天理教の時間「家族円満」

TENRIKYO

心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。 read less
宗教・スピリチュアル宗教・スピリチュアル

エピソード

難産を経験したお母さんへ
4日前
難産を経験したお母さんへ
難産を経験したお母さんへ  助産師  目黒 和加子 リスナーの皆さん、「難産」と聞いてどんなお産を思い浮かべますか? 陣痛が来ているのに二日経っても三日経っても産まれない、体力と精神力を限界まで使い果たすような難儀なお産。あるいは分娩経過中に母体や胎児に問題が起き、緊急帝王切開になるのを難産と捉える人もいるでしょう。 誰でも楽々と産みたいですよね。でも、しんどい難産を経験する中で、特別な宝物を手にするお母さんもいるのですよ。 真夜中に入院してきた小倉奈々さんは、大阪の実家に里帰りしている初産婦さん。三日前に陣痛が来て来院したのですが、微弱陣痛で子宮口は全く開いていません。ドクターから「陣痛が弱くてまだまだお産になりません。家で休んでいてください」と言われて帰宅しました。 その翌日も来院したのですが、やはり微弱陣痛で子宮口は5ミリしか開いておらず、「入院するのは早過ぎます」と、再び帰されました。 日付けが変わった真夜中、本格的な陣痛が来て三回目の来院。子宮口は3センチ開大し、入院となりました。里帰り出産なので、お母さんが付きっきりでお世話をしています。 小倉さんは痛みと不安で三日間ほとんど眠れず、ヘトヘト、クタクタの状態。入院してから20時間後、子宮口が直径10センチの全開となり、やっと分娩室に入りました。息み始めると、胎児がいい感じで産道を下がり、〝パーン!〟とはじけるように破水しました。さあ、出産まであと一歩!だったのですが…。 破水した直後に内診すると、順調に産道を下がっていたはずの胎児が、何と上がっているではありませんか。おまけに真下を向いていたはずが、横向きになっています。破水の勢いで押し上げられ、頭の向きも変わってしまったのです。 横向きの場合、産道の硬い初産婦が経腟分娩をするのはかなり厳しく、息んでも息んでも胎児は下がってこれません。このまま狭い産道で圧迫を受け続けると、苦しい状態に陥ります。 〝これは困ったことになった。胎児の位置が高すぎて、吸引分娩も鉗子分娩もできない〟。ドクターと私が顔を見合わせ、次の手を考え始めたその時、胎児心拍数がガクンと低下。 トン、トン、トン、トン、と、馬が駆けるようにリズムよく打っていた胎児心拍が、トーーーン、トーーーン、トーーーン……。今にも止まりそう。 「緊急帝王切開や!5分でオペ室準備しろ!」分娩室に響く、医師の慌てた声。スタッフの緊張が一気に高まり、バタバタと走り回っています。 急いで麻酔をかけ、帝王切開が始まりました。切開した子宮の中を見ると、へその緒が赤ちゃんの右肩から左の腋の下にぐるんと巻き付いています。まるで駅伝選手のたすき掛けのよう。胎児をくるんでいた卵膜が破け、勢いよく破水したことで、子宮内圧が急激に変化し、へその緒に引っ張り上げられたのです。次々と困難が起きましたが、お産は無事終わりました。 退院の前日、お部屋を訪ねると、小倉さんは涙を浮かべています。 「どうしたの?」 「母に言われたんです。下から産まれる寸前までいったのに、陣痛と手術のどっちの痛みも経験せなあかんのは、あんたが高校生の時、散々やんちゃして親に心配かけたからや、行いが悪いから難産になったんやって。お姉ちゃんは、一人目は4時間で二人目は2時間、楽々と産んでる。昔から、日頃の行いがお産に出るって言うけど、ほんまやなあって」 「お母さん、厳しいね」 「昔、親に心配かけたのは事実です。でも、めっちゃ頑張ったのに…」 涙が止まらない小倉さん。私は彼女の背中をさすりながら問いかけました。 「今回、お産のスペシャルコースを経験して気づいたことある?」 「私、お産をなめてました。お姉ちゃんが楽々と産んでたから、私も楽勝やって。親戚のおばちゃんから『お産は棺桶に片足を突っ込むことや』って聞いて、大げさやなあって流してたけど、ほんまですね。死ぬかと思いました。赤ちゃんの心拍がゆっくりになって、お医者さんが慌てて帝王切開に切り替えますって言った時、産む私も命がけやけど、赤ちゃんも命がけやって分かったんです。産まれるって奇跡やって。命の危険を感じて怖かったけど、大事なことを知りました」 「助産師学校でね、人間が最も死に近づくのは、産道を通過する時だって教わったんよ。赤ちゃんはものすごい低酸素状態で、命からがら産まれてくるねん。産むお母さんも産まれてくる赤ちゃんも、ほんまに命がけやねんで」 「そうやったんですね。そんな大事なこと全然知らんかった。母には厳しいこと言われたけど、自分で産みの苦しみを経験してみて、産んでくれたことも育ててもらったことも有難いんだなって、感謝の思いが湧いてきました」 「もし楽々とお産してたら、こんな思いになったかなぁ?」 「相変わらずお産をなめてたでしょうね。お産で家族が増えることは当たり前で、奇跡やなんて全く気付かないまま。母に対しても、こんな気持ちにはなれへんかったと思います」 私は最後に小倉さんをハグしながら、ありったけの思いを伝えました。 「難産やったのは運が悪かったんと違う。損したのとも違う。ましてや日頃の行いが悪いからでもない。難儀な思いをしたけれど、お産は命がけやと知ったよね。お産で家族が増えることは奇跡やと実感できたよね。この経験は宝物なんよ。きっと子育てにつながるから。これからの人生を支えるチカラになるから。私は小倉さんの命がけの頑張りの目撃者やで。ご褒美に世界で一番大きいダイヤモンドを買うてあげたい。そんな気持ちやで」 翌日、彼女は清々しい笑顔で退院していきました。 リスナーの皆さんの中にも、難産を経験した人がいると思います。もし、その経験を後ろ向きに捉えているのなら、小倉さんにかけた言葉をあなたにも送ります。あなたはすでに特別な宝物を手にしているのだと、気づいてほしいから。 だけど有難い「思い通りになったら…」 「とかく、この世はままならぬ」と昔から言いますが、「自分の思い通りにならない」と嘆いている人が多いようです。最近、凶悪事件が連続して起こるのも、世の中が自分の思い通りにならないことへの怒りや苛立ちをぶつけている姿のようにも見えます。 しかし、もし思うようになったとしたら、どうでしょう。世の中は無茶苦茶になるのではないでしょうか。たとえば、梅雨の時期は雨で一日中ジトジトするので嫌だという人は多いと思います。だからといって、梅雨をなくしてしまえば、夏は水不足で困らねばなりません。 同じように、日本の夏は暑すぎるから涼しくなってほしいと願って思い通りになったら、冷夏で米が穫れないのです。台風が来ると被害が出るから来なければいいと願って思い通りになれば、やはり水不足で困らねばなりません。どんなことも私たちの思うようになったなら、果たして幸せな生活が送れるでしょうか。 実は、思うようにならないから良いのです。すべては、親神様が私たちの将来に一番良いようにと、ご守護くださっているのです。考えてみれば、人間の親子関係も同じです。子供の望み通りにしてやりたいと思うものの、時には辛抱を教えなければならないこともあります。口うるさくならなければいけない場合があるのです。 娘が小さいころ、高熱を出すと熱性痙攣を起こすことがありました。初めてそうなったときは、びっくりしました。死んだのではないかと思うほどの状態になるのです。私も同じように両親に心配をかけてきたことを、あとで聞いて知りました。 痙攣を何度も繰り返すのは良くないとのことで、熱が出たときのために医師から座薬を処方されました。座薬は湿らせると簡単に入ります。当時はそのことを知りませんでした。妻と二人で娘を押さえつけて、無理やりお尻に入れました。娘は「誰か助けて、お尻が割れる」と叫びました。しかし親を恨んだかといえば、そんなことはありません。親は自分に一番良いようにしてくれているということが、子供心に分かっていたからです。 親神様と私たちの関係もそうなのです。私たちは幼児と同じです。思い通りにしてほしいと願いますが、その通りになったら大変なことになるのです。親神様は、私たちの親です。一番良いようにしてくださっているのです。 私の子供が座薬を入れられたときのように、やっぱりつらいときはあります。その場だけ考えれば、勘弁してほしいと思うときはあるのです。病気や事情で苦しんでいるときが、まさにそうです。しかし親神様は、そうしたふしを与えてまでも、その人の将来に一番良いようにしてくださっているのです。 梅雨の時期は鬱陶しい。けれど、梅雨がなくては困ります。同じように、病気や事情は鬱陶しくて、つらくて苦しい。けれど、これでたすけてもらえるのだと信じて、神様にもたれて通っていただきたいと思います。 (終)
共に育つ
31-01-2025
共に育つ
共に育つ 静岡県在住  末吉 喜恵 子育てって、子供を育てているというけど、実際は自分たち親が育っているのではないでしょうか。夫も私も子育てをしていて、忍耐力がいるのはもちろん、危険予知能力も必要なのでは?と思うこともあり、とにかく今まで経験のないことだらけです。 私たちの子育て、これで合ってるのかな?と答え合わせをしようにも、すぐに答えは出ません。10年20年経たないと分からないことなのかな、と思っています。 長女が二歳の反抗期、いわゆる「イヤイヤ期」の時の話しです。初めての育児で、自我の芽生えということが理解できずに、「イヤイヤ~!」と言われると、こちらもイライラしてくることが多くありました。 洋服もそれまでは私が用意したものを素直に着ていたのに、自分で選ばないと気が済まなくなりました。お気に入りは、色柄物のシャツに色柄物のズボン、しかも晴れなのに長靴スタイル!これが毎日です。 これはどう見てもやばいでしょ!と思って、「下のズボンだけでも無地のものに変えない?」と言ってみるのですが、なかなか言うことを聞いてくれません。イヤイヤ期の子育てってこんなにも大変なんだ、これは親として忍耐を学ぶ修行だなと思っていました。 そんなある日、ふと「まあ、いいか。人に何て思われようと気にしない」と気持ちが切り替わったのです。この子が好きで選んでいる服だから、気に入って自分が大好きだと思ってくれればいいや!そう思った日から、かなり気持ちが軽くなりました。 それからも毎日々々、柄柄やピンクピンクなどの、色見ヤバヤバスタイルでしたが、「いいじゃん、可愛いよ!」と褒めるようにしました。夫も「ダッサいね~」と笑いにしていました。自分で選べるようになるのも大事なことなんだと、こちらも学ぶことが出来ました。 我が家の次女と三女は一卵性双生児です。一卵性双生児は遺伝子が同じなので、顔も背格好も、歯の形でさえとても似ていて、初めて見た人はもちろん、保育園や学校の先生も違いが分からないほどでした。 でも性格は違っていて、次女はものをぽんぽん捨てられる子で、逆に三女は捨てられない子でした。なので机の上も、次女はスッキリ何も置いていないけど、三女はお菓子の包み紙とか、これはゴミじゃない?と思うようなものも大事そうに取ってあって、山積みになっていました。それを見て、「やっぱり同じ遺伝子でも、性格や魂は違うのだなあ」と実感しました。 長男が三歳の頃、反抗期に入り自我が芽生えてきて、「今って言ったら今!」という感じで、一度言い出したら聞かなくなりました。他のことで気分を変えさせようとしても、他のもので釣ろうとしてもダメです。自分の欲求が満たされないと、泣いて泣いて大暴れします。 ある日、朝起きてすぐ長女が、持っているキラキラの折り紙を見せびらかしました。