥ずかしいというか、そういうノリなんです。ベタな笑いも多いし、いわゆる「昭和の時代劇の美学」を大事にしている感じ。懐かしさも込めて観た年配の方にはウケているのでしょうが、若者がこれに「懐かしい」と感じるのかは疑問ですね。これが実際にヒットしているのは、きっと年配の、時代劇が好きで、過去の日本映画に愛着がある層に支えられているからでしょう。そもそも、こういった年配向けの邦画って、今ではすっかり減ってしまいましたからね。それでも、私の中で一番印象に残ったのは、監督の映画にかける情熱です。自主制作でありながら、私財を投じて約2000万円、全製作費2600万という額で撮り上げたと聞いて、心にくるものがありました。車両から撮影、演技指導に至るまで一人で切り盛りして、主演女優は助監督までしているという低予算の苦労。ここに、日本映画の“インディペンデント魂”みたいなものを感じます。何よりも、時代劇という過去の美学を今一度生き返らせようとするこの情熱は、映画ファンとしては尊敬せずにはいられません。作品の内容も決して悪いわけではなく、実際、映画館を出た後もじわじわと“良さ”が残っているんです。時代を超えて、未来から現代に迷い込んだサムライが、日常に溶け込んでいく過程は面白かった。ただ、タイムスリップのギミックが活かしきれていないと感じたのも事実で、過去と現代が交わるような熱い展開や、登場人物同士の絆がもっと描かれていれば、さらに面白かったかもしれません。とはいえ、私が感じた不満すら、年配の観客の拍手喝采を見ていると少し違うのかなと思わせるんですよね。要するに、これって「昭和の日本」を愛している人たちのための作品なんだろうなと。そして、昔の時代劇の精神を今に伝えようとする気概も感じられます。私にとってはちょっとピンと来ないギャグでも、その古き良き「日本映画のコメディ」として評価する声が多いのも納得。いや、だから、やっぱり映画ってのは奥が深いですね。監督の想いにただただ感嘆しつつ、これが今の日本でこうして受け入れられているのかと思うと、なんとも複雑な気持ちです。最後まで観たことで、自分なりに“時代劇”への見方が少し変わった気もするし、この100回目に選んだ映画としては、ある意味ふさわしい作品だったのかもしれません。さて、こんな感じでまたしても無駄に長い話になってしまいましたが、これもまた100回続けたからこそ得た“回りくどさ”かもしれませんね。次回はもう少しコンパクトにまとめていければと思いつつ、まぁまた100回続けたらどんな話になるんだろうと、そんなことをふと思ってしまいました。
099.映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」(2024年)二つの顔を持つ男、アーサーとジョーカー、狂気と孤独
15-10-2024
099.映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」(2024年)二つの顔を持つ男、アーサーとジョーカー、狂気と孤独
『感想』 「ジョーカーって、結局何だったんだろう」。映画が終わってしばらくの間、私はそんなことを考えていた。 前作の『ジョーカー』を初めて観たとき、心の奥底を乱暴に掻き回されたような気分になった。社会に見捨てられ、誰にも愛されない男が、最終的には自分の狂気に身を委ねていく――そんな物語だった。でも、正直に言えば、その結末が彼にとって一種の「解放」だったのではないかと、少しホッとした自分もいた。あの時のジョーカーは、どこかで私たちの代弁者のように感じられた。現代社会の不条理に耐えかね、ついに反旗を翻す彼の姿が、ある種のカタルシスを提供してくれたのだ。 ところが、今回の『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』では、そんな感情が一変してしまった。再びスクリーンに登場したジョーカー――いや、アーサー・フレックは、前作ほどの勢いを持たず、むしろ戸惑いと苦悩の中にいる。最初は「ん? 何かが違う」と感じた。前回のように、観客を一撃で揺さぶる狂気はどこかに消え、アーサーは再び、ジョーカーという仮面をかぶるべきか、それとも自分自身の弱さを受け入れるべきか、その狭間で揺れ動いていた。 今回登場するレディー・ガガが演じるハーレイ・クインとの関係も、何とも言いがたい微妙なものだ。まるで、誰かが無理やり「ハッピーエンド」を演じさせようとしているかのようだが、この映画で本当に求めているものは、そんな「幸せ」ではない。二人が手を取り合うたびに、その関係性の不安定さが露呈していく。 それにしても、ハーレイ・クインの存在感は圧倒的だった。彼女は、ジョーカー以上に「ジョーカーらしい」とさえ感じられる。狂気と愛情が入り混じった振る舞いで、アーサーをさらなる混乱へと追い込んでいく。彼女との関係は、どこか逃避のようにも見える。前作のジョーカーは孤独を貫いていたが、今回は「愛する人」がいる。その存在が、かえってアーサーの不安定さを際立たせているのだ。だが、彼女が愛しているのはアーサーではなく、ジョーカーというアイコンそのものだということが、ますます明らかになっていく。 一方で、今回の作品にはミュージカル調の演出が加わり、茶番劇のような軽妙さが感じられる。特に法廷のシーンはその典型だ。前作では観客を翻弄し、絶対的な力を大衆を味方につけていたジョーカーが、今作では法廷という舞台で、無力さが際立っている。「え、こんな結末でいいの?」と、思わず不安にさせられるほどだった。 しかし、考えてみると、これこそがジョーカーの「現実」なのだろう。ジョーカーというキャラクターに憧れていた私たち観客も、彼の孤独や弱さを無視していたのかもしれない。彼がどれだけ狂気を演じようとも、その裏には一人の人間、アーサー・フレックが存在する。そして、彼にはジョーカーとして世界を変える力などなく、ただ日常の中で自分の居場所を探し求め続けるだけなのだ。 前作のジョーカーに共感していた私も、今回は別の感情を抱いた。それは「同情」かもしれない。狂気に身を委ね、一度は自分を取り戻したかに見えたアーサーだが、結局は再び迷子になってしまった。彼の物語は、終わることのない迷路のようだ。アーサー自身、何を求めているのか、もはや自分でもわかっていないのかもしれない。 この映画を観て改めて思う。「ジョーカーとは、一体何だったのか」。ジョーカーの物語は、私たちの孤独や不安、そして何かに救いを求める心を映し出している。彼が狂気に走ったのも、人とのつながりを渇望していたからだろう。しかし、そのつながりが彼を救うことはなかった。人間関係は、時に私たちを救うこともあれば、逆にさらなる苦しみをもたらすこともあるのだ。
098.映画「シビル・ウォー アメリカ最後の日」(2024年)冷酷なレンズ越しに見えた、人間の尊厳
06-10-2024
