091.映画「ブルー きみは大丈夫」(2024年)劣化版ピクサーのような映画

映画のお話

12-07-2024 • 10分

「感想」

7月15日に読書会を開こうと思っていた。前回の配信でそのことをお伝えしたが、正直なところ、準備を始めるとどうにも面倒くさくなってしまった。配信が終わった後に会場を探して色々と準備しようと思ったのだが、どうにも腰が重い。そんな時、映画の会によく参加してくれている常連の友人から連絡が来た。「7月15日はユーロの決勝もあるし、コパアメリカも朝からやってるから、もしかしてそれを狙って読書会やらないつもり?」と。友人にそう言われて、「ありがとう、やっぱりそうするわ」と返事をしてしまった。これでは読書会どころではない。最高の一日を過ごせる日に読書会なんてできないというわけだ。だから、7月15日の読書会は延期することにした。読書会はまた別の日にやりたいと思っているが、最近は本当に忙しくて、フェスに行きまくっているのだ。


こないだもトーキングロックに行ったし、今これを書いているのが7月12日の金曜日なのだが、明日にはDAIENKAIというくだらない吉本興業主催のフェスが東京ガーデンシアターで開催される。吉本主催ということで最初は乗り気じゃなかったのだが、クリープハイプも出演するし、キュウソネコカミも出るし、さらに気になるバンドも参加するということでチケットを取った。気になる芸人の金属バットもいる。だから行こうかなと思っている。


そんな感じでフェスにひょいひょい参加する日々が続いているが、一番忙しくさせているのは、なんというか、フィクション的な表現をするならば、いまの僕の仕事はまるで孤独な殺し屋のような仕事だ。職場に広めのオフィスがあって、ほとんど一人で過ごしている。最近の昼ご飯事情も変わってきた。自分はお弁当ではなく、ニンニクや唐辛子を持参して職場でペペロンチーノを作って食べている。こうして自由にやらせてもらっているのだが、やはり孤独な仕事だ。


日常のルーチンワークに追われる中で、僕は時折、自分が何者なのかを見失いそうになる。そうした自己探求の旅を続けている。自己の存在を確立するために過去と向き合い、その過程で多くの人々と出会い、別れていく。その孤独と向き合いながらも、生き続ける。僕もまた、自分の孤独を認め、それを受け入れることで次のステップに進もうとしている。


そんな中で、プロボノというボランティア活動にも興味を持ち始めた。持っている知識やノウハウを活用して社会貢献をしたいと考え、あるプロジェクトに応募した。僕の期待は、孤独でなくチームで仕事をすること。しかし、実際に参加してみたら、結局また一人での活動だった。今の職場と変わらない状況で、少しがっかりしている。でも、応募してしまった以上、最後までやり遂げなければならないという責任感があって、仕事以上に面倒くさいことが始まっている。


その責任感というのは、一種の重荷のようなものだ。例えば、目の前に大きな石があって、それを動かさなければならないとする。しかし、その石はあまりにも重くて、動かすことができない。それでも動かさなければならないという使命感がある。その石が、僕にとってのプロボノのプロジェクトだった。


映画の話をしよう。今回見た映画は「ブルー君は大丈夫」だ。この映画について、少しばかり思うところがある。予告編を見たとき、これは自分の趣味には合わないかもしれないと思ったが、実際に見てみると予想以上に酷かった。まるで心がブルーになってしまうような映画だった。


予告編を見た時点で、これはピクサーやハリウッド映画のような、起承転結がしっかりしている作品だと思い込んでいた。子供も大人も楽しめる、感動的な物語を期待していたのだが、全然違った。劇場に行ったら、字幕版はなく、吹き替え版しかなかったので、それを見ることにした。映画館には子供連れの観客が多く、子供向けの映画だと確信した。


映画が始まる前、ポスターには緑色の怪獣が描かれていて、主人公の女の子と冒険する話かと思っていた。しかし、実際にはわけのわからない展開が続いた。主人公は12歳のビーという女の子で、家族の仲が良かったが、母親が突然亡くなり、父親も病気を抱えているという設定だった。彼女は父親の入院のため、いま住んでいた家から離れ、昔住んでいたところに戻りおばあちゃんと暮らし始める。