あげる気もないのに自慢げに見せるので、長男はそれが欲しくてたまらなくなり、「欲しい欲しい!くれないなら買いに行く!」と言い出しました。10分も泣いて、おさまりがつかなくなり、長女が「一枚あげるよ」と言っても、もう聞きません。 「まだお店開いてないよ」と言っても「開いてる!」と言うので、実際に見に行きました。仕事がお休みの日だから出来たことですが、朝6時半から近くの文具店まで二人でお散歩しました。 一緒に歩き始めるとご機嫌になり、しゃべりっぱなしの長男でしたが、文具店に着くと「閉まってるね」と残念そうな顔。でも、ひらめいたように「100均なら開いてるかも!」と言うので、今度は100均まで歩きました。もちろん閉まっていましたが、実際に見て納得がいったようで、「じゃあ、おうち帰ろう!」と言って、ダッシュで走っていきました。 普段、私と二人の時間を過ごすことも少なかったので、二人きりでの朝のお散歩が楽しかったようです。そのあとは、折り紙のことなんてすっかり忘れて、きょうだいで楽しそうに遊んでいました。 こうして実際に一緒に歩くことを通して、子供は自分の目で見て確認したら納得するのだということを学びました。 幼い頃の特徴としては、子供は理論立てて考えるより、目で見たそのままを事実として脳に入れ込むのだそうです。中でもネガティブな記憶の方がより深く刻まれ、その記憶がその後の人生の色んな場面に影響を与えるのだと聞きました。 でも、子育ての最中で、何がネガティブな記憶として刻まれるかは中々分かるものではないし、防ぎようがありません。だからこそ、ネガティブに対抗するためにポジティブな言葉をかけ続けること、たくさん褒めて、たくさん「大好き!」と伝え続けることが大切なのです。 たくさん「大好き」「ありがとう」と愛情や感謝を伝えられた子供は、人にも優しく出来るし、自分にも優しく出来る子に育つ。そんな思いから、私も子守唄を作って、「ママの子供に生まれてきてくれてありがとう。大好きよ」と、寝る前に子供たちに歌って聞かせてきました。 五人の子育てをしていて、「誰がいちばん好き?」と子供たちから聞かれる時がありました。上の四人は年も近かったので、誰が一番かというのを知りたい時期だったと思います。その時、私は必ず「みんなのことが好きだけど、パパが一番好きだよ」と言っていました。それでみんな納得してくれていました。自分自身も誰が一番なんて順位はつけられないし、実際に夫のことが一番好きなので、その正直な気持ちを伝えました。 でも一人ずつ話をする機会があれば、「みんなにはパパが一番って言ってるけど、実はあなたが一番好きだよ。内緒にしていてね」とこっそり言うと、嬉しそうに「うん」と笑顔に。これを全員に言っていました。 五人の子育てを通して、また子育て支援をする中でたくさんの子供たちと接して、皆一人ひとり確実に個性が違うことを知りました。その個性の違いは、すでに赤ちゃんの時からスタートしています。それは教えに照らせば、私たちの持つ魂は生き通しで、生まれ更わりを繰り返す中で、前生やそのまた前生の生き方が関係しているということだと思います。 子供を神様から授けてもらい、共に育ち、共に学んで成長していることを実感し、感謝する毎日です。 狭いのが楽しみ 「楽しむ」というのは、人間の中に本来備わっている大きな資質の一つであり、楽しむことがなければ、私たちは生きていくことができません。それは、親神様が「人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい」との思惑から、私たち人間をお創りくだされたからに他なりません。 生活が豊かになること、だんだんと不自由なことがなくなること、心が豊かになること、誰しもこのような「楽しみ」あふれる人生を送りたいと思うはずです。 では、教祖が教えられる「楽しみ」とは、どのようなものでしょうか。 京都で熱心に信仰をしていた深谷源次郎さんが、なんでもどうでもこの結構な教えを弘めさせて頂こうと、勇んでにをいがけ・おたすけに歩いていた頃のお話しです。 当時、源次郎さんが、もう着物はない、炭はない、親神様のお働きを見せて頂かねば、その日食べるものもない、という中、心を倒さずにお屋敷へ足を運んでいると、教祖はいつも、このように仰せ下さいました。 「狭いのが楽しみやで。小さいからというて不足にしてはいかん。小さいものから理が積もって大きいなるのや。松の木でも、小さい時があるのやで。小さいのを楽しんでくれ。末で大きい芽が吹くで」(教祖伝逸話篇142「狭いのが楽しみ」) ここで言われている「楽しみ」は、自分自身の生活が良くなるというような、世俗的な楽しみとは違うようです。 小さいものは、理が積み重なって大きくなること。これこそ天然自然の理であり、親神様の大きなご守護の賜物であること。そして、今は小さくとも、先々この教えがどのように広まっていくのか、それを楽しみに日々を勇んで通って欲しい。教祖はそう望んでおられるのです。 「紋型無い処から、今日の道という。嘘はあろうまい。農家の立毛作るも同じ事、何ぼの楽しみとも分からん」(M32・2・2) 天保九年、教祖お一人からこの道は始まりました。小さいどころか、形さえ見えなかった松の木が、やがて大きな芽を吹き、日本全国、そして海外までも広がりを見せていったのです。 (終)
最短距離
24-01-2025
最短距離
最短距離 大阪府在住  山本 達則 街角で頻繁に出会って、あいさつを交わすようになったご家族がありました。お父さん、お母さん、そして小学一年生ぐらいの男の子の三人のご家族でした。このご家族は台湾出身で、お父さんの仕事の関係で日本に来られていました。 そのご家族と出会う度に、しばらく談笑するようになっていました。男の子はとてもおしゃべりが好きで、そのほとんどの時間は、男の子と私との会話でした。しかも、男の子は中国語で私は日本語。その両方を話すことができるお父さんが間に入って、通訳をしてくれるというのがいつもの風景でした。 ある日のこと。ご家族三人と顔を合わせ、いつもと変わらずにこやかにご挨拶して下さった後で、お母さんが子供に「これで好きなものを二つ買っていいから、あそこのコンビニに行っておいで」と言い、千円札を一枚渡しました。毎回私と子供との会話に終始していましたが、その日はお母さんが私に尋ねたいことがあって、子供をコンビニに行かせたようでした。 子供は大喜びで千円札を握りしめ、すぐ横のコンビニに走っていきました。その間、子供の姿を気にしながら、お父さんとお母さんと三人でお話をすることができました。 しばらくすると、男の子はコンビニの袋を持って、喜々として戻ってきました。お母さんが男の子に「何を買ったの?」とたずねると、男の子はコンビニの袋からアンパンマンのチョコレートを取り出し、お母さんに差し出しました。お母さんは「いいのを買ったね」と言って、「もう一つは?」と聞きました。すると男の子は袋の中から一本のお茶を取り出し、そのお茶を私に差し出しました。 私は驚きましたが、「ありがとう」と言ってそのお茶を受け取りました。私以上に驚いていたのが、お父さんとお母さん。二人は顔を見合わせました。それからお母さんが、「もう一つ、あなたの好きなものは?」と聞きました。すると男の子は、アンパンマンチョコと私にくれたお茶を、しっかりと指差しました。彼は自分の欲しいものを一つにして、私にお茶を買ってくれたのでした。 お父さんとお母さんは、もう一度顔を見合わせました。そして男の子を引き寄せ、二人で思いっきり抱きしめました。それから、三人で中国語で興奮気味に話しながら、コンビニに入っていきました。 しばらくして三人が戻ってくると、男の子はお菓子やジュースがいっぱい入った袋を持っていて、それを嬉しそうに私に見せてくれました。その横で、お父さんがまた少し興奮気味に、こう話してくれました。 「私の仕事は短期の海外出張が多く、その度に家族もついてきてくれています。でもそのために、この子は友達がなかなか出来ず、寂しい思いをさせてしまっています。だから、どうしても甘やかせてしまうことが多くて、自分よがりな子に育ってしまわないかと心配で、いつも夫婦で話し合っています。でも今日、妻に自分の好きなものを二つ買っていいと言われて、そのうちの大切な一つを使って、あなたにお茶を買ってきてくれたことが嬉しくて嬉しくて、またコンビニでこの子の好きなものをたくさん買って、甘やかせてしまいました」 本当に心あたたまる、いい場面に立ち会わせて頂きました。 私は、このご家族の様子を見ながら、神様が人間にかけてくださる思いも同じなのだろうと、ふと感じました。 もし、男の子が、自分の好きなものを二つ買った上で、そのおつりで私にお茶を買ってきてくれたのだとしたら、ご両親はどう反応したのでしょう。おそらく、それでもご両親は「気の利くいい子ね」と頭をなでながら褒めてあげたと思います。しかし、袋いっぱいのお菓子やジュースを買ってあげるまでには至らなかったのではないか、と想像しました。 お母さんから「二つ」と言われたうちの大切な一つを使って、私にお茶を買ってきてくれたことが、お父さん、お母さんを飛び上がるほど喜ばせ、袋いっぱいのお菓子というご褒美につながったのだと感じました。 私たち一人ひとりには、願望も欲望も、さらにはそれぞれの夢もあります。それを叶えるために日々努力をしながら、目の前の現状と向き合い、生活をしています。 そこをもう一歩踏み込んで、人に喜んでもらうために、自分の大切なものを差し出したり、自分の望みを叶えるための大切なものを我慢したり、後回しにしたりすること。それが、実は、自分自身の幸せに向かうための「最短距離」ではないかと、このご家族との出会いで強く感じさせて頂きました。     家業と親への孝心 明治十五年、兵庫の冨田伝次郎さんが、息子の病気をたすけられ、はじめて教祖のいらっしゃるお屋敷へ帰らせて頂きました。 教祖は、伝次郎さんの家業をお尋ねになり、「はい、私は蒟蒻屋をしております」と伝次郎さんが答えると、「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら、高う買うて安う売りなはれや」と仰せになりました。 ところが伝次郎さん、どう考えても「高う買うて、安う売る」の意味が分かりません。そんな事をすれば損をして、商売にならないではないか。そこで、信心の先輩に尋ねたところ、「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売る時には、利を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを食うて損する事のない、共に栄える理である」 こう諭されて、伝次郎さんは初めて「成る程」と、得心したのです。(教祖伝逸話篇104「信心はな」) さて、この逸話には、もう一つ大事なお言葉があります。「高う買うて安う売りなはれや」と仰せられたあとに、教祖は続いて、「神さんの信心はな、神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで」と諭されたのです。 この時、伝次郎さんは、遠路はるばる、76歳になる母親を伴っていました。そんなこともあって、教祖は商売と親孝心のお話をされたのかもしれません。 親への孝心の延長上に、親なる神様への信仰がある。そして、自らも親の心にならい、子供を親身になって世話をする。それはとても手の掛かることであり、一見損なことのようにも思える。しかし、そこを決して損と思わずに喜んで行うことは、子育ての大切な姿勢であり、また商売人としての生き方の神髄でもあることを教えられたのです。 この道の信仰を持つある経営者は、こう述べています。 「親は子供の世話ばかりして、ろくに面倒もみてもらえず死んでいく、こんな損な役割はない、などとぼやく人がいますが、とんでもない話です。人は、子供に面倒を見てもらうために、育児に熱中するのではないのです。楽しみながら、子供に手をかける。『損の道』も、じつは損をしていると思ってやっているうちは、理解が足りないのであって、『損の道』を損と思わない、むしろ喜べる心になってホンモノといえるのでありましょう」 親にとって手間暇のかかる育児が、大きな喜びであるように、苦労して商売をする「損の道」を歩むこともまた、商売人としての大きな喜びとなるのです。 「おかきさげ」の中に、次のような一節があります。 「日々には家業という、これが第一。又一つ、内々互い/\孝心の道、これが第一。二つ一つが天の理と諭し置こう」 家業と孝心の道は、「二つ一つ」であるということ。信仰を生かした商売のあるべき姿を、教祖はお示しくだされているのです。 (終)