098.映画「シビル・ウォー アメリカ最後の日」(2024年)冷酷なレンズ越しに見えた、人間の尊厳
「感想」 俺は人生の中で、いくつか忘れられない出来事がある。いい思い出も、悪い思い出も、どれもが胸の中で沈殿して、時々ふと浮かび上がってくるんだ。そんなある日、サンボマスターとクロマニヨンズが対バンでライブをやるって情報が俺の耳に入った。これを聞いて、心の奥底に眠っていた何かが目覚めた。 正直に言えば、俺は熱心なファンと比べればどちらも熱狂的なファンではない。尊敬はしているが、熱狂とまではいかない。それでも、この組み合わせには特別な何かがあったんだ。ファンなら誰もが分かると思う。これが実現するってことがどれだけのインパクトを持つかってことを。 だから俺は、すぐに申し込んだ。9月に告知が出て、手続きを済ませた。でも、心の中では半ば諦めていたんだ。「そんなチケット、簡単に取れるわけがない」。そんな気持ちを抱えながらも、期待だけは膨らんでいく。まるで、つかめそうでつかめない夢を追いかけるみたいなもんだ。 ところが、運命の女神は俺に微笑んだんだ。10月のある日、俺の手元に当選通知が届いた。「ああ、これだ」って思ったね。最後に、俺にいいことが起きるってやつだ。年の終わりが近づいてきたこの時期に、ようやく俺にも光が差し込んだんだって思った。 でもな、世の中はそう甘くない。俺はその一瞬の輝きを、見事に台無しにしたんだ。俺自身の不手際でな。支払い方法をクレジットカードじゃなくて、コンビニ決済にしちまったんだ。それに気づいたのは、もう後の祭りだった。支払い期限を見逃して、俺はチケットを手放す羽目になった。 その瞬間の絶望感といったら、言葉じゃ表現できない。まさに天国から地獄への急降下だ。俺の中で「今年最後の大勝負」が、そんなつまらないミスで終わったんだ。もう一度自分を責めたよ。自分がこんなにも愚かだとは思わなかった。 二次募集があるって聞いたとき、藁にもすがる思いで再度申し込んだ。だが、当然のごとく、その希望もすぐに打ち砕かれた。俺がキャンセルした分は、すぐに誰かが手に入れたんだろう。俺のミスを、誰かが笑いながら受け取ったと思うと立ち直れない。 その後、SUPER BEAVERのアコースティックライブにも応募した。だが、それも外れた。でも、その外れは別にどうでもよかったんだ。あくまでクロマニヨンズとサンボマスターのライブを逃したことが、俺の心に残る唯一の痛みだった。それが胸に突き刺さって離れない。人生の中で、こんなにも悔しい瞬間があっただろうか。 結局、教訓は一つ。「慣れないことはするもんじゃない」。コンビニ決済なんて、普段しないことをして、俺は自らを破滅に追いやったんだ。これからはそんなリスクを冒すのはやめよう。自分の道をしっかり歩む、それが最善なんだってことを俺は学んだ。 そんな自嘲の気持ちを抱えつつ、俺は何気なく映画を観に行くことにした。「シビル・ウォー アメリカ最後の日」という映画が上映されるってことで、何か心の中を埋めるものを求めて足を運んだ。映画というのは、時に俺たちの現実から目を背けさせてくれる存在だ。今の俺には、それが必要だったのかもしれない。 シビルウォーは、アメリカの内戦を描いた作品だ。これを見たとき、俺は何か大きな衝撃を受けた。映画が進むにつれて、胸の中に重たい感情がじわじわと湧き上がってくるのが分かったんだ。ロードムービーとしての構成は見事で、登場人物たちがさまざまな出来事に遭遇しながら旅を続ける。そこでの成長や気づき、そして彼らの人間的な弱さが浮き彫りになる。 主人公たちはジャーナリストたちで、その中には戦場カメラマンとしてベテランの女性と、その彼女に憧れる若い少女がいた。この二人の関係が物語の核を成している。戦争の中で、彼女たちはカメラのシャッターを切り続ける。しかし、戦場の残酷さは容赦なく二人に襲いかかる。 ある場面で、ベテランのカメラマンが若い少女に向かってこう言うんだ。「私は、あなたが死にそうになってもカメラを回し続ける。感情に左右されるわけにはいかない」って。冷たく、現実的な言葉だった。戦場では、そうでなければ生き残れないという厳しさがにじみ出ていた。 だが、物語が進むにつれて、そのベテランカメラマンの心にも変化が訪れる。最後のシーン、彼女は若い少女が死にかけている状況で、カメラを手にすることをやめ、彼女を救うんだ。その瞬間、彼女は「人」としての感情を取り戻したんだと思う。 このシーンを見たとき、俺は何か胸に熱いものを感じた。人間として、何を選ぶべきか。カメラを持ち続けるか、それとも目の前の命を救うか。ベテランのカメラマンが最後に選んだのは、後者だった。彼女は、戦場での冷徹な自分に終止符を打ち、若い世代にバトンを渡す決断をしたんだ。 シビルウォーは、ただの戦争映画じゃなかった。内戦という状況下で、人々がどのように変わり、何を選び取っていくのかを描いた、非常に深い作品だった。戦争の中での不条理や人間の弱さ、それでもなお希望を持つことの大切さが、この映画には詰まっていたんだ。 映画館を出ると、冷たい風が頬を撫でた。外の世界は静かで、戦争とは無縁の平和が広がっていた。だが、ふと考えたんだ。この世界でも、いつ何が起こるかなんて分からない。イスラエルとイランの対立が激化しているニュースが流れているが、今はそれが遠い国の話に思える。だが、それもいつか俺たちの現実になるかもしれない。 俺はそんなことを考えながら、ふとタバコに火をつけた。映画の余韻が残る中、シビルウォーで描かれた世界と現実の世界が交錯するような感覚に襲われた。戦争というのは、誰か他人事のように感じるかもしれないが、実際にはすぐそばにあるんだ。そんな現実を目の当たりにしたような気がした。 俺はこれからも、自分の人生を歩んでいくだろう。クロマニヨンズとサンボマスターのライブには行けなかったが、それでも俺は生きていく。人間は、失敗し、苦しみ、それでもなお歩き続ける存在だ。それが俺の教訓だ。そして、いつかまた同じようなチャンスが巡ってきたとき、今度は絶対に失敗しないようにしようって、心の中で静かに誓った。 映画の中のカメラマンたちが、自分たちの信念に従って行動したように、俺も自分の信念を持って生きていくつもりだ。それが、生きるってことだからな。
097.映画「ナミビアの砂漠」(2024年)アカルイミライと比べて観ると面白い
23-09-2024
097.映画「ナミビアの砂漠」(2024年)アカルイミライと比べて観ると面白い