幼少期の楽しい思い出がよみがえる中、ビーは奇妙な怪物たちと出会う。これらの怪物は、手塚治虫のキャラのようなものから、ポスターに描かれている紫色の怪物まで様々だが、周りの人には見えていない。さらに、ライアン・レイノルズが担当するキャラクターが登場し、怪物たちはイマジナリーフレンド(空想の友達)だと言われる。日本では馴染みのない概念だが、吹き替え版でもそのまま使われており、わかりにくかった。


この映画の最大の問題は、ストーリーが意味不明というかくだらなすぎて子供だまし感がでまくっていて、何を伝えたいのかが全くわからない点だ。昔ながらの妖怪が都市生活の中で見えなくなったということを言いたいというニュアンスなのかもしれないが、テーマも中途半端で、結局何も得られない。ただの時間とお金の無駄だった。


ピクサーやジブリの映画のように、普遍的で説得力のある物語を期待していたが、この映画はそのどちらにも遠く及ばない。主人公の成長も描かれておらず、最後にはただ幼少期の自分に戻っただけだった。ビーが怪物たちと出会うことで成長するわけでもなく、物語の結末も締まりがなかった。


もちろんこう書くことで、成長していたじゃないかという反論がくるのは分かっているが、大した成長ではない。母の死を乗り越えたわけでもなければ父の出来事も乗り越えていない。そういう意味で成長していない。


監督のジョン・クラシンスキーは、「クワイエット・プレイス」で成功したが、今回の映画はその成功とは程遠い。彼の才能はホラー映画にこそ発揮されるものであり、こういったファンタジー映画では全くその魅力を引き出せていない。ギレルモ・デル・トロのような独自のビジョンと才能は感じられず、ただの劣化版ピクサーといった印象だ。デル・トロは観客を魅了する力を持っているが、クラシンスキーにはそれがない。


「ブルー君は大丈夫」という日本語タイトルも全く意味を成しておらず、英語の原題「IF」の方がまだマシだ。この映画を配給した東宝東和ピクチャーズには大いに失望した。こんなタイトルをつけて、子供向けに売り込むのは最悪だ。


全体として、この映画は何も得られないし、観る価値がない。子供向け映画として連れて行かれたら、トラウマになるほど酷いという内容でもなく実にくだらない、ただの時間とお金の無駄だった。


実際に監督のインタビュー記事なんかを観ると「となりのトトロ」が好きだなんてことを言っている。本当にくだらない。ギレルモ・デル・トロのようにはなれないだろう。出世作の「クワイエットプレイス」のようなホラー映画だけ作るのに専念してほしい。


こうして考えてみると、映画というのは本当に難しいものだ。素晴らしい映画がある一方で、こうした失敗作も存在する。次回はもっとまともな映画を見たいものだ。でも、変な縛りを設けてしまったせいでそうもいかないだろう。次に見る映画の候補として、いくつか挙げてみた。「逃走中 THE MOVIE」、「お母さんが一緒」、「キングダム 大将軍の帰還」、「劇場版すとぷり」、「もしも徳川家康が総理大臣になったら」。もちろん、どれもあまり見たくない映画、いや絶対に観たくないものばかりだが、皆さんの投票をお待ちしている。


こんな日々の中で、ふと立ち止まって考えることがある。僕は何を求めているのだろうか。何を目指しているのだろうか。答えはまだ見つかっていない。ただ、フェスに行ったり、映画を見たり、読書会を開こうとしたり、その中で何かを見つけたいと思っている。それが何なのかはまだわからない。でも、それを見つけるために、今日も僕は生きている。人生は、時に果てしなく孤独である。しかし、孤独の中にこそ真実が隠れているのかもしれない。僕たちは孤独と向き合い、その中で自分自身を見つける旅を続けていくのだ。


この文章は分かる人にはわかると思う。あるものを模倣して作っている。ただそれだけである。だから何なのかということだが、―それが孤独ということだ。