水を飲めば水の味がする
17-01-2025
水を飲めば水の味がする
水を飲めば水の味がする  千葉県在住  中臺 眞治 私には、とても悩み苦しんでいた時代があります。 私は26才の時、天理教の教会長に就任しました。当時の東京には、ホームレスの方が大勢いて、私の実家である報徳分教会ではそうした方々を受け入れていました。しかし、その中には自立が困難な方や他の住み込みさんと仲良く過ごせない方もいて、私の教会ではそのような方々をお預かりしていました。 初めに四名の方を受け入れたのですが、トラブルは絶えませんでした。通りすがりに人の顔につばを吐きかける人、わざと足をかけて転ばせる人、俺は怒っているんだ!と言わんばかりに当たり散らしている人、などなど。「そういうことはしちゃいけないよ」と言っても、まったく会話になりません。結局、四人のうち三人を看取り、最後の一人になるまでの14年間、その住み込みさん同士は心を通わせることもなく、会話すらほとんどありませんでした。 当時の私の役割は、そうした方々の食事を作り、身の回りの世話や介護をし、機嫌をとることでしたが、感謝をされることはありませんでしたし、それらを毎日一人で行わなければなりませんでした。 孤独や貧困、介護など色々なことが重なる中で、私は自分の人生に絶望し、夜眠る時に「どうか明日、目が覚めませんように」と祈る日々もありました。心の中には生まれてきたことを後悔する気持ちと、生きていて良かったと思いたい気持ちとがあり、その両方の間で揺れていました。 その後、色々なことがあり、苦しい時期を抜け出すことが出来たのですが、当時を振り返ってみると、多くの方にたすけられていたのだなと感じています。 ある晩、おぢばの詰所でおたすけ熱心な先生から、「眞治君どうだい、元気にやってるかい?」と声をかけられました。私が答えに詰まり、うつむいていると、「そうだろ、真っ暗闇だろ。でもね、真っ暗闇がいいんだよ。立派な大木には同じだけの根っこがある。その根っこというものは暗闇の中に生えるから意味があるんだよ。根っこが光を浴びたら意味がないだろう?」と励まして下さいました。 今の苦しみにも何かしらの意味がある。そう思うことで、私は希望を持ち続けることができました。 また当時、私は辛い気持ちを母によくこぼしていました。母はいつも共感しながら話を聴いてくれて、時には一緒に泣いてくれることもありました。そうしたことを繰り返す中で、段々と母を安心させたいと思う気持ちが芽生え、その気持ちが私自身の支えになっていきました。 自分の人生なんてどうでもいい!と投げ出したくなる時、悲しませたくない誰かがいることが、支えになるのだということを学びました。 こうした時期を乗り越える転機になった出来事があります。それは10年ほど前のおぢばがえりでした。 その日、私は一人で神殿に行き、おつとめをしました。そして、神様に向かって心の中で色々なことを問いかけていました。苦しむことの意味、ダメな自分、この先どうしていったらいいのか、などなど。神様から何かしらの返事があるわけではありませんが、礼拝の目標であるかんろだいを見つめながらボーッと過ごしていました。 するとその直後、不思議な感覚に包まれたのです。言葉にするのが難しいのですが、それまでは、どうしたらご守護を頂けるのか、神様の親心はどこにあるのかと、そんな風に考えていたのが、突然、私たちはそもそも神様の親心に包まれているんだ、ご守護を頂いているんだ、親心いっぱいの中で生かされているんだという感覚がおとずれたのです。そして、心が満たされた気持ちになり、涙があふれてきました。 「ダメな自分でもいいじゃないか。それでも神様は親心いっぱいで生かして下さっているじゃないか。ありがたい。これで十分」そう思えた瞬間でした。 それまでの私は、人と比べながら「自分はダメだ、不幸だ」と感じていました。しかしこの出来事のおかげで、誰と比べる必要もない、自分にも神様から与えられている幸福があるのだということを知りました。 天理教の教祖・中山みき様は、今日食べるものもないという厳しい状況の中で、「水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」とお言葉を下さいました。 このお言葉は、単なるやせ我慢ではありません。私たちは神様の親心に包まれ、天の与えを頂きながら生かされて生きているお互いであり、そこに心を向けることで、誰と比べる必要もない幸福を味わうことができる。そのことを端的に教えて下さっているのではないでしょうか。 その後、段々と毎日を喜べるようになった頃、妻と出会い結婚をしました。結婚してからは子供も授かり楽しく過ごしていたのですが、時々「なぜあんなに苦しい道を選ばなければならなかったのか」という思いが押し寄せ、傷のようなものが疼くことがありました。20代、30代という若い時代を楽しく過ごせなかった悔しさが込み上げてくるのです。 しかし、ある活動と出会い、その傷は癒えていくことになりました。それは「SNSたすけ」という、天理教青年会で教えて頂いた活動です。 そこで出会う方は、自分の人生に絶望し、生きる気力を失ってしまっている方々であり、苦しんでいた頃の自分と重なるのです。ここ数年は、毎年10名ほどを教会で受け入れています。 時々「大変じゃないの?」と心配の言葉をかけて下さる方もいますが、私自身は大変だと思ったことはほとんどなく、むしろ癒されている部分が大きいと感じています。その癒しに付き合わされる妻は大変だと思いますが、この場を借りて感謝致します。ありがとう。 親心 『稿本天理教教祖伝』第八章「親心」の冒頭は、以下のように始まります。   このよふを初た神の事ならば  せかい一れつみなわがこなり (四 62)   いちれつのこともがかハいそれゆへに  いろ/\心つくしきるなり (四 63) 人間は、親神によって創造され、その守護によって暮らしている。故に、親神と人間とは真の親子であり、この世の人間は一列兄弟である。この理により、親神の心は、昔も今も子供可愛い一条である。 (中略)   にんけんもこ共かわいであろをがな  それをふもをてしやんしてくれ (一四 34)   にち/\にをやのしやんとゆうものわ  たすけるもよふばかりをもてる (一四 35) をやの一語によって、親神と教祖の理は一つであり、親神の心こそ教祖の心、教祖の心こそ親神の心であることを教えられた。 そもそも、親とは、子供から仰ぎ見た時の呼名であり、子供無くして親とは言い得ない。親神の心とは、恰も人間の親が自分の子供に懐く親心と相通じる心で、一列人間に対する、限り無く広く大きく、明るく暖かい、たすけ一条の心である。 『稿本天理教教祖伝逸話篇』には、教祖の子供可愛い一条の親心が感じられる数多くの逸話が収められています。 明治十二年、当時十六歳の抽冬鶴松さんは、胃の患いから危篤の容態となり、医者にも匙を投げられてしまいました。 この時、知人からの勧めで入信を決意した鶴松さんは、両親に付き添われ、戸板に乗せられて、大阪から十二里の山坂を超えて初めておぢば帰りをさせて頂きました。 翌朝、教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、「かわいそうに」と仰せになり、ご自身が召しておられた赤の肌襦袢を脱いで、鶴松さんの頭から着せられました。 この時、鶴松さんは教祖の肌着の温みを感じると同時に、夜の明けたような心地がして、さしもの難病も薄紙をはぐように快方に向かったのです。 鶴松さんは、その後もその時のことを思い出しては、「今も尚、その温みが忘れられない」と、一生口癖のように言っていた、と伝えられています。 思えば、教祖ご在世当時の先人の信仰者たちは、教祖の親心に直接ふれて信仰に入り、その教祖の親心に少しでも近づかせて頂こうと力を尽くす中に、多くの人が導かれ、この道が広まっていったのです。今もなおご存命でお働きくださる教祖の親心は永遠であり、常に私たちを成人へと導いてくださっているのです。 (終)
徳積みはコッソリと
10-01-2025
徳積みはコッソリと
徳積みはコッソリと 岡山県在住  山﨑 石根 現在、天理市で寮生活をしている高校一年生の二男は、どういう訳か幼い頃から、色々なものがよく当たる子でした。兄と一緒にガチャガチャをしても、弟の彼だけ欲しいおもちゃが当たったり、たまにしか買わないアニメのメダルやカードでさえ、見事にレアな物を引き当てたりするので、長男が「何で弟だけ…」となって悔しがる場面を何度も見てきました。 その度に、二男は周りの人から「徳があるなぁ」と言われてきたのですが、実際に昔から黙々とお手伝いなどが出来る子であったのは確かでした。「何で弟だけ…」と悔しがる長男に対して、「あんたもしっかり徳を積んだら当たるようになるわ」と、しばしば妻が言っていたのを覚えています。 昨年の三月、岡山市の大教会で子どもたちを対象にした大きな行事が開かれました。実に、子どもが100人以上集まるビッグイベントです。この行事への参加が最後になる年齢の二男は、ラストのビンゴ大会で、何と目玉景品の一つであり、本人も欲しがっていたスマホのワイヤレスイヤホンをゲットしたのです。 飛び上がって喜ぶ二男に、妻が「これで、積んだ徳を全部使い果たしたなぁ」とひと言。それに対して、「そうじゃな。また徳を積まなあかんなぁ」と二男が答えたのを聞いて、私は何だか嬉しくなったのでした。 「徳を積む」とは、昔から日本で大切にされてきた考え方ですが、天理教教祖・中山みき様は、人の見ていない〝陰で徳を積む〟ことの大切さをお説き下さいました。 たとえば、教祖は飯降伊蔵さんという方に、「伊蔵はん、この道はなあ、陰徳を積みなされや」と教えられました。そこで、大工だった伊蔵さんは、夜な夜な、人知れず壊れた橋を繕ったり、悪い道を直したりして、教えを実践されました。陰で良い行いをしても、当然評価されませんし、見返りもありません。しかし、それこそが神様にお受け取り頂ける行いなのだと、教祖はお教え下さったのです。 さて、私は毎月、神様の教えをチラシにして近所に配ったり、教会の壁に掲示したりしているのですが、チラシにこの「陰徳を積む」というお話を書いた、昨年10月のある日のことでした。 その日は、年齢や国籍を問わず、地域の人たちが集まって食事を楽しむ「みんなの食堂」という行事の日で、私がスタッフとして会場の準備をしている時、同じスタッフをしている主任児童委員の有元(ありもと)さんが、次のような話を聞かせて下さいました。 「山﨑さん、私は毎日、犬の散歩をしてるんですが、他の犬のフンが落ちているのを見たら、これまでは見て見ぬふりをしていたんです。