「感想」 先週、ひたちなかのロッキンフェスに行ってきた。音楽に身を委ねる群衆の中で、俺は何かを探していた。最近は生成AI動画がブームだ。せっかく行ったんだから、この経験をコンテンツにできないかと考えた。写真を撮って、動画を作ってみたんだ。 その前に観た映画がある。「愛に乱暴」だ。感想を生成AIで作れないかと思った。ちょうど「探偵物語」の予告編の台詞を手に入れた。松田優作のあの独特な語り口が好きでね。そのテイストで文章を作ってみた。 文章は完成した。画像も生成AIで作った。ツイッターに上げたら、なんと監督がリツイートしてくれた。嬉しかったよ。この調子でロッキンの動画も作ろうと思った。帰ってきた翌日、写真をつなぎ合わせて動画を作った。でも、ツイッターやインスタでは反応がなかった。 ところが、TikTokに上げたら再生数が急上昇した。十万再生を超えたんだ。でも、フォロワーは増えない。数字だけが膨らんで、虚しさが残った。 そんな中、「ナミビアの砂漠」という映画を観に行った。監督は27歳の山中瑶子さん。主演は河合優実さん。若い女性監督の長編デビュー作だ。物語は21歳の金(かな)が主人公。怒りや苛立ちを抱えながら生きている。脱毛サロンで働き、優しい彼氏と暮らしているが、つまらなさを感じて浮気をしている。 映画は長回しのシーンが多く、カットが少ない。観ていると、少し苛立つくらいだ。でも、それがカナの内面を映し出しているのかもしれない。物語は明確な結末を持たない。まるで終わりのない旅をしているようだ。 考えさせられた。この作品のテーマは何だろうか。若者の無力感や内面的な怒り。自分も同じような感情を抱えていたことがある。何かをしても満たされない苛立ち。カナは脱毛サロンで働いているが、それも一時的な効果しかない仕事だ。 彼女は友達とも表面的な関係しか持てない。喫茶店で会っても、心ここにあらずだ。彼氏との関係も上手くいかない。優しすぎる彼氏に苛立ちを覚え、浮気相手に感情をぶつける。でも、その関係も崩れていく。 映画を観て思った。若者の苛立ちは昔から変わらないが、今の時代はそれを発散する場所がない。SNSで常に監視され、自由に行動できない。行き場のない怒りは、内側に溜まっていくばかりだ。 黒沢清の「アカルイミライ」を思い出す。あの映画では、若者は未来に向かって開かれているぞということで終わった。でも、「ナミビアの砂漠」では、未来への希望が見えない。観終わった後、重い気持ちが残った。 映画の中で、カナは言う。「この社会で大事なことは、生存です」と。少子化や貧困が進む日本で、生存が目的になっている。希望も夢もない世界。まるで砂漠をさまよっているようだ。 自分も同じだと思った。何かを求めて歩き続けても、先が見えない。それでも歩き続けるしかない。もしかしたら、本当の砂漠は心の中にあるのかもしれない。そして、それに気づくことが大切なのかもしれない。 映画は楽しいものではなかった。でも、こういう作品があることは重要だ。現実を直視し、感じること。それが必要な時もある。 夜の街を歩きながら考えた。この先に何があるのだろうか。答えは見つからない。それでも、足を止めるわけにはいかない。自分自身の道を見つけるために、歩き続けるしかないのだ。 ひたちなかのロッキンで感じたこと、生成AI動画で得た一時的な成功、そして「ナミビアの砂漠」で見た現実。すべてが繋がっているような気がした。行き場のない苛立ちや虚無感。それでも生きていくしかない。 希望は見えないかもしれない。でも、歩き続けることで何かが変わるかもしれない。そう信じて、俺は前に進む。
096.映画「愛に乱暴」(2024年)なんかスッキリしないけど、それがリアル
11-09-2024
096.映画「愛に乱暴」(2024年)なんかスッキリしないけど、それがリアル
「感想」 最近、生成AIにどっぷりとハマっている。あの無機質なデジタル空間に、命のような何かが吹き込まれる瞬間、それがたまらない。まるで魔術師になった気分だ。最初はBGMから始まった。ちょっとした遊び心で、AIに音楽を作らせてみたら、意外といい感じだった。もちろん、商用利用OKなAIだから問題ない。だが、やっているうちに、この世界に深く入り込んでしまったんだ。SunoというAI、そしてMitjourney、Runway。これらのツールを使って、画像も動画も次々に生成していく。その過程が、まるでかつての「モンスターファーム」を思い出させる。あの頃は、CDを入れてモンスターを生み出すゲームに夢中になったものだ。何が出てくるか分からない期待感。その感覚が、今、AIによって蘇っている。 だが、すべてが完璧なわけじゃない。AIが生成する人物の動きにはまだぎこちなさが残る。複数のキャラクターが絡むシーンになると、そのぎこちなさが一層際立つ。それでも、プロンプト一つで何かが生まれるこの感覚に、俺はすっかり取り憑かれている。仕事が終わると、すぐにパソコンに向かい、8時間でも平気で没頭してしまう。最近じゃ、映画館にも行けていないが、先日、久々に劇場に足を運んだ。「愛に乱暴」という映画だ。これが、なかなか手ごわい作品だった。 映画館の暗闇で、江口のりこがスクリーンに登場する。彼女の顔は、いわゆる"美人"ではない。広瀬すずや綾瀬はるかのような華やかさはないが、そんなことはどうでもいい。むしろ、彼女の演技には一種の重みがある。映画の中で彼女が演じたのは、幸の薄い女。広瀬すずが演じるなら、そのギャップに違和感を感じたかもしれない。だが、江口のりこだからこそ、説得力があった。物語は、彼女がダメ男に捨てられるまでを丁寧に描いている。不倫というありふれたテーマだが、描かれるのはただの日常の崩壊だ。何か劇的な展開を期待していた俺にとって、その結末は衝撃的だった。 映画は、期待を裏切るという点で一流だ。最初から何か大きな出来事が起こると思わせておいて、何も起こらない。いや、起こるのだが、それは観客が期待するような形ではない。冒頭のごみ捨て場が燃えるシーンも、何かの伏線かと思わせておいて、結局は何の意味もなかった。それがこの映画の真骨頂だ。人生も同じだ。期待するような大事件なんて、そう簡単に起こるわけじゃない。日常はただ淡々と流れていく。その中で不倫や裏切りが静かに進行していく。映画の最後、俺はスクリーンをじっと見つめ、心の中で「これがリアルだ」とつぶやいた。 見終わった後、俺は友人たちと映画の感想を語り合った。「消化不良だよな」と誰かが言ったが、それもこの映画の味わいだと俺は思う。一緒に観た仲間たちと意見を交わすことで、俺は新たな発見を得た。この映画には、言葉にできない深い何かがある。映画館を後にしても、頭の中にずっと残り続ける。人生に何の保証もないように、この映画も何の約束もしない。ただ、観た後に心に残る感情。それこそが、この映画が俺に教えてくれたことだ。 「愛に乱暴」、それは一言で説明できるものじゃない。幸せなエンディングを求めているなら、この映画は向いていないだろう。だが、リアルな人生を映し出したいなら、この映画は完璧だ。観終わった後、俺は再び精製AIの世界に戻った。だが、あの映画が心に残る限り、現実と虚構の境界はますます曖昧になっていく。映画もAIも、どちらも俺にとって逃れられない現実の一部だ。
095.映画「あのコはだぁれ?」(2024年)ジェットコースターに無理やり乗ってしまた怖さ
