子供と話す「人たすけたら我が身たすかる」

天理教の時間「家族円満」

14-06-2024 • 0秒

子供と話す「人たすけたら我が身たすかる」 和歌山県在住  岡 定紀 この春、高校生になる長男と信仰について話す機会がありました。長男は小さい頃から朝夕のおつとめや、神様に報恩感謝を捧げる「ひのきしん」などを素直に実行し、小学生になってからは、毎年夏の「こどもおぢばがえり」には、多くの友達を誘って参加していました。また、教会で「こども食堂」を始めた時も、積極的に手伝ってくれました。 ただ、小学生も高学年になると、教会について、信仰について真剣に考えることが増えてきます。教会は世のため、人のために活動しているということは分かっていても、では周りの友達がしていない信仰を自分はなぜしているのか?と、深く考え始めるのは当然のことです。 親子で信仰について深く話すようなことは、これまでありませんでしたが、高校では親元を離れて寮に入るので、その前に話せてとても良かったと思います。私自身、教えについて理解を深めるいい機会になりました。 長男との話の中で、「人たすけたら我が身たすかる」という教えについて話題になりました。これは教祖が書き残された「おふでさき」の一首、   わかるよふむねのうちよりしやんせよ  人たすけたらわがみたすかる(三 47) の下の句にあたります。現在教会で、教祖140年祭に向けての指針となる『諭達』を毎日読んでいますが、そこで引用されているので、子供たちにとっては聞き慣れているお言葉です。 『諭達』には、その引用の後で、「ひたすらたすけ一条に歩む中に、いつしか心は澄み、明るく陽気に救われていく」と説明されています。しかし、「我が身がたすかりたいから、人をたすけるようにも思えてしまう」ということが話題になったのです。 確かに「我が身」が先に来るとそうなりますが、「人たすけたら」が先に来るので、決してそうはなりません。しかし時には、「これは我が身のために行っているのではないか」と思えるような状況もあるのです。 例えば、教会で「こども食堂」をしていると、食材などを寄付して頂くことが増えてきます。個人で寄付をしてくださる方は、こちらが名前を尋ねても「名乗るほどの者ではありません」という感じで、匿名でされる方が多くおられます。 一方、企業から寄付を頂く場合、大概は会社名を書いたポスターやチラシが一緒になって送られてきます。まるで、「わが社は社会貢献をしています」と宣伝をしているかのようです。そんな場面に出会うと、こちらが人に対して親切にする時、何かを得ようと期待しているようなことはないか?と反省させられます。 長男が、「大切なのは、見返りを求めて人をたすけるわけじゃないってことやろ?」と聞くので、「そういうことだよ」と答えましたが、その後も何かすっきりしないものが残り、色々と思案しました。 数日後、再び長男と「見返りを求めない人だすけ」について話しました。まず思い浮かぶのは、病気や怪我をしている人に対してのたすけです。皆が似たような経験をしたことがあるからこそ、そんな人を目の前にすると、自然と身体が動くのでしょう。何とかして痛みや苦しみを取り除いてあげたいという一途な思いに、我が身の欲が入る余地はありません。 また、能登半島地震で多くの方が被災しましたが、被災地に駆けつけるボランティアの人たちや、寄付をしたり支援物資を届ける人たちも、決して見返りを求めているわけではありません。 そして、子供には言いませんでしたが、もっと身近な例があります。それは我が子を育てる時です。子供を育てるのに、決して自分の老後の面倒を見てもらおうと期待しているわけではありません。 特に、我が子を産んだ母親の愛情は、私には想像できないものです。「母子一体」という言葉がありますが、そこには「自分」と「子供」という隔てがなく、「人たすけたら我が身たすかる」の中にともすれば聞こえるような、「人」と「我が身」の区別さえないのでしょう。 だからこそ、「身内」と言われるように、自然に我が事として共感できる家族同士からたすけ合っていくこと。そして、その身近な所から共感の輪を広げていくことが大切なのだと深く気づかされました。 今後も、親子で信仰について話す機会を持ちたいと思います。 心のほこり 曇りや雨の日の飛行場には、雨雲が低く垂れこめています。暗い空を仰ぎ見ながら、これで飛行機は無事に飛べるのか、と不安な気持ちになります。ところが、ひとたび機体が舞い上がり、雲の上に出れば、そこには太陽が煌々と輝き、いつもと変わらぬ明るさいっぱいの世界が開けています。一見暗く見える雨の日も、決して光がなくなってしまったわけではなく、ただ雲や霧が太陽をさえぎってしまっているだけのことなのです。 私たちの日々の心遣いに関して、この雲や霧にあたるのが、天理教教祖・中山みき様「おやさま」がお教えくだされた、「心のほこり」と言えるのではないでしょうか。 教祖は、私たち人間の間違った心遣い、神様の望まれる陽気ぐらしに沿わない自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえ、神様の教えを箒として、絶えず心の掃除をするようにと諭されました。 心のほこりを払うとは、言わば雲や霧を取り去って、太陽のような、人間本来の明るい澄んだ心を取り戻すことです。ではどうすれば、ほこりを払うことができるのでしょうか。 たとえば、顔に泥がついてしまったら、鏡に顔を写して拭き取りますが、心のほこりを払うのもこれに似ています。私たちはややもすると、自分のことを棚に上げて、人の欠点をあげつらうことが多いものです。 しかし、その目に映った人の欠点こそ、実は自分の心のほこりを映し出している鏡なのです。鏡に映った人のほこりは、自分のほこりの影であると反省し、心を治めるところに、たすけ合いの精神が生まれ、陽気ぐらしへの道が開かれるのです。 「心というのは、コロコロ変わるから心というのだ」などと言われます。単なる語呂合わせのようで、実に本質をついています。要するに、心は自由で、どんな姿形にも変わるということです。 私たちは誰しも、明るく楽しい、陽気な暮らしをしたいと望んでいます。そうであれば、皆が求める楽しい暮らしに向けて、心が自由自在に動いていけば何の問題もありません。ただ、お互いに相手のあることを忘れてしまうと、自分だけの楽しい暮らしへ向かうあまり、知らず知らずのうちに人を不快にさせることがあるかも知れません。これは自由ではあっても自分勝手な心であり、反省しなければならないほこりの心遣いです。 神様は、 「皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん」(M30・12・11) 「勝手というものは、めん/\にとってはよいものなれど、皆の中にとっては治まる理にならん」(M33・11・20) と仰せられています。 (終)

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