次の日にそのフンが潰れているのを見たりしたら、ああ、昨日拾えば良かったと後悔するんですが、自分の犬以外のフンは、やっぱり汚いなぁと思っていたんです。 でも、今回のチラシの〝陰徳を積む〟という話を読んで、そうか、見返りを求めずに頑張ったら、徳を積むことになるんだと知って、最近はいっつも拾うようにしているんです。だけど、本当はこのことも言っちゃダメなんでしょう?」 思いがけない有元さんの良い行いの報告に、自然と私以外のスタッフからも拍手が起き、みんな「スゴ~イ」「ステキ~」と笑顔になりました。私は 「そうそう、良い行いも自分から言ってしまうと、積んだ徳が勘定済みになってしまうって言われていますけど、でも、こうしてみんなを嬉しい気持ちにさせたんだから、素晴らしいじゃないですか」とお伝えしました。 教祖の教えが少しでも地域の方に伝わり、少しでも陽気ぐらしの世の中につながればとの思いから、チラシを外に掲示していましたので、私の嬉しさも一入でした。 その上で、有元さんから主任児童委員らしい提案もありました。 「私は今、小学校の学校運営協議会の委員をしてるんですが、学校の取り組みの一つに〝友達のいいところ見つけ〟のようなものがあるんです。友達のいい所を発見して褒め合ったり、報告したりするんですが、ふと、いい行いをしても、見つけてもらえなかった子がいたら可哀想だなぁと。なので、その子たちに何とかこの〝陰徳を積む〟という話を聞かせるような教育が出来ないか、先生方に提案しようと思ったんですが、勇気がなくて言えませんでした」 有元さんは少し恥ずかしそうに話してくれましたが、これまた周りから拍手が起こりました。みんなで「そうだよなあ」と考えさせられるお話でした。 教育現場において、「知育」「体育」と並んで、大切な分野として「徳育」というものがあります。徳育とは、人間としての心情や道徳的な意識を養うための教育のことです。 有元さんは、天理教の教えを公の場で伝えることに少し勇気がいったのかも知れませんが、子どもの育ちを応援したいその思いに深く感激した私は、「え~、徳育だから全然言って大丈夫だったんじゃないですか~」と残念がりました。 それは、私自身がこの「人の見ていない陰で徳を積む」という教えが、とても好きだということもありますし、「たとえ誰かに評価をしてもらえなくても、お天道様、つまり神様は必ず見て下さっている」というのは、私たち夫婦が教会のこども会などの行事で、ずっとずっと伝えてきたことだからでした。 さて、このような嬉しい出来事があったので、「徳を積み直す」と言っていた二男のその後が気になり、連絡をして尋ねてみました。 「それが、隠れていいことをしようとしても、人に見つかってしまうんよ~」と、さすがの一言。念のため、長男にも尋ねてみると、「僕の徳積みは参拝や」とのこと。 陰であってもなくても、きっとどちらも神様は喜ばれるだろうなぁと、親としては大満足の回答でした。そして、子どもたちのこの姿が、私にとっての目玉景品だと思いました。  教祖、ありがとうございます。どうか、いつまでもこの素直さを持ち続けてくれますように…。 子供があるので楽しみや 天理教教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、こんな逸話が残されています。 教祖は、かねてから飯降伊蔵さんに、早くお屋敷へ移り住むよう仰せられていました。しかし、伊蔵さんとおさとさん夫婦には子供が三人いて、将来のことが色々と案じられ、なかなか踏み切れずにいました。 ところが、そうこうしているうちに次女が眼を患い、一人息子は口がきけなくなるというお障りを頂きました。そこで、母親のおさとさんが教祖にお目にかかり、「一日も早く帰らせて頂きたいのでございますが、何分櫟本の人達が親切にして下さいますので、それを振り切るわけにもいかず、お言葉を心にかけながらも、一日送りに日を過しているような始末でございます」と申し上げました。 すると教祖は、「人が好くから神も好くのやで。人が惜しがる間は神も惜しがる。人の好く間は神も楽しみや」と仰せられます。 おさとさんが重ねて、「何分子供も小そうございますから、大きくなるまでお待ち下さいませ」と申し上げると、教祖は、「子供があるので楽しみや。親ばっかりでは楽しみがない。早よう帰って来いや」と仰せ下されたので、おさとさんは「きっと帰らせて頂きます」とお誓い申し上げました。そして帰宅すると、二人の子供は、鮮やかにご守護頂いていたのです。 かくて、おさとさんは、夫の伊蔵さんに先立ち、おたすけ頂いた二人の子供を連れて、お屋敷に住まわせて頂くこととなりました。 「子供があるので楽しみや。親ばっかりでは楽しみがない」との教祖のお言葉は、この世の元初りにあたり、どろ海中の混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた、まさに親神様のお心そのままです。 おふでさきに、   月日にわにんけんはじめかけたのわ  よふきゆさんがみたいゆへから (十四 25) とあるように、私たちが陽気ぐらしをする姿を見ることを、究極の楽しみとされる親神様。そのために親神様は私たち人間に様々な事情を見せられ、この道にお引き寄せ下さるのです。 (終)
おさづけは世界共通 その2
03-01-2025
おさづけは世界共通 その2
おさづけは世界共通 その2  タイ在住  野口 信也 私は22歳でタイへ2年間留学した時に、「もし、病気の方がおられるのを見たり聞いたりしたら、すぐにおさづけを取り次ぐ」ということを心に決め、帰国後も、そして一年後にタイの大学へ再留学する時にもその決心を続けていました。 その時、多くの病気の方と出会いましたが、特に症状の重い方にはできる限り毎日取り次ぎをさせて頂くために、渋滞のひどいバンコクの街をバイクタクシーで移動したり、なかなか回復のご守護を頂けず悶々とする日も多かったことなどが思い出されます。 その頃、大学二回生の時だったと思います。講義の最中、ある女性の教授が、「いま私の父親が入院中で、とても危険な状態です。試験前の大切な時期に申し訳ないのですが、来週はおそらく葬儀で休講になると思います」と話しました。 私は講義の後、先生の所へ行き、「私は天理教という宗教を信仰しています。もし良ければ、お父さんが良くなるようにお祈りをさせて頂きたいのですが」と話しました。 すると、「そんな聞いたこともない宗教に祈られて、父親が地獄に落ちたらどうしてくれるんですか」と、きつく断られました。先生が教え子にそんなことを言うのかと驚きましたが、試験前でもあり、断られて少しホッとしたのも事実です。そこで「では、家でお祈りしたいので、お父さんのお名前と住所、生年月日を教えてください」と言うと、それについては問題なく教えてくれました。 翌週、教授は休まず講義にやって来ました。講義の後、「お父さんはどんな状態ですか?」と恐る恐る尋ねると、意外な返事が返ってきました。 「実は今も意識はなく、苦しそうな顔をして、死ぬに死ねない状態です。それであなたのことを母に話したら、ぜひ来てもらいたいと言います。一度断っておいて申し訳ないのですが、来てもらえないでしょうか」。 おたすけは、話を聞いたらすぐに取り掛かることが大事だと聞かせて頂くので、その日のうちに行くとお伝えし、入院先の警察病院で待ち合わせることになりました。 案内されて病室へ行くと、教授の母親が丁寧にあいさつをして下さり、家族の紹介を受けました。聞くと、会社の社長に弁護士、医師といった社会的地位のある方ばかりでした。少し気後れしましたが、まずは天理教のお話を聞いて頂かなければなりません。 さっそく親神様・教祖についてお話を始めたところ、日本人の私がタイ語を理解できないと思ったのか、「こんな宗教は聞いたこともない。もし本当にたすかるなら、もっと有名なはずだ」と、タイ語でひそひそ話している声が聞こえてきました。 私はそれを聞いて、沸々と熱い感情が込み上げてきて、「お父さんは、いま意識を失っています。この苦しそうな顔は、家族であるあなた方に対する親神様からのメッセージです。天理教では、三日三晩のお願いで必ず結果が出ます。しっかりとお父さんのことを看てあげて下さい」と申し上げました。 そして、一度目のおさづけの取り次ぎにかかりました。病室が静まり返る中、取り次ぎを終え柏手を打つと、父親が付けていた酸素吸入器が「ガタガタ」と音を立てて止まりました。家族の方が「一回のお祈りで死ぬのか」と言い、病室は騒然となりました。教授が急いで看護師を呼ぶと、「自分で呼吸を始めていますから大丈夫です」とのことで、私は少し安心して、「では、また明日来ます」と言ってその場を後にしました。 翌日、病院に行くと、昨日までの苦しそうな顔が嘘のように、穏やかな顔で寝ておられます。意識はないものの、おさづけの最中に、少し薄目を開けてキョロキョロしています。「いい顔になりましたね」と言うと、教授が「はい、あなたのおかげです」とお礼を言って下さいました。 家族の中には、「いや、最初からこんな感じだよ」と、おさづけの効能を信じない方もおられましたが、その日は、父親に二回おさづけを取り次ぎ、会社の社長をしている教授のお兄さんも首と手首、足首が痛いとのことで、おさづけを取り次がせて頂きました。 そうして迎えた三日目、私が「結果が出る」と豪語した日です。家族が見守る中、必死におさづけを取り次ぎました。しかし変化はありません。私は、「これから24時間で結果が出ますから、しっかり看てあげてください」と言うのが精一杯でした。 翌日は26日、ご本部の月次祭の日です。タイ出張所で参拝し、大学で試験を受けましたが、その間もずっと病人さんのことが気がかりで、「今日は何と声を掛ければいいだろう、家族の人に何と言われるだろう」と、そんなことばかり考えていました。 試験の後、病院へ行く前にアパートへ戻ると、受付でメモを渡されました。そこには、「信也さんへ。本日12時頃、家族みんなが見守る中、誰も気がつかないほど穏やかに、父は息を引き取りました。本当にいい顔をしていました。ありがとう。あなたの思いはしっかりと頂きました。葬儀などのことは気にせず、今日からは試験に集中してがんばってください」と書いてありました。 緊張が一気に解けたのか、メモを読みながら、知らないうちに涙がポロポロ流れてきました。おたすけの場面では、迷ったり行き詰まったりすることもありますが、逃げずに通ることで、親神様、教祖がしっかりと受け止めてくださる。そう感じさせて頂いた出来事でした。 その後、教授に呼ばれ、「私は仏教徒なので、あなたの信仰する宗教に入信することは出来ませんが、友人を一人紹介します」と、チュラロンコンという国立大学で勤めている方を紹介してくれました。 この方は後に、大変熱心に信仰され、今ではタイ語の翻訳者として、天理教の教えをタイに広める上で欠かせない人材となっています。教授の父親のおたすけをきっかけに神様が導いて下さった、とても大切な存在です。 だけど有難い「露見しなければ」 ここ数年、建物の耐震強度や食品の消費期限を偽装しては、バレてお詫びをするといったニュースが増えています。誰も相手にしないような会社が嘘をつくことは昔もありましたが、いまは有名な大企業までもが消費者を騙すようになってきました。 考えてみれば、昔は特に信仰していなくても「お天道様が見ておられる。だから悪いことをしてはだめだよ」と言われて育ち、誰も見ていないところでも、すべてを見通している存在があるということを、皆がなんとなく知っていたのです。 