01-09-2024
095.映画「あのコはだぁれ?」(2024年)ジェットコースターに無理やり乗ってしまた怖さ
「感想」 フェスとは何か、それはただの音楽イベントではない。少なくとも、俺にとっては違う。太陽がジリジリと肌を焦がす中で、何時間も立ち尽くすその行為は、まるで四国のお遍路のようなものだ。いや、それよりは少しは楽かもしれない。だが、簡単な道のりではないことに変わりはない。特に今回、俺が挑もうとしているのはひたちなかで開催されるロッキンジャパンフェスだ。しかも二夜連続。これまでのフェスとは訳が違う。わざわざ遠出して、二日連続で自分を追い込むつもりだ。果たしてその先に何が待っているのかはわからない。だが、少なくとも精神が清められることを期待している。 正直なところ、来年はもうこんなことはしないだろう。フェスのマイブームも今年限りだと俺は思っている。だからこそ、今年はできるだけ詰め込んでおきたい。フェスという名のスピリチュアルな旅を、限界まで追求してみるつもりだ。音楽と苦行、その二つが混ざり合った先に、自分自身に何か新しい発見があるのかもしれない。あるいは、ただの疲労感と達成感だけが残るのかもしれない。どちらにせよ、試してみる価値はあるだろう。 そんなことを考えながら、俺は清水崇監督の映画『あのコはだぁれ?』を観に行った。映画館に足を運ぶと、夏休みの終わりを楽しむ大学生のカップルや友達同士がちらほらといて、映画が終わった後には「怖かったよね」と談笑する姿が目に入った。その光景を見て、かつての自分なら「ホラー映画なんてカップルで見に行く奴は呪ってやる」と思っただろう。だが、今の俺は違う。フェスを経験し、清められたのか、そんな若者たちを微笑ましく見守る自分がいるのに気づいた。 映画そのものについて言えば、まあまあの出来だった。『Chime』という映画を前回の配信で語ったが、それとは違った種類の恐怖が描かれていた。『Chime』では、リアルな日常の中に潜む恐怖がテーマだったが、『あのコはだぁれ?』はビジュアル的な怖さに重点を置いていた。まるでジェットコースターのように、一度乗り込んだら後戻りできない恐怖の旅が待っていた。そういった意味では、アトラクション的な楽しさもあった。ただし、その恐怖があまりに現実離れしているため、途中で眠気が襲ってきたのも事実だ。 『あのコはだぁれ?』では、登場人物たちが共有する恐怖が描かれていた。全員が同じ恐ろしい出来事を経験し、それによって次々と命を落としていく。幽霊やお化けが直接的に悪さをするという点では、典型的なホラー映画とも言えるだろう。しかし、その設定にはどこか無理があるようにも感じた。恐怖の演出があまりに過剰で、現実感が失われてしまっていたのだ。これが『Chime』との大きな違いだった。 それでも、映画館でホラー映画を観るという体験自体は悪くない。友達同士で映画を観て、怖かったシーンについて語り合うのは、映画の楽しさを倍増させる。それに、ホラー映画は一人で観るよりも、誰かと一緒に観る方が断然面白い。恐怖を共有することで、その体験がより深く心に刻まれるのだ。 そんな風に思いを巡らせながら、最後もオリジナル曲を用意した。歌詞は冒頭で流したものと同じだが、メロディーはパンクロック調だ。 フェス参りも映画鑑賞も、結局のところは自分との対話だ。何かを求めて足を運び、何かを感じ取る。そしてその感情や思考を他人と共有することで、新たな発見が生まれる。そんな循環の中で、俺は少しずつ変わっていくのかもしれない。あるいは、何も変わらず、ただ日常を生き続けるのかもしれない。それでも、こうして文章を綴ることで、自分の中の何かが整理されていくのを感じるのだ。次はどんな体験が待っているのか、楽しみだ。そして、その体験をどう表現するか、それもまた楽しみの一つだ。 メッセージはこちら👇 ⁠⁠⁠https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8⁠⁠ Twitter👇 ⁠⁠⁠https://twitter.com/koukan_dokusyo
094.映画「Chime」(2024年)訳が分からないけど怖い、とにかく怖い。
21-08-2024
094.映画「Chime」(2024年)訳が分からないけど怖い、とにかく怖い。
「感想」部屋の静寂は、録音機材の低い唸りと、時折聞こえる遠くのサイレンの音に支配されていた。外はまだ夏の蒸し暑さが残り、空気は重苦しい。この街の夏はいつもそんな感じだ。俺はマイクの前に座り、深呼吸を一つしてから話し始めた。
「まず、こんな配信を聴いてくれてありがとう」俺は感謝の言葉を口にした。リスナーに対する俺の感謝は本物だ。彼らがいるからこそ、俺はこの配信に全力を注いでいる。底辺ポッドキャスターに過ぎない俺だが、少しでも彼らの心に響く何かを伝えたいと思っている。
ただ、もし俺の言葉に「何を言ってるんだ」と感じる人がいるなら、それで構わない。聴かなくてもいい。ただ、俺は聞いてくれる"あなた"にこだわる。もし最後まで聴いてくれる人がいるなら、その人の心に少しでも届けばいいと思う。明日を頑張ろうという気持ちや、暗い気分を吹き飛ばす手助けになればと願っている。
先日、俺はフェスに行ってきた。熱気と興奮に包まれたあの場所で、特に印象に残ったのがSUPER BEAVERの渋谷さんだった。彼のステージは観客をただ煽るだけではなく、もっと深いところに訴えかける力があった。彼の言葉とパフォーマンスが、あの場にいた全員を一体化させる瞬間を俺は見た。鳥肌が立った。淡々と演奏するミュージシャンも確かにクールだが、SUPER BEAVERのライブパフォーマンスはそれを超えて、まるで神々しい何かを見ているようだった。
この経験を踏まえて、今回は少し趣向を変えてみた。あのフェスでの感動を再現しようと、俺なりの煽りを試みたが、どうやら俺にはまだそのレベルには達していないようだ。ただのポッドキャスター、しかも底辺の俺が、あの感動的な瞬間を再現しようとしたところで、寒々しい結果になるのは仕方ないことだ。
次に話題を変え、リスナーからのリクエストに答える時間だ。今回のリクエストは、20代のリスナーからで、「chime」について語って欲しいというものだった。限定公開でしか観られないというこの作品、俺も早速足を運んで観てきた。感想を述べる前に、一言リスナーに感謝したい。「いつも聴いています。楽しいお話を聞いていると友達のような明るい気分になります」と書いてくれたその言葉が、どれだけ俺の心を温めたか、言葉では伝えきれないほどだ。
映画「chime」は45分という短編だが、黒沢清監督の手による作品であり、その独特な世界観が詰め込まれている。料理教室が舞台で、登場する包丁の存在感が不気味だ。俺自身、家で包丁を使うたびに、黒沢作品の恐怖を思い出す。あの包丁が、どこかで何かを引き起こすのではないかという不安が常に頭をよぎる。
この作品は、はっきりとした結末を求める人には少し難解かもしれない。だが、精神的に不安定な人間の視点で観ると、また違った面白さがある。chimeの音が聞こえるという設定自体が、不穏で不気味だ。それが何を意味するのか、観終わった後も考えさせられる。
黒沢監督の演出は、観る者に恐怖をじわじわと感じさせる。例えば、家の中で奥さんが空き缶を捨てるシーンや、息子が突然笑い出すシーン。これらはすべて、日常の些細な出来事を不安感で満たす要素だ。そして、偶然の産物であろう電車の音さえも、恐怖の一部として効果的に取り込まれている。
この映画を観ていると、見えている現実と見えていない現実が交錯するような感覚に陥る。精神が錯乱した人の視点から見ると、この作品の恐怖が一層深まる。観終わった後も、心のどこかに引っかかるものが残り、何かを考えさせる。まさに、黒沢清の手腕が光る一作だと言える。
「あなたにもchimeの音が聞こえますように」とリスナーは書いてくれたが、その音が聞こえるということが、果たして本当に良いことなのか。そんな疑問が頭をよぎる。chimeの音が何を意味するのか、どう受け取るかは観る者次第だが、少なくとも俺にはその音が不安を掻き立てるものに思えた。
映画を観た後、俺は新たな映画の宣伝方法を思いついた。ポッドキャスターたちに映画を観てもらい、感想を語ってもらうことで、広くその作品を宣伝していく手法だ。ポッドキャストは今や数多く存在し、その中には映画に特化したものも多い。そこに映画を広める力があるなら、それは非常に有効な手段となるだろう。
最近、海外の映画で「スージー・サーチ」といった作品が日本で公開されているが、その宣伝方法もポッドキャスターを利用したものだった。ポッドキャストをやっている人々に試写会を提供し、その感想をTwitterや他のSNSで広めてもらう。この方法は、映画のプロモーションとして非常に効果的だと感じた。
俺がそんな試写会に招待されることはないだろうが、それでもこの手法は素晴らしいと感じる。映画配給会社が、ポッドキャスターに映画を見てもらい、それを広めてもらう。この手法が今後ますます一般的になるのではないかと予想する。
さて、話を戻そう。明日、俺はまた旅に出る。2泊3日の過酷な旅が待っている。精神的にも厳しい旅だが、仕事だから仕方ない。少し憂鬱だが、帰ってきたらまた次の配信で会おう。もしかしたら、その旅の間にchimeの音が聞こえるかもしれないが、それはまた別の話だ。今回の配信はここで終わりにしよう。次回もどうぞよろしく。
メッセージはこちら👇⁠⁠https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8⁠Twitter👇⁠⁠https://twitter.com/koukan_dokusyo
093.「インサイド・ヘッド 2」&「地面師たち」面白いけど大絶賛ではない理由とか
09-08-2024
093.「インサイド・ヘッド 2」&「地面師たち」面白いけど大絶賛ではない理由とか
「感想」8月11日、俺はロッキンに向かう。千葉の蘇我市で繰り広げられる音楽と汗、そして混沌の祭典だ。だが、今年は特別だ。暑さが俺の喉を締め上げ、皮膚を焦がし、神経を暴走させる。まるで生と死の境界を歩くような、このクソみたいなフェスティバルに、俺は自らを投げ込もうとしている。それがどれだけ愚かで無謀かは、俺自身よくわかってる。だが、それでも俺は行く。だから、これが遺言になるかもしれないことを、頭に入れておいてくれ。
そんなことを考えながら、俺は毎日10キロの道のりを自転車で漕いでいる。電動なんてぬるいもんは使わない。あえて、この荒れた舗装道路をひたすら漕ぎ続ける。汗が目に染み、太ももが悲鳴を上げる。それでも漕ぎ続ける。この苦しみこそが、俺の心臓を燃え上がらせロッキンで死なないための暑さへの訓練となっている。
さて、俺が最近観た2つの作品について話そう。『インサイド・ヘッド2』と『地面師たち』だ。この2本の映画は、俺の心に深い爪痕を残した。だが、それは甘い夢のような爪痕じゃない。もっと、こう…鉄拳で顔を殴られたような、そんな感覚だ。
まず、『インサイド・ヘッド2』だ。ピクサーが作り上げたこの美しい世界の裏側には、血みどろの感情が渦巻いている。ライリーという少女の頭の中で繰り広げられる感情の戦争。俺は2015年に公開された『インサイド・ヘッド』を観たとき初めて映画館で泣いた。そう、あの時はまだ俺も無垢だった。だが、今回の続編は、その無垢をさらに深く抉り取るような作品だった。感情がぶつかり合い、ねじれ、そして壊れる。ピクサーの完璧なビジュアルの裏で、感情が腐り落ちていくのを見ているような気分だった。だが、現実の思春期ってのは、こんなに綺麗に描かれるもんじゃない。もっと汚いんだ。汗と血と涙でぐちゃぐちゃになって、それでも何とか立ち上がる。それが俺の知っている思春期だ。だから、この映画には、どこか空虚さを感じた。
次に、『地面師たち』だ。これが本当に痛快な作品だった。ファイトクラブみたいな暴力的な世界観とは違うが、その詐欺の手口は暴力と同じくらい荒々しい。地面師たちは、偽の書類と偽のアイデンティティを使って、土地を手に入れ、大手の不動産会社をだます。彼らの狡猾さ、冷酷さ、そして一切の躊躇を見せない手法には、言葉を失った。
ピエール瀧、北村一輝、豊川悦司、そして綾野剛。彼らは、この荒々しい世界を体現する役者たちだ。彼らの演技には、血の通ったリアリティがある。特に豊川悦司のキャラクターには、どこか壊れかけた狂気が漂っている。彼が演じる詐欺師は、一度笑顔を見せたかと思えば、次の瞬間には相手を地獄の底に突き落とす。それはまるで、ボクサーが相手をノックアウトする寸前のスリルだ。
しかし、このドラマにも問題がないわけじゃない。特に終盤の展開には、どこかご都合主義が見え隠れしていた。沖縄でのシーンでは、北村一輝のキャラクターが、なぜああなる前に止められなかったのか、全く理解できない。そして、最後の格闘シーン。まるでタランティーノが脚本を放り投げたような、無意味なねじれがそこにあった。
それでも、この作品には、現代社会の裏側に潜む腐敗と暴力が詰まっている。それを目の当たりにすることで、俺たちはどこか解放される。自分よりも強大な存在が打ち倒されるのを見て、俺たちは一時的にでも自由を感じるんだ。
さて、これが俺の最近の映画体験だ。だが、もしこれが俺の最後の配信になるなら、ここで一つだけ言っておこう。8月11日、ロッキンで俺は死ぬかもしれない。だが、もしも生きて戻ることができたら、俺たちはまた次の作品について語り合おう。だが、その時が来るかどうかは、誰にもわからない。