最近では、太陽が人間を観察しているわけではないことを誰でも知っているので、バレなかったらいいと思っているのです。しかし実際には、すべて露見するのです。なぜなら、親神様が見ておられるからです。   月日にはどんなところにいるものも  むねのうちをばしかとみている  (十三 98) と「おふでさき」にあります。結局、隠し通せるものではないのです。 これは何も商売だけの話ではありません。たとえば、大リーガーのバリー・ボンズ選手が、大記録まであと少しというときに、ステロイドを使用していたことが発覚して波紋を投げかけました。ステロイドには疲れを取ったり、筋肉を増強したりするなどの効果がありますが、副作用としてガンや心臓病、肝機能障害を引き起こしたり、生殖機能を喪失させたりする非常に危険な薬物です。 しかし、こうした薬物を使用してでも良い記録を残したいという選手がたくさんいます。自分の体だから多少傷んでも自己責任だと言って、あまり厳しい規制はなかったのです。 オリンピックは、薬物の規制が厳しいことで知られています。健康上の問題、倫理上の問題、スポーツの公平さを保つという観点で、ドーピング検査を以前から行っています。それでも競技者とオリンピック協会は、常にイタチごっこです。新しい規則を作ると、それを破る人が出てくるのです。ステロイドにしても、検出可能な検査法が開発されたので分かるようになったのです。 そうすると次に、それでは検出されない男性ホルモンが使用されるようになります。さらに研究が進んで、それも分かるようになると、また新たな薬を開発する。こんなことを繰り返しているのです。 かつて、アメリカのあるスポーツ誌が、トップ選手を対象にアンケート調査を行いました。内容は、「オリンピックで金メダルを獲れるなら、五年以内に死ぬと分かっていても薬を使うか」というものでした。これに対して、五二パーセントの選手がイエスと答えたということです。 アメリカでは、ステロイドを使用したことのある高校生が百万人を超えたという報告が出ています。日本でもインターネットを通じて簡単に手に入るため、使用する人がかなりいるそうです。スポーツで好成績を残したい人だけでなく、筋肉質の体に憧れて、サプリメントとして使う人が増えているのです。 一番の問題は、「バレなければよい」「自分の体なのだから、他人にとやかく言われる筋合いはない」という考え方です。 私たちは、親神様が見ておられることを知っています。自分がしたことの結果は必ず出るのです。親神様は、その人の心づかいにふさわしい結果をお見せくださいます。 また、「自分の体だから」というのは間違いで、人間からすれば、体は神様からの借りもの、心だけが自分のものなのです。その心一つで、どんな結果も現れてくるのです。素晴らしいご守護を頂ける人生も、どん底に落ち込んでいくような人生も、すべては自分の心次第。人の目がどうこうではないのです。 私たちは、親神様のご存在とご守護を知っています。そして、親神様に受け取っていただく道を教えていただいているのです。どんなことからでも、親神様に喜んでいただける道を歩ませていただきましょう。 (終)
徳を育む
27-12-2024
徳を育む
徳を育む                    兵庫県在住  旭 和世  小さい頃、買い物について行って、「お母さんこれ欲しい!」とおねだりすると、母は決まって「そう、これ欲しいの。だけどね、徳まけしちゃうから、また今度にしようね」と言いました。 「ダメよ」とか「我慢しなさい」ではなく、いつも「徳まけ」という言葉が出てきました。幼い私には、「徳まけ」という言葉がどんな意味なのか分かりませんでしたが、「何でも好き放題にすることは良くないんだな、わがまま言ったらダメなんだな」と、何となく感じていました。  なぜそのように母が言っていたのかを理解できたのは、大人になってからのことです。ある時母から、私たちがまだ小さい頃、「子供たちには一切おもちゃを買い与えません」と、神様に心定めをしていたことを聞かされました。 「小さい時に徳を使い果たすと、将来運命が行き詰ってしまう。分からないうちは、親が子供の徳積みをさせてもらわないと!」母はそんな思いで、私たちを育ててくれたそうです。 当時、お友達のいえに行くと、かわいい着せ替え人形やぬいぐるみ、流行りのキャラクターグッズなど、うちにはない色んなおもちゃがあって、とても魅力的でした。それでも、「どうして私は買ってもらえないの?みんなはいいな」などと思ったり、卑屈になったりしたことはありませんでした。母の信念を、子供なりに感じ取っていたからだと思うのです。  また母は、信者さんが普段食べることの出来ない珍しい物を持ってきて下さった時も、神様にお供えし、そのお下がりを必ずいちばんに祖父母に食べてもらっていました。そうして、両親が祖父母をとても大切にしている姿を見て育ったので、おいしい物が目の前をスルーしていっても、うらやましがることもなく、いつも穏やかな気持ちでいることができました。 母は後に、親なら、美味しそうな物を子供たちに食べさせてあげたいと当然思うけれど、それを子供たちの今だけの喜びに終わらせるのではなく、幸せの種にしてあげられたらと思っていたのだと、聞かせてくれました。  天理教教祖・中山みき様のお言葉に、 「お屋敷に居る者は、よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、と思うたら、居られん屋敷やで。よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、とさえ思わなかったら、何不自由ない屋敷やで。これが、世界の長者屋敷やで」(教祖伝逸話篇78「長者屋敷」) とあります。  これは、当時のお屋敷に住んでいる人へ向けたお言葉ですが、今を生きる私にとっては、「欲の心、物への執着をなくせば、人は何にもとらわれることなく、何不自由ない幸せに満ちあふれた暮らしができる」という意味に受け取ることができます。それは、小さい頃から、執着の心やとらわれの心を手放すことの大切さを、両親から教えられてきたおかげだと思います。  自分自身の子育てでは、親がしてきてくれたように、我が子に徳を育むことの大切さを伝えられているのか、試行錯誤の日々ですが、この春こんな出来事がありました。 我が家は昨年、長男が天理高校に進学し、今年は長女が天理高校に入学しました。その長女の入学の準備をしていた時でした。 制服や体操服はお下がりを頂けることに決まっていたのですが、カバンだけがなく、買わないといけない状態でした。そんな折、長男から電話があり、「妹のカバンは買わなくていい」と言うのです。「どうして?」と聞くと、驚きの答えが返ってきました。 「去年ボクが高校入った時、お下がりのカバンは嫌だって言って、新しいの買ってもらったやん?」 「ああ、確かにそうやったね」 「だけど、そのあと後悔してな…。物は大切にせなあかんなあと思って、新品使わずに、お下がりのを使ってるねん。だから、新品のカバン、そのまま使わせてあげて!」 「え?そうなん?でも、お下がりのカバン結構傷んでたんちゃう?」 「いいねん、破れるまで使うわ」 まさか、そんなこととは知らず、驚くとともに、とても嬉しく思いました。きっと、学校で、お下がりのカバンを使ったり、物を大切にしているお友達に出会い、教祖のお言葉のように物への執着を手放すことが出来たのではないでしょうか。おぢばでお育て頂いていることを本当にありがたく思いました。  「徳のある人は、巡り合わせがいい」と聞いたことがあります。 巡り合わせには、人の巡り合わせや、時の巡り合わせ、また物の巡り合わせなど色々ありますが、どれも自分ではどうすることも出来ない、神様のお働きだと思うのです。 たとえば、自分で選んで入った学校でも、先生やクラスメイトは選ぶことができません。自分が希望する会社に就職できても、上司や同僚までは選べません。そのような巡り合わせこそ、徳次第だと聞かせてもらいます。ある先生は、徳を育む方法として、三つのことを教えて下さいました。  一つ目は、おつとめで感謝を申し上げ、世界のたすかりを願うこと。 二つ目は、ひのきしんを実行し、自分の時間や身体をお供えすること。 三つ目は、親孝行をして、親や目上の人に喜んでいただくこと。 私はその三つを聞いて、なるほど、徳を育む行いとは、親神様・教祖にお喜び頂ける行いを着実に実行することなのだなと思いました。  それ以来、子供たちにも徳を育むことについて事あるごとに伝えてきたつもりですが、どれだけ理解してくれているかは分かりません。 それでも、子供たちが将来大人になった時に、聞いていて良かったと思ってもらえるよう、まずは自分自身が実行し、子供たちや教会につながる皆さんと共に、「徳」を育んでいきたいと思います。 家族と信仰 天理教では、親から子、子から孫へと代々信仰を伝えていくことの大切さを教えられています。神様は次のようなお言葉で、親と子の関係性についてご教示くださいます。 「人間という、ただ一代切りと思たら、頼り無い。人間一代切りとは必ず思うな。そこで一つ理がある。皆生まれ更わり、出更わりという理聞き分け。親が子となり子が親となり、どんな事もほんになあ、よく似いたるか/\」(M34・9・23) 親と子は生まれ替わりを繰り返す中で、恩の返し合いをする関係としてつながっているのだと教えられます。 教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、こんな逸話が残されています。 明治十年夏、当時九歳の矢追楢蔵さんは、川遊びをしているときに、男性器を蛭にかまれました。二、三日経つと大きくはれてきて、場所が場所だけに両親も心配して、医者にかかり加持祈祷もするなど、色々と手を尽くしましたが、一向に回復の兆しが見えません。 その頃、近所に教祖の教えを知る者があり、元来信心家であった楢蔵さんの祖母のことさんが、勧められて信仰を始めました。ところが、父親の惣五郎さんは、信心する者を笑っていたくらいで、まったく相手にしようとしません。 すると、ことさんは息子の惣五郎さんに対して、「わたしの還暦祝をやめるか、信心するか。どちらかにしてもらいたい」とまで言いました。当時の還暦祝いといえば、近所や親戚中に披露しなければならない大切な行事で、戸主の責任に関わることです。惣五郎さんはその覚悟の上に兜を脱ぎ、ようやく信心するようになりました。 そこで、ことさんが楢蔵さんを連れて教祖にお目にかかったところ、教祖から、 「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで」 とのお言葉がありました。 それからも、ことさんと母親のなかさんが三日ごとに交替で、楢蔵さんを連れてお屋敷へお参りしたのですが、なかなかご守護を頂くことができません。 そんなある日、ことさんは信心の先輩に、「『男の子は、父親付きで』と、お聞かせ下さる。一度、惣五郎さんが連れて詣りなされ」と諭されます。家へ戻ったことさんは、さっそく惣五郎さんにこのことを話し、「ぜひお詣りしておくれ」と頼みます。 そこでようやく惣五郎さんは、楢蔵さんを連れて初めておぢばへ帰りました。するとどうでしょう、三日目の朝には、楢蔵さんはすっきりご守護を頂いたのです。(教祖伝逸話篇 57「男の子は、父親付きで」) 教祖は、「家のしん、しんのところに悩み」とのお言葉で、家族を支える中心として、父親の惣五郎さんに心の入れ替えを促しておられます。息子の楢蔵さんの怪我を通して、信心に励み、父親と息子が、さらには家族一同が深く絆を結ぶようにと、お諭しくだされたのです。 (終)
神様はある?
20-12-2024
神様はある?