次に観るべき映画についても考えているが、今のところ『パウ・パトロール』がトップだ。だが、俺はこの作品を避ける。理由は簡単だ。夏休みの時期に、おじさんが一人で『パウ・パトロール』を観に行ったら、それは確実にヤバいことになる。だから、俺は『あのコはだぁれ?』を選ぶことにする。それが俺の生きる道だ。
でも、もし俺が8月11日に死ぬことになったら、この話もこれで終わりだ。次の配信があるかどうかは、俺の生き様次第ってところだな。
メッセージはこちら👇⁠https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8
Twitter👇⁠https://twitter.com/koukan_dokusyo
第2回「ゲストとお話」中学ぐらいで知り合った現在大学生の青年~あの時観た「ムカデ人間」の思い出とか~
28-07-2024
第2回「ゲストとお話」中学ぐらいで知り合った現在大学生の青年~あの時観た「ムカデ人間」の思い出とか~
メッセージはこちらから👇 ⁠https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8 「感想」 今回のインタビューには、影のように暗い裏事情が潜んでいた。本来なら別のゲストが来るはずだったが、連絡が突然途絶えた。まるで夜霧の中に消えたかのように。その存在は儚く消えてしまった。そんなわけで、急遽大学生のジェイ君を呼び出すことになった。 ジェイと俺の出会いは中学時代に遡る。当時の彼はまだ無垢な少年で、俺は彼にいくつかのアドバイスを与えただけだった。しかし、時が経ち、彼はボクシングに情熱を燃やす青年に成長していた。鋭い眼差しに純粋さを残しながらも、強さを手に入れたジェイを見て、俺はその変貌に心を打たれた。 ジェイは現在、ボクシングに全てを捧げている。彼の目には、炎のような情熱が宿っていた。最近観た映画について尋ねると、彼は少し恥じらいながら「アナと雪の女王2」を挙げた。ディズニー映画に夢中になっているという。外見は鍛え抜かれたボクサーだが、その内面には優しさと夢見る心が宿っているのだ。 アクション映画の話になると、ジェイは「クリード2」を最後に観たと語りだした。1年ほど前、自宅で観たその映画が、彼のボクシング魂に再び火をつけたという。彼がボクシングを始めたのも「クリード」に影響を受けたからだった。井上尚弥を倒せるのではないかと一時は思ったこともあったが、現実はそう甘くはなかった。 ジェイは今でも映画を観続けている。最近観た「インサイド・ヘッド」について語る彼の姿からは、映画への深い洞察力が感じられた。大学で学ぶ心理学と映画のテーマが交錯し、彼の思考はより複雑で豊かなものとなっていた。 そして、ジェイが映画について語る中で最も印象的だったのは「ムカデ人間」の話だった。中学生の頃、彼はこの異色の映画を観た。衝撃的な内容が彼の心に深く刻まれており、その体験は今でも彼の中で鮮明に残っているという。俺はその話を聞きながら、彼がどれだけ多感な時期に強烈な影響を受けてきたのかを改めて実感した。「ムカデ人間」のような過激な映画が、彼の内面にどのような変化をもたらしたのかを思うと、胸が締め付けられるようだった。 ジェイはこれからも映画を観続け、人との会話や共有を通じて新たな発見を求めていくつもりだという。その姿勢は俺にとっても刺激的で、映画の持つ力の大きさを再確認させるものだった。彼の内なる情熱と探求心は、まるで終わりのない旅のように続いていく。 インタビューの最後、俺はジェイに感謝の意を述べた。彼の未来に期待を寄せながら、また次回も彼の話を聞けることを楽しみにしていると伝えた。その時、俺たちの間には静かな共感と理解が漂い、インタビューは幕を閉じた。ジェイの燃えるような情熱と探求心は、まるで夜明け前の空に一筋の光を放つように、俺の心に深く刻まれた。
092.映画「劇場版すとぷり はじまりの物語」(2024年)映画という名のファンイベントでした
24-07-2024
092.映画「劇場版すとぷり はじまりの物語」(2024年)映画という名のファンイベントでした
メッセージはこちらから👇 https://forms.gle/zep21THm7PwYrKwN8 「感想」 劇場版すとぷりについて話す。だが、すとぷりファンには聞かせるな。なぜなら、褒めることなど皆無だからだ。すとぷりファンではない俺が話す内容だから、かなり偏っているかもしれない。ある意味ではフラットな視点で語っているが、すとぷりファンにはきっと毒にしかならない。 映画好きとして見たが、最低でつまらない。地球上で一番無価値な映画だったと断言してもいい。この作品をすとぷりファンが楽しむのは勝手だが、友達の結婚式を無関係な他人が見たら、まったく面白くないだろう。それ以上に酷い。 例えば、友達に「すごく君と会わせたい人がいる」と飲み会に誘われた。しかし、そこは大学時代のサークル仲間の飲み会だった。全く関係のない俺が連れてこられ、サークルの昔話で盛り上がる連中を見ながら、取り残された感覚。それがこの映画を見たときの感覚だ。 さらに、そのサークルノリは俺を気遣うことなく、延々とつまらない話を続ける。下ネタまで飛び出す始末だ。本当につまらない映画だった。前回見た「ブルー君は大丈夫」が100倍良かった。 目の前に座っていた女子中高生たちは、すとぷりのキャラクターの人形を持ち、キャッキャしていた。それを見て、日本も堕ちるところまで堕ちたなと感じた。 この映画が上映されることで、熱狂するファンがいる現状が、日本の社会に悪影響を与えている。俺が老害だと言われても構わないが、そう感じる。もちろん、素晴らしいアニメ作品もある。「クレヨンしんちゃん」の劇場版は観客を感動させるが、すとぷりの映画はそうではない。 エンドロールで退場したが、本当に酷い経験だった。観に行ったのが夏休みの月曜日で、親子連れや女子中高生が多い中、おじさん一人で観に行ったのが恥ずかしかった。1,100円で観ることができて良かったが、騙されていると感じた。 この映画はファン向けのイベントであり、ファン以外は観に行くべきではない。ファンイベントとしては納得できるが、映画としては一切評価できない。映画好きの人には、逆に観て欲しい。こういう映画もあるんだと再認識できるから、シネフィルの人たちは観てみる価値がある。俺の気持ちを分かってくれ。頼む。
091.映画「ブルー きみは大丈夫」(2024年)劣化版ピクサーのような映画
12-07-2024
091.映画「ブルー きみは大丈夫」(2024年)劣化版ピクサーのような映画
「感想」 7月15日に読書会を開こうと思っていた。前回の配信でそのことをお伝えしたが、正直なところ、準備を始めるとどうにも面倒くさくなってしまった。配信が終わった後に会場を探して色々と準備しようと思ったのだが、どうにも腰が重い。そんな時、映画の会によく参加してくれている常連の友人から連絡が来た。「7月15日はユーロの決勝もあるし、コパアメリカも朝からやってるから、もしかしてそれを狙って読書会やらないつもり?」と。友人にそう言われて、「ありがとう、やっぱりそうするわ」と返事をしてしまった。これでは読書会どころではない。最高の一日を過ごせる日に読書会なんてできないというわけだ。だから、7月15日の読書会は延期することにした。読書会はまた別の日にやりたいと思っているが、最近は本当に忙しくて、フェスに行きまくっているのだ。 こないだもトーキングロックに行ったし、今これを書いているのが7月12日の金曜日なのだが、明日にはDAIENKAIというくだらない吉本興業主催のフェスが東京ガーデンシアターで開催される。吉本主催ということで最初は乗り気じゃなかったのだが、クリープハイプも出演するし、キュウソネコカミも出るし、さらに気になるバンドも参加するということでチケットを取った。気になる芸人の金属バットもいる。だから行こうかなと思っている。 そんな感じでフェスにひょいひょい参加する日々が続いているが、一番忙しくさせているのは、なんというか、フィクション的な表現をするならば、いまの僕の仕事はまるで孤独な殺し屋のような仕事だ。職場に広めのオフィスがあって、ほとんど一人で過ごしている。最近の昼ご飯事情も変わってきた。自分はお弁当ではなく、ニンニクや唐辛子を持参して職場でペペロンチーノを作って食べている。こうして自由にやらせてもらっているのだが、やはり孤独な仕事だ。 日常のルーチンワークに追われる中で、僕は時折、自分が何者なのかを見失いそうになる。そうした自己探求の旅を続けている。自己の存在を確立するために過去と向き合い、その過程で多くの人々と出会い、別れていく。その孤独と向き合いながらも、生き続ける。僕もまた、自分の孤独を認め、それを受け入れることで次のステップに進もうとしている。 そんな中で、プロボノというボランティア活動にも興味を持ち始めた。持っている知識やノウハウを活用して社会貢献をしたいと考え、あるプロジェクトに応募した。僕の期待は、孤独でなくチームで仕事をすること。しかし、実際に参加してみたら、結局また一人での活動だった。今の職場と変わらない状況で、少しがっかりしている。でも、応募してしまった以上、最後までやり遂げなければならないという責任感があって、仕事以上に面倒くさいことが始まっている。 その責任感というのは、一種の重荷のようなものだ。例えば、目の前に大きな石があって、それを動かさなければならないとする。しかし、その石はあまりにも重くて、動かすことができない。それでも動かさなければならないという使命感がある。その石が、僕にとってのプロボノのプロジェクトだった。 映画の話をしよう。今回見た映画は「ブルー君は大丈夫」だ。この映画について、少しばかり思うところがある。予告編を見たとき、これは自分の趣味には合わないかもしれないと思ったが、実際に見てみると予想以上に酷かった。まるで心がブルーになってしまうような映画だった。 予告編を見た時点で、これはピクサーやハリウッド映画のような、起承転結がしっかりしている作品だと思い込んでいた。子供も大人も楽しめる、感動的な物語を期待していたのだが、全然違った。劇場に行ったら、字幕版はなく、吹き替え版しかなかったので、それを見ることにした。映画館には子供連れの観客が多く、子供向けの映画だと確信した。 映画が始まる前、ポスターには緑色の怪獣が描かれていて、主人公の女の子と冒険する話かと思っていた。しかし、実際にはわけのわからない展開が続いた。主人公は12歳のビーという女の子で、家族の仲が良かったが、母親が突然亡くなり、父親も病気を抱えているという設定だった。彼女は父親の入院のため、いま住んでいた家から離れ、昔住んでいたところに戻りおばあちゃんと暮らし始める。 幼少期の楽しい思い出がよみがえる中、ビーは奇妙な怪物たちと出会う。これらの怪物は、手塚治虫のキャラのようなものから、ポスターに描かれている紫色の怪物まで様々だが、周りの人には見えていない。さらに、ライアン・レイノルズが担当するキャラクターが登場し、怪物たちはイマジナリーフレンド(空想の友達)だと言われる。日本では馴染みのない概念だが、吹き替え版でもそのまま使われており、わかりにくかった。 この映画の最大の問題は、ストーリーが意味不明というかくだらなすぎて子供だまし感がでまくっていて、何を伝えたいのかが全くわからない点だ。昔ながらの妖怪が都市生活の中で見えなくなったということを言いたいというニュアンスなのかもしれないが、テーマも中途半端で、結局何も得られない。ただの時間とお金の無駄だった。 ピクサーやジブリの映画のように、普遍的で説得力のある物語を期待していたが、この映画はそのどちらにも遠く及ばない。主人公の成長も描かれておらず、最後にはただ幼少期の自分に戻っただけだった。ビーが怪物たちと出会うことで成長するわけでもなく、物語の結末も締まりがなかった。 もちろんこう書くことで、成長していたじゃないかという反論がくるのは分かっているが、大した成長ではない。母の死を乗り越えたわけでもなければ父の出来事も乗り越えていない。そういう意味で成長していない。 監督のジョン・クラシンスキーは、「クワイエット・プレイス」で成功したが、今回の映画はその成功とは程遠い。彼の才能はホラー映画にこそ発揮されるものであり、こういったファンタジー映画では全くその魅力を引き出せていない。ギレルモ・デル・トロのような独自のビジョンと才能は感じられず、ただの劣化版ピクサーといった印象だ。デル・トロは観客を魅了する力を持っているが、クラシンスキーにはそれがない。 「ブルー君は大丈夫」という日本語タイトルも全く意味を成しておらず、英語の原題「IF」の方がまだマシだ。この映画を配給した東宝東和ピクチャーズには大いに失望した。こんなタイトルをつけて、子供向けに売り込むのは最悪だ。 全体として、この映画は何も得られないし、観る価値がない。子供向け映画として連れて行かれたら、トラウマになるほど酷いという内容でもなく実にくだらない、ただの時間とお金の無駄だった。 実際に監督のインタビュー記事なんかを観ると「となりのトトロ」が好きだなんてことを言っている。本当にくだらない。ギレルモ・デル・トロのようにはなれないだろう。出世作の「クワイエットプレイス」のようなホラー映画だけ作るのに専念してほしい。 こうして考えてみると、映画というのは本当に難しいものだ。素晴らしい映画がある一方で、こうした失敗作も存在する。次回はもっとまともな映画を見たいものだ。でも、変な縛りを設けてしまったせいでそうもいかないだろう。次に見る映画の候補として、いくつか挙げてみた。「逃走中 THE MOVIE」、「お母さんが一緒」、「キングダム 大将軍の帰還」、「劇場版すとぷり」、「もしも徳川家康が総理大臣になったら」。もちろん、どれもあまり見たくない映画、いや絶対に観たくないものばかりだが、皆さんの投票をお待ちしている。 こんな日々の中で、ふと立ち止まって考えることがある。僕は何を求めているのだろうか。何を目指しているのだろうか。答えはまだ見つかっていない。ただ、フェスに行ったり、映画を見たり、読書会を開こうとしたり、その中で何かを見つけたいと思っている。それが何なのかはまだわからない。でも、それを見つけるために、今日も僕は生きている。人生は、時に果てしなく孤独である。しかし、孤独の中にこそ真実が隠れているのかもしれない。僕たちは孤独と向き合い、その中で自分自身を見つける旅を続けていくのだ。 この文章は分かる人にはわかると思う。あるものを模倣して作っている。ただそれだけである。だから何なのかということだが、―それが孤独ということだ。
13.番外編 「第23回 好きな映画を語る会」資本主義と共産主義と服装自由
04-07-2024
13.番外編 「第23回 好きな映画を語る会」資本主義と共産主義と服装自由
6月30日、久しぶりに映画の会を開いた。前回は3月31日だったので、ちょうど3か月ぶりになる。開催のきっかけは「サタンタンゴ」の感想を語り合う会が知り合いの主催で行われ、その帰り道に「映画の会をまた開いてほしい」と頼まれたことだ。予定を確認すると「大丈夫」と言われたので、安心して準備を進めたが、当日、その人は現れなかった。もしかすると何かよからぬ事件に巻き込まれたのかもしれない。その理由は誰にもわからず、薄い不安が胸に残った。 前日の6月29日、僕は仙台で友人の結婚パーティーに参加していた。招待状には「服装自由」と書かれていたが、30度を超える猛暑の中でスーツを着る気にはなれなかった。そこで、以前浅草で買った高級アロハシャツを思い出した。2万円もする着物から作られた特別なもので、柄も竹のボタンも素晴らしい逸品だ。それを着て仙台に向かうことにした。 仙台駅で友人と合流すると、彼はスーツを着ていた。僕のアロハシャツ姿を見て「それで大丈夫?」と心配そうに尋ねたが、服装自由の案内を信じることにした。内心ドキドキだったが、その場は「超高級アロハシャツだ」とアピールして乗り切った。 翌日の6月30日、映画の会が神保町で始まった。参加者は10人で、そのうち初参加が3人。特に印象的だったのは、一人の若者が資本主義を批判し、共産主義の復活を熱心に語っていたことだ。彼はマッチングアプリを利用していて、そのプロフィールには「資本主義嫌い」と書いているそうだ。驚いたことに、彼はアップルウォッチをつけていたが、それでも資本主義の問題点を指摘していた。そして、マッチングアプリでも資本主義が嫌いという人と出会えて面白いと言っていた。 映画の紹介が始まり、最初に取り上げられたのは2001年の黒沢清監督の「回路」だった。紹介者は映画フリークで、マジックザギャザリングも趣味にしているという。他にもアメリカンフィクションやペパーミントキャンディなど、様々な作品が取り上げられた。参加者たちは皆、目を輝かせ、身振り手振りを交えて熱心に語り合っていた。どの映画もその情熱に引き込まれ、観たくなるものばかりだった。 映画の会が終わると、次回の予定が話題になった。7月15日に読書会を開くことになり、場所も時間も未定だが、みんなの期待は高かった。読書会では僕の自家製カレーを振る舞うことを求められたが、それにはあまり乗り気ではなかった。カレーを作るのは好きだが、大人数に振る舞うのは手間がかかる。 映画の会の後、近所のゲオに寄って、紹介された映画を探したが見つからなかった。その途中、お腹の調子が悪くなり、しっかりと肛門を引き締めてなんとか持ちこたえたが、探していた映画は見つからなかった。そんなこんなで、映画の会も無事に終わり、次回の読書会に向けてまた新しい準備が始まる。 僕たちの日常はこうして、映画と読書と少しの冒険で満ちている。映画の会も読書会も、いつも新しい発見と出会いがあり、それはまるで見知らぬ扉を開けるようなワクワク感がある。それが何よりも楽しい。次回もまた、どんな魔法のような映画や物語が紹介されるのか、どんな魅力的な人々と出会うのか、まるで冒険の続きが待っているかのように、今から楽しみで仕方がない。 紹介された🎬 「回路」2001年 監督:黒沢清 「お終活 熟春!人生、百年時代の過ごし方」2021年 監督:香月秀之 「アメリカン・フィクション」2023年 監督:コード・ジェファーソン 「ペパーミント・キャンディー」2000年 監督:イ・チャンドン 「ヒート」1995年   監督:マイケル・マン 「蛇の道」1998年 監督:黒沢清 「コーダあいのうた」2021年 監督:シアン・ヘダー 「MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない」2022年 監督:竹林亮 「TOO YOUNG TO DIE!若くして死ぬ」2016年監督:宮藤官九郎 「ノーマンズランド」2001年監督:ダニス・タノヴィッチ
089.映画「お終活 再春!人生ラプソディ」(2024年)おむつの付録としてはいいのかもしれない
17-06-2024
089.映画「お終活 再春!人生ラプソディ」(2024年)おむつの付録としてはいいのかもしれない
「感想」 まず、この映画で2回も泣かされました。まさか2回も泣くとは思っていませんでした。ただし、面白い映画かというと、そうではありません。 再現ドラマなどでも泣くことがありますが、それはしっかりと泣かせるように作られているからです。この映画には泣かせるポイントが2つあり、丁寧に作られているのは間違いありません。劇場に入った瞬間、30ページほどの特典パンフレットを渡されました。それを見た瞬間、この映画は資本主義に毒された作品だと感じました。パンフレットにはエンディングノートのような内容が含まれており、葬儀屋や保険会社の情報が載っていました。 映画の中には現代的なお墓のシーンもありましたが、これが映画の宣伝の一部となっていました。一言でまとめると、教習所で見せられる「交通事故が怖いから気を付けましょう」といった再現ドラマの映像のような作りで、日本のテレビドラマの悪い要素が詰まっています。役者さんたちは素晴らしかったです。 音楽の使い方もキラキラしたものが常に流れており、嫌でした。しかし、最後のシーンだけは良く、橋爪功さんがとあることをして、その仕掛けは見事でした。全体的には、日本ドラマの悪い部分が目立ち、社会性が描けていないため共感できない部分が多かったです。 最終的には、親におすすめできる映画であり、老人ホームで流すには楽しめる作品だと思います。この映画が生まれたのは、こうした需要があるからでしょう。俳優さんたちはしっかりしているので見やすいですが、自分の好みではありません。それでも、今回は良い体験ができたと思います。正直、自分の両親もこういう形で終活した方がいいのかもしれないと感じました。 監督:香月秀之