神様はある?  岐阜県在住  伊藤 教江 「神様なんて絶対にない!お母さんなんて大嫌い!」 当時、高校生だったA子さんは、目に見えない神様は勿論、自分を育ててくれた母親の真心さえも信じられず、問題を起こす度に、母親を怒鳴りつけました。 その後も、A子さんは幾つもの問題を重ね、暴力団事務所に出入りするようになり、ついには家を飛び出してしまいました。その後、A子さんは暴力団の組長と一緒に暮らし始めていたことがわかりました。 それを知ったご両親はどれほど心配をしたことでしょう。早く帰って来て欲しいと連絡をしても、A子さんは会うことを拒否し続けました。そして月日は流れ、いつの間にかA子さんには二人の子供が授かっていました。 いよいよ困り果てたA子さんのご両親は、教会に相談に来られたのでした。さめざめと泣きながら話をするA子さんの母親の姿に、私も同じ娘を持つ親として、もし我が娘が同じような状況に置かれたら…と想像すると、母親の気持ちが、痛いほど伝わってきました。 その日以来、ご両親は娘に帰って来てもらいたい一心で、教会に参拝し、親神様にお願いする日々が続きました。その後、何度も連絡を重ね、私は、やっとA子さんに会えることになりました。 A子さんは、マンション最上階をすべて借りきった暴力団事務所で暮らしていました。私は、そのマンションの駐車場に車をとめ、一人でエレベーターに乗り込みました。 「今から、見たことのない未知の場所へと飛び込んで行くけれど、A子さんは見知らぬ私と会ってくれるのだろうか…?この先、私は一体どうなってしまうのだろう…?」そのうちにエレベーターは最上階に着き、そのドアが開いた瞬間! … 私は、目の前に現れた三匹のドーベルマンに激しく吠えられ、それを聞きつけた大勢の組員に取り囲まれてしまいました。 そこには、映画やドラマでしか見たことのない世界が広がっていました。この光景を目の当たりにした時、私はエレベーターのドアを早く閉めて、すぐに逃げ出したいと思いました。 しかし…その思いとは裏腹に、私の足は前へ前へと勝手に進んでいました。きっと教祖が、私の背中を優しく押して下さったのでしょう。教祖の「救けてやっておくれ…」とのお声が聞こえて来るようでした。 そして、誰とどんな言葉を交わしたのか…記憶がないまま、一番奥の部屋に通され、A子さんと初めて対面したのでした。私はA子さんに「ご両親がどれほど心配し、神様に願い続けていることか…」と話しましたが、「神様や親のことなど眼中にない」と言わんばかりの態度で、目も合わせず全く話にならない状態でした。 そんな中、A子さんのご両親は、毎月おぢばへ帰り、神様のお話を聞く別席を運び続けました。そして早朝から教会に足を運び、ひのきしんをし、おつとめに娘の無事を祈り続ける日々が流れていきました。 すると、A子さんはある日を境に「夫と縁を切り実家に帰りたい」と言うようになりました。ご両親は大変喜びました。しかし喜ぶのも束の間、そう簡単には縁を切らせてもらえない世界であります。親神様にたすけて頂く以外に道はありません。 教会長である主人は、何とかA子さんに救かってもらいたいと、長い年月をかけて、この場では語りつくせない程の真実の限りを尽くしました。その姿を親神様はお受け取り下さったのでしょう、やっとの思いで、A子さんは三歳と二歳の子供を連れて実家に戻ってくる事が出来ました。 早速、私達夫婦はA子さんと三歳の娘さんを連れ、おぢばに帰り別席を運ぶことにしました。その別席の帰りの車中で、私がA子さんに「今日は一日中、下の子をお世話してくれたお母さんにお礼を言いましょうね」と声をかけると「なぜお母さんにお礼を言わなきゃいけないの?」と、そっぽを向きました。 その時です。突然三歳の娘さんが、ぜんそくの発作で苦しみ出したのです。すぐに私はおさづけの取り次ぎをさせて頂こうと「何もわからないだろうけど、手を合わせて親神様、教祖と唱え続けて下さいね」とA子さんに声をかけました。 A子さんにとっては、生まれて初めて見るおさづけに「何?それ… 」と薄ら笑いを浮かべながら手を合わせていましたが、「神様なんて本当にあるの?」とのA子さんの心の声が聞こえてくるようでした。 その後もA子さんは毎月一度、別席を運び続けましたが、その帰りの車中で、必ず三歳の娘さんはぜんそくの発作を起こし、その度におさづけの取り次ぎをさせて頂きました。 そんなある日、A子さんが神様にお礼がしたいと初めて自ら教会に参拝に来たのです。そしてA子さんは、「実は、この娘は生まれてこの方、毎晩のようにぜんそくの発作があり、薬も効かず、夜も眠れずにいました。しかし、別席の帰りにおさづけを受けたその夜だけは、何故か発作が起きなかったんです。でもまた次の日からぜんそくが続き、またひと月経って別席の帰りにおさづけを受けると、その夜だけ発作が起きないんです」と 、その不思議な出来事が続いたと聞かせてくれました。 「神様なんて絶対ない」と言い続けていたA子さんが「えっ? 神様ってあるの…? 神様はあるかも… 神様はある!」と、おさづけの度に娘がご守護を頂いていく姿から、親神様の姿を心で感じ取って行ったのでした。 教祖ご在世当時、ある人の「神様はありますか?」との問いかけに、教祖は「在るといへばある、ないといへばない。ねがふこゝろの誠から、見えるりやくが神の姿やで」と仰せられました。 私達は目に見えない神様をつかむのは、確かに難しいことかも知れません。「神様はあるか?ないか?」 と頭の中でいくら考えても、答えは出て来ないのかも知れません。だからこそ、わからない中でも、親神様に向かって願わせて頂くことの大切さを感じます。 そのためには、我が心のほこりを払い、おつとめやおさづけに心を込める、また日々に親神様のあふれるご守護を味わい、教祖のお言葉を一つ聞いて一つ実行していく。そうすることで、教祖が仰せられる通りの不思議な御守護の姿をお見せ頂けるのだと思います。 鉋屑の紐 一般に鉋屑とは、材木などを鉋で削ったときに出てくる屑のことで、文字通り、捨てられて燃やされる廃棄物と考えられています。 教祖の逸話篇の中に、「鉋屑の紐」というお話があります。 明治十六年のこと、梶本ひささんは夜ごと、教祖から裁縫を教えて頂いていました。ある夜、一寸角ほどの小さな布の切れ端を縫い合わせて袋を作ることを教えて頂き、それが何とか出来上がったのですが、さて、袋に通す紐がありません。 「どうしようか」と思っていると、教祖が「おひさや、あの鉋屑を取っておいで」と仰せられたので、それを拾ってくると、教祖はさっそく器用に三つ組の紐に編んで、袋の口に通して下さいました。 教祖は、このような巾着を持って、親戚の梶本の家へちょいちょいお越しになりました。その度に、家の子にも近所の子にも、お菓子を袋に入れて持って来て下さいました。 教祖は、捨てられる運命にあった鉋屑や布の切れ端を、使い勝手のいい紐や袋に仕立て上げ、見事に再利用されたのです。「もの」の存在価値と、それらを使い切ることの大切さを、何気ない日常の中でお示し下されています。 また、このような逸話もあります。警察や監獄署に十数度拘留された教祖ですが、そのうち数回は、仲田儀三郎さんがお伴をされました。 教祖は拘留中のある時、差し入れられて不要になった紙でコヨリを作り、それで一升瓶を入れる網袋をお作りになりました。それは実に丈夫に作られた袋で、教祖は、監獄署からお帰りの際、それを儀三郎さんにお与えになり、次のように仰せられました。 「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで。さあ、家の宝にしときなされ」。(教祖殿逸話篇138「物は大切に」) この二つの逸話で示されている「ものを大切に生かして使う」ことは、私たちが日常でお手本とするべき、実に尊い「ひながた」です。教祖の「すべてが、神様からのお与えものやで」とのお言葉が、心に深く刻み込まれます。 (終)
お産のふりかえり
13-12-2024
お産のふりかえり
お産のふりかえり 静岡県在住  末吉 喜恵 子育て支援の活動をしている中で、保護者同士の交流の時間をとることが多く、色んなテーマでお話をしてもらうのですが、その中の一つに「お産のふりかえり」というものがあります。 お産には、人それぞれ顔が違うのと同じように、それぞれにドラマがあって、同じ母親であっても一人目と二人目では全く違ったりします。願い通りのお産にならないことも多く、それを受け入れられずに苦しんでいる人もいます。ただ、母親となり、初めて我が子と対面した時の喜びは誰しも忘れないもので、いずれはどんなお産であっても受け入れることが出来るのではないかと思います。 私のお産についてお話をします。第一子は、妊娠中に病気が見つかったこともあり総合病院で産みました。妊娠後、卵巣に腫瘍が発見され、5ヶ月の時に卵巣を一つ摘出。がんの疑いもありましたが、「ボーダーライン」、いわゆる良性でもなく悪性でもないという結果で、私の命も子供の命もギリギリセーフでたすかりました。 予定日の5日前に少しだけ破水してしまい、そのまま入院。でも、なかなか陣痛が起きません。破水していてあまり長くは持たせられないので、陣痛促進剤をまるまる二日間も投与し続けました。二晩ほぼ一睡もできない中、三日目にようやく自然の陣痛が起き、そのままお産になりました。 先生方があの手この手の医療行為を用いて下さり、三日かかってようやく産まれてきてくれました。夫も三日間ずっと付き添い、背中をさすったりしてくれていたので、私と同じように体力を消耗していました。予想外のことばかりの出産でしたが、元気な赤ちゃんの姿を見たら、不思議なことにそれまでのしんどさはどこかへ消えました。 二度目は、長女が二歳を過ぎた頃に妊娠が分かりました。ウキウキしながら病院へ行ったのですが、先生が首を傾げて難しい顔をしています。「また病気が再発したのかしら?」と不安に思っていると、「双子ですよ」とのこと。家族中で驚きや楽しみ、不安など、色々な思いが湧きました。 お腹が大きくなるのはとても早く、妊娠6カ月の時に友人から「私の臨月の時みたい」と言われました。胎動ももちろん二人分で、お腹の動きで二人の性格の違いまで何となく分かるようでした。 有り難いことに、妊娠中は何のトラブルもなかったのですが、総合病院としての方針で、双子は帝王切開で産むと決められていました。「自然分娩で産ませてください」と最後まで粘って訴えたのですが、方針は変わらず、管理入院をしている時も、どの先生からも「帝王切開が安全です」と説得されました。 37週0日で予定通り手術を受け、二人の女の子を産みました。近所で床上浸水の被害が出るほどの物凄い雨の中、出てきたのは2380グラムと2450グラムの大きな赤ちゃん。「こんなに大きな子が二人も入ってたんだ!」と妊娠中の自分を褒めたい気持ちになり、無事に産まれてきてくれたことに心から感謝しました。すべて順調で、保育器に入ることも黄疸が出ることもなく、産後7日目で三人一緒に退院できました。 三回目のお産は、双子を産んでから一年七か月後に妊娠が分かりました。同じ総合病院で診てもらうと、「帝王切開の後は続いて帝王切開になります」ときっぱり言われ、やはり自然分娩で産みたいという気持ちが強く、近所の助産院に行きました。院長さんは、「第一子を自然分娩で産んでいるから大丈夫でしょう」と快く引き受けて下さいました。 ちょうどその頃、帝王切開の後に自然分娩で産んだ母親が、子宮が破裂して亡くなったと新聞やニュースで話題になりました。でも私は、人間本来の持っている力を信じ、親神様のご守護を信じました。 その日、朝から起きた陣痛は、弱くなったり強くなったりの繰り返し。もともと微弱陣痛の体質なので、やはり時間はかかります。お昼頃産院に行ったのですが、まだ子宮口が全く開いておらず一旦帰宅し、子供たちに夕飯を食べさせ、お風呂に入れて三人とも寝かしつけました。 夜になって痛みが出たので再び産院に行くと、まだ子宮口は3センチしか開いておらず、お産は朝になるだろうと言われ、夜中の12時過ぎに待機室へ。夫はその間ずっと付き添い、身体をさすったりおさづけを取り次いでくれたりしていました。 ところが、待機室に入るやすぐに破水!慌てて分娩室に行き、午前1時10分には生まれてきました。まさに、あっという間の出来事でした。「これだから経産婦は分からないのよね~」という助産師さんの言葉が印象的でした。私は、人間が本来持つ力と、神様のご守護の凄さに感激しました。 最後、四回目のお産です。早い時期からお腹の張りがあったので、今度は早めに生まれてくるかな?と思いきや、なかなか陣痛が来ません。そんな中、39週に入った日に強めの張りが来ました。いよいよかな?と思い、お産が早く進むように家中雑巾がけをしました。 そんなことができるのは、微弱陣痛だったからですが…。 お昼ぐらいから家の中のありとあらゆる所を掃除していると、午後4時頃にはなぜか陣痛が消えてしまいました。「あれ?今日は来ないのかな?」なんて思いながら、散歩がてら、双子のピアノ教室の送り迎えをし、夕飯を済ませ、お風呂に入り、子供たちも寝たところで、ようやく10分から12分間隔の陣痛が来ました。「夜中だと子供たちが立ち会えない。できるなら朝方に産みたいな」とぼんやり願っていると、夜中の2時頃、陣痛が7、8分間隔になり、産院に向かいました。 4時過ぎに破水が起き、自分で電話をして夫と子供たちを呼びました。お産に間に合うか心配でしたが、みんなすぐに来てくれて、私の手を握ったり、「頑張れ~」と言って応援してくれました。 出産は何度経験していても、痛いものは痛いので、「いた~い!」と大声で叫んでいましたが、4、5回いきんだら産まれてきました! この四回目のお産は、赤ちゃんのペースで産まれてきたんだなあ、ということが実感できました。子供たちと一緒に新しい命の誕生を迎えられたことが何より嬉しく、すぐにみんなで記念写真を撮りました。ちょうど子供たちの登校時間になり、みんな遅刻することなく学校へ行くことが出来たし、本当にいいお産をさせてもらえたと感謝しました。 お産とは、自分の力ではどうにもできない、神様のご守護を直接に体感させて頂けるものです。私の場合も毎回色々なドラマがあって、どれ一つとっても全く違う経験でした。 しかし、子供が大きくなるとその感動を忘れ、彼らに対する不満や不安も増していきます。産まれた瞬間の喜びをいつまでも忘れず、感謝の心で通らせて頂きたいと思います。 「みんな、生まれてきてくれて、ありがとう」 心の成人 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、   にち/\にすむしわかりしむねのうち  せゑぢんしたいみへてくるぞや (六 15) と記されています。 教祖は、何より私たち人間に「心の成人」を求めておられます。そして、人の心を水にたとえて、いかにして心を澄まし、成人するべきかを「おふでさき」によって教えられます。   これからハ水にたとゑてはなしする  すむとにごりでさとりとるなり  (三 7)   この水をはやくすまするもよふだて  すいのとすなにかけてすませよ (三 10)   このすいのどこにあるやとをもうなよ  むねとくちとがすなとすいのや (三 11) 濁り水を澄ますためには、砂と水嚢にかけてろ過をすることが必要です。教祖は、濁ってしまった心を澄ますために必要な道具は、どこにあると思うかと問われ、それは「胸」と「口」なのだと仰せられます。 胸は思案を重ね、悟りを得るための道具であり、口はその悟りを人に伝える道具です。自らの悟りを人に伝えるとはすなわち、おたすけの現場に身を置くことで、そうして人をたすける実践を積み重ねるうちに、心は次第に澄んでいくのです。 その意味で「せゑぢんしたいみへてくる」の成人とは、一般に宗教で言うところの「聖の人」、すなわち徳の高さや深い信仰を持つという意味での「聖人」と同じ意味にとれるかもしれません。 ただ、決定的に違うところがあります。普通、聖人になるためには、人里離れた場所で難行苦行を重ね、それによってある宗教的境地に到達することを目指します。しかし教祖は、人里離れた「山の仙人」ではなく、日常の中で教えを実践する「里の仙人」になることを促されました。 信仰実践の場は、あくまで普段の暮らしの中にあります。神様からの「かりもの」である胸と口とを縦横に使って、心の成人を遂げたいものです。 (終)
彼女に足らなかったもの
06-12-2024
彼女に足らなかったもの
彼女に足らなかったもの 大阪府在住  山本 達則 家庭内での感情のぶつかり合いは、古今東西、当たり前にあることです。人間同士の関係が近ければ近いほど、尾を引くことも多いと思います。他人であれば、付き合いをやめるとか、距離を置くとか、日常に支障がない程度に対処できるかも知れませんが、関係が近ければそういう訳にはいきません。時には、悲しい思いや、怒り、悔しさなどで感情のコントロールが難しくなることもあるのではないでしょうか。 長年の母親による愛情を束縛と感じ、家出をしたAさんという女性がいました。音信不通の数年が過ぎた頃、Aさんは母親へ「SOS」の電話をかけました。「お母さん、たすけて」。母親は、「とにかく、どうにかして帰ってきなさい」と伝えました。 Aさんは良からぬ友達にだまされて、大きな借金を抱えてしまい、借金取りに追われていました。相談を受けた私は、その問題が解決するまで、Aさんに教会に住み込んでもらうことにしました。その間、母親と私はAさんの問題解決に奔走しました。母親は娘のために寝る間も惜しんで、あちらこちらと駆けずり回っていました。 一方のAさんは、教会で生活する中で、親が子供にかける「愛情」とはどんなものなのかを客観的に見る機会を得ることになりました。 当時、教会には私の子供が高校生を筆頭に四人と、里子が数人いました。私の妻が娘に「嫌ごと」を言う場面も当然ありました。娘は決まって不機嫌な態度をとります。また、私が父親として息子に「小言」を言う場面もありました。息子も当然、不機嫌な顔をします。 「早く帰ってきなさい」「宿題しなさい」「早く寝なさい」「冷たいものばかり飲んでいたらダメ!」「好き嫌いしないで何でも食べなさい!」 Aさん自身も母親に言われて経験したであろう光景が、そこにありました。 そんな彼女が一番に思ったのは、「わざわざ子供が嫌がることを言わなければいいのに」ということでした。しかし、そのような場面を繰り返し見ているうちに、Aさんはあることに気づきました。 いつもは親の小言に不機嫌な態度をとる子供たちが、「分かった」「ごめん」と、素直に反省することがあります。その時の私と妻の表情が、ものすごく嬉しそうに見えたというのです。 すると、その嬉しそうな親の姿を見て、子供たちの態度も少しずつ変わってきたと。今度は反対に、子供たちが親に褒められようと、進んでお手伝いをしたり、言われなくても宿題をしたり、進んで嫌いなものを食べたりする場面が多くなったと言います。 そんな様子に、私たち親の小言も減っていったと彼女は感じたようです。私自身、それほど意識していたわけではないのですが、それが私たち親子の様子を客観的に見ることが出来たAさんの実感でした。 そしてAさんは、自分には、親を喜ばせてあげようという気持ちがなかったことに気づいたのです。彼女も幼い頃は、親に褒めてもらいたいという思いで、子供らしい素直な行動をとったこともあるでしょう。しかし、自我に目覚めてからは、親に反抗することしか出来ずに、その結果、家を出るという選択をしてしまったのです。 彼女は教会に来てしばらくして、私に尋ねてきました。 「私は何が間違っていましたか?」 私は、彼女にこう答えました。 「間違っていたんじゃなくて、足らなかっただけだと思うよ」と。 「親に対して、年齢なりに不満は募ってくるものだよ。でも、親の立場になって考えたらどうだろう? わざわざ子供に嫌われたり、嫌がられたりしながらも、小言を言うのは何のため? それは間違いなく子供のためだよね。それを想像する余裕が、少し足らなかったんじゃないかな。 それともう一つ、ここには里子がいるでしょ。この子たちは、親と一緒に生活したくても出来ない子たちなんだ。嫌ごとや小言を言って、心配してくれる親が側にいることも、当たり前ではないよ。親がいてくれることを、もっと喜ばないとね」 私は精いっぱい、彼女に気持ちを伝えました。彼女はそれから間もなく、初めて母親の誕生日にケーキを買って実家に戻りました。 天理教では、神様と人間との関係は、親と子の関係であると教えて頂きます。神様は、私たち子供のことを思えばこそ、日常、様々な事情を見せて下さいます。それは、その人にとって不都合なことであったり、腹立たしいことであったり、悲しいことであったり。 しかし、そのような出来事の中に、神様の大いなる親心を見出すことができれば、それらはすべて「有難いこと」であると、喜んで受け取ることができるのです。 だけど有難い「心の栄養」 最近、大学時代の友人と三十年ぶりに再会しました。高校の校長を五年務め、あと二年で定年退職とのことでした。 「定年退職したらどうするんや」 「悠々自適の生活や。あんたは、いつまでやってるんや」 そう聞き返されたので、「私はまだ若手やで」と答えました。 私は教会長として、そんなに年齢が上のほうではありません。しかし考えてみると、私くらいの歳になって、若手だなどと言っているのは、落語家と天理教の教会長くらいかもしれません。 ある落語家が、こんな話をしていました。 「落語家は定年がないんです。ですから、何十歳になったってできる。だからといって、歳を取らないわけじゃない。目はかすんでくるし、膝が痛くなるし、老化現象は確実にやって来る。最近では、高座で十分しゃべったら、七、八時間寝ないと疲れが取れないんです。それを見かねて、新橋に住んでいる医者の友人が、『これを飲みなさい』と薬をくれました。骨が強くなる薬だというので、素直に一日一錠飲んでいた。しかし、この歳になって飲み始めて、効果が出るのはいつかと考えると、おそらく骨揚げのときです。焼き場で『丈夫な骨だねえ』と褒められてもしょうがないと思って諦めた」 お年寄りには、薬をたくさん飲む人が多いですね。薬だけではなく、サプリメントと呼ばれる栄養補助食品をさらに摂ったりもする。鞄が薬でいっぱいという人もいます。 体はそうやって薬で補っていますが、心はどうでしょう。心の栄養は、いったいどんなサプリメントを摂っているのでしょうか。私は、心にも栄養が必要だと思うのです。そして、心の栄養補給には、教会へ足を運ぶことが一番だと思います。なぜかと言えば、教会ではどんなに歳を取った人も、自分が何かをしてもらう話ではなく、させていただく話を聞くからです。お世話になる話じゃない。お世話をする話なのです。だから教会長も信者さんも、信仰する人は、みな若いのだと思います。 信仰に定年はありません。おつとめも、ひのきしんも、にをいがけも、おたすけも、何歳までという年齢制限はないのです。しかも実行したら実行しただけ、神様からご守護を頂くので、ますます元気になるのです。有難いですね。 私は、その同級生から「もうすぐ定年で悠々自適」と聞いたとき、「羨ましいな」と返事をしました。でも、本当は羨ましくないのです。定年がないほうが、どれほど素晴らしいか。やることがない人生ほど、つまらないものはありません。お道は出直すまで成人できます。共々に、いつまでも青春で、元気で教えを学ぶ者、道を求める者として歩ませていただきましょう。 (終)
あなたはどんなジュースが好きですか?
29-11-2024
あなたはどんなジュースが好きですか?
あなたはどんなジュースが好きですか? 埼玉県在住  関根 健一 先日友人と、ある映画の話題になりました。その映画は、無肥料無農薬の自然栽培で野菜を作っている隣町の農園を題材にしたドキュメンタリー映画でした。 その農園では従業員やパートスタッフに混じって、「研修生」と呼ばれる人たちが作業を手伝っています。近頃、自然栽培という言葉を耳にすることも増えてきましたが、まだ日本の野菜の流通量の0.1%にも満たないそうで、この新しい農法を学びに、全国各地からたくさんの人が研修生としてやってくるのです。 その中には、農家になるのが目的ではなく、仕事漬けの人生に疲れてしまい、「土に触れながら自分の人生を見つめ直したい」との理由で研修を受けに来る人もいて、そこで働く人の姿は実に多様です。その参加者たちに寄り添いながら、自らも一緒に成長していく農園経営者の姿に心を打たれた映画監督から、ドキュメンタリー映画を撮りたいと声があがったのです。 実は、この映画には私と長女も出演しています。というのも、映画の題材となった農園の経営者Aさんは、私の長女が通う特別支援学校の「現場実習」の受け入れをお願いした方で、その時にちょうど映画の撮影が入っていたのです。特別支援学校の現場実習とは、障害のある生徒たちが、職場や福祉作業所での体験を通じて、本人の適性や相性などを見極めることを目的にした制度です。障害の種類や程度にもよりますが、長女が通う学校では、高等部に上がると一つの現場に一週間ほど通って実習を行います。 一般企業への就労を目指す生徒は、受け入れてくれそうな企業に実習を受けに行くのですが、長女のように生活のほとんどの場面で介助が必要になる生徒は就労が難しいため、卒業後には生活介護事業所と呼ばれる福祉サービスに通うことが多いのです。そうしたサービスを提供する場所は地域でも限られているので、現場実習は多くの場合、卒業後に通う福祉施設の「お試し」のようになってしまいます。 しかし、在学中、5回に分けて延べ10カ所で行う現場実習のすべてを「卒業後に通えそうな施設」だけで考えるのは、可能性を狭めているようで、とてももったいないことではないかと感じていました。 そう感じるようになったきっかけは、まだ長女が小学校低学年の頃にさかのぼります。情報通信技術を使った障害児支援について研究されている、ある大学教授の講演を聴いた時のことでした。 その先生は、聴講に来ていた我々、障害のある子の保護者に向かってこう問いかけました。 「お子さんに、オレンジジュースとリンゴジュースどっちがいい?と聞いて、リンゴジュースと答えたら、この子はリンゴジュースが好きな子なんだ、と思っていませんか?」と。 多くの保護者がうなずく中で、先生はこう続けました。 「その子は、ぶどうジュースを飲んだ経験がありますか? グレープフルーツジュースを飲んだ経験がありますか? 障害のある子の選択肢は、支援する人が提示した物の中に限られてしまうことがほとんどです。失敗も含めて、自ら選び経験する場を与えてあげること。その子が本当に好きなものに出会えるかどうかは、支援者によるところが大きいのです」と。 これを聞いて、ハッとしました。それ以来、私たち夫婦は、長女の現在の「できる、できない」を基準にするのではなく、長女の「やりたい」ことを基準に考え、「できた、できなかった」という体験に触れさせることで、自ら選択し、決定する力をつけてあげられるように心がけてきました。 話は戻って、長女が高等部に上がり、現場実習のあり方に私が疑問を感じ始めていた時のことです。 Aさんの農園で障害のある子供たちの農業体験の企画があり、そこでアドバイスをして欲しいと依頼され、参加しました。その時、障害児の親御さんたちの細かな要望に対して、まずは「できること」を前提に前向きに話すAさんの姿を見ていて、「この農園なら現場実習をお願いできるんじゃないか」と直感しました。そこで、「娘の現場実習を受け入れてくれませんか?」とお願いしてみたところ、Aさんはその場で快諾してくださいました。 その後は、Aさんの農園で受け入れの承諾をいただいたことを学校に相談し、進路担当の先生や担任の先生を交えて、現場を見ながら打ち合わせという流れになります。 校長先生から「保護者が実習先を見つけてくるなんて、珍しいことなんですよ」とビックリされましたが、進路担当の先生は常に実習の受け入れ先の企業探しに奔走しているので、学校としてはとてもたすかると喜んでくださいました。 長女は車椅子に乗っているので、もちろん一人で畑作業などはできませんし、介助をするに当たっても、農場や作業場にはバリアフリーの環境などほとんどありません。話し合ってみると課題はたくさんありましたが、Aさんはじめ農園のスタッフ全員が、「どうやったらできるのか?」を徹底的に考え、準備を整えてくださいました。 さらに、Aさんは実習が始まってからも「悠里ちゃんはどうしたい?」「次は何をやってみたい?」と常に長女の希望に寄り添い、それが実現できるように最大限の工夫をしてくださいました。 実習に入って数日経ったある日のこと。農園に着くなり長女が突然、「お芋掘りしたい」と言い出しました。するとAさんはすぐにスタッフと相談して、サツマイモ畑の状況を確認し、「じゃあ、これからお芋掘りに行こう!」と言って、ゴザを数枚持って畑に向かいました。 畑に着くと、もちろん車椅子では畑に入れないので、スタッフが途中まで掘って頭が見えてきたサツマイモの横にゴザを敷き、付き添いの先生が長女を抱きかかえるようにして座り、後ろから手を添えて長女に蔓を握らせ、一緒に引っ張りました。 するとサツマイモが芋づる式に…と、絵に描いたようにはいきませんでしたが、大きなサツマイモが〝ごろん〟と土の中から出てきました。その時の長女の嬉しそうな笑顔は、今でも忘れられません。 その日の実習が終わり、帰りの挨拶をした時、Aさんが「悠里ちゃん、自分で収穫した野菜をおうちの人に食べてもらうまでが実習だよ」と言って、その日収穫したサツマイモを長女に持たせてくださいました。  うちに帰ると、さっそく神様にお供えして、夕飯に家族みんなで食べました。家族が「おいしい」と言うたびに、「悠里がとったんだよ」と誇らしげに答える姿がとても微笑ましかったのを覚えています。 私の何気ない思いつきから始まり、ドキュメンタリー映画に記録されるというおまけもついた、農園での現場実習。今でもふと、私がAさんの名前を出すと、長女は「メガネのAさん?また会いたいなあ…」と言って嬉しそうな顔をします。彼女にとって、忘れることのできない貴重な体験だったのだと思います。 近年、AIの発達や社会状況の変化によって、「将来必要とされなくなる仕事とは」などと、メディアに取り上げられることがよくあります。しかし、仕事には生産性以外にも、「生きがい」という大事な役割があります。 生産性ばかりに目を向けていると、障害のある人の持つ秘めた力になかなか気づくことができません。彼らの可能性を発見するためにも、様々な選択肢を用意し、「できた」「できなかった」という体験を重ねることが必要です。 障害のある人たちの体験の場は、まだまだ少なく、受け入れてくださる企業も足りていないのが現状です。もしかすると、あなたの職場がその一端を担える場所になるかもしれません。これをきっかけに、そんな風に考えてくださる方が増えることを願っています。 心のあり方を整える 信仰生活とは、ただ眼に見える世界に生きるのではなく、眼に見えない世界とのつながりを意識しながら生きることだと言えます。たとえば、木を育てる場合でも、幹や枝の伸び具合、花の色合いを見ているだけでは、立派な木に育てることはできません。地中に深く張っている、かくれた根の部分に十分心を配る必要があります。 私たちの生活についても同じことが言えます。ともすれば私たちは、形あるものの様々な変化の中だけで物ごとを判断し、行動することに終始してしまいがちです。 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、次のように記されています。   月日にハどのよな心いるものも  このたびしかとわけてみせるで (十一 6)   どのよふな心もしかとみているで  月日このたびみなわけるでな (十一 7)   口さきのついしよばかりハいらんもの  心のまこと月日みている (十一 8) 見抜き見通しの月日親神は、たとえ人間がどのような心遣いをしようとも、すべてを余すところなく見分け、その是非善悪を明らかにする。ゆえに、ただ口先だけで追従を言ったりするようなことは断じていらない。親神はすべての者の心の誠を、しっかりと見ているのである。 隠れている世界に眼を凝らし、弛むことなく親神様の思召しを求めていく。そのような生き方を、私たち人間にきっぱりと求められているお歌です。 私たちが成すべきは、目に見える形を整えるよりも、まずは心のあり方を整えることです。その意味では、口でお世辞を言いながら、心の中で舌を出すような「口先の追従」などは、最も慎むべきことと言えるでしょう。 (終)
こども食堂×補導委託
22-11-2024
こども食堂×補導委託
こども食堂×補導委託               千葉県在住  中臺 眞治 3年ほど前、妻から「こども食堂をやってみたい」と相談がありました。「近所に親しい人がいない」という地域の方々の不安の声を耳にすることが増え、安心できる顔なじみの関係づくりが必要ではないか、というのがその理由でした。 ちょうどその頃、教会では働きに出ることが困難な方が数人一緒に暮らしていて、そうした方々の活躍の場にもなるのではという期待もあり、始めることにしました。色々と不安な点もありましたが、同じ地域に以前からこども食堂を実施している教会があり、そちらのご夫婦に諸々のアドバイスを頂きながら、令和4年3月に第一回を開催することができました。 こども食堂を始めて3カ月が経った頃、地域の自治会から質問状が届きました。「なぜこども食堂を始めたのか?」「宗教の勧誘は行うのか?」などなど、そこには地域の方々の不安がつづられていました。 「地域に親しい人がいるという安心をみんなでつくる」をコンセプトに始めたこども食堂でしたが、地域に溶け込めていないのは私ども教会の側だったのだと、あらためて気づかされた出来事でした。 しかし、それらの質問にお答えしたところ、自治会長さんがいたく感激され、自ら宣伝役を買って出て下さったばかりでなく、宗教施設でこども食堂をすることに反対の声が上がると、自ら説得に赴いて下さいました。そうした協力のおかげもあり、現在では毎回50世帯ほどの親子連れや一人暮らしの高齢者などが利用されるようになりました。 こども食堂は、お手伝いをして下さる方やお米や野菜を寄付して下さる方など、様々な方の協力なくしては開催することができません。しかし、そういう活動であるからこそ、多くの皆さんとたすけ合いの輪が広がっていることを実感できるのです。 そのこども食堂に、時々、補導委託の少年たちがボランティアスタッフとして参加してくれることがあります。補導委託とは、非行のあった少年を家庭裁判所からの委託で預かり、更生のお手伝いをする活動です。 ある日、家庭裁判所から一本の電話が掛かってきました。ある少年を3日間教会で預かり、こども食堂のお手伝いをさせてあげてほしいとの依頼でした。ただ、職員さんが付け加えて言うには、「少年は非行を繰り返しており、いつも不貞腐れていて、裁判官にも盾突くような子です。それでも預かっていただけるでしょうか?」とのこと。 私は「もちろん大丈夫ですよ」と伝えてその日を待ちました。 約束の日になり、A君はやってきました。A君は最初こそ緊張した面持ちでしたが、聞いていた話とは違って、とても素直な少年でした。掃除や買い出し、お弁当の詰め込みなども一生懸命手伝ってくれて、教会で暮らしている方々とも、他愛のない会話をしながら楽しそうに過ごしていました。 こども食堂当日を迎え、私が「今日のテーマは、とにかく来た人を喜ばすということだよ」と伝えると、その意を汲んで懸命に努めてくれました。そして予定の3日間が過ぎ、みんなから「ありがとう。お疲れさま。また来てね」と見送られながら、自宅へと帰っていきました。 その翌日、家庭裁判所から電話がありました。「実は昨晩、A君から『この度は、大変貴重な経験をさせて頂きありがとうございました』と、裁判所にお礼の電話が掛かってきたのです。そんなことを言う子だとは思いませんでしたし、言葉遣いまですっかり変わっていました。中臺さん、一体何をしたのですか?」 そう聞かれても、私は特別何かをした覚えがないので、返事に困ってしまいました。 その後、半年ほど経った頃に、その職員さんにお会いする機会がありました。私がA君のことを尋ねると、職員さんはA君が書いた補導委託についての感想文のことを話して下さいました。そこには、こうつづられていたそうです。 「自分は友達と比べながら、なんて恵まれない家庭なのだろうかと思い、不貞腐れて生きてきた。でも教会に行ったら、自分よりもっと恵まれない家庭の人たちがいた。では、その人たちは不貞腐れていたのかと言えばそんなことはなく、みんなでたすけ合って笑って生きていた。その姿を見たら、不貞腐れている場合ではないなと思った」 職員さんはA君の近況について、「あれから真面目に学校に行くようになり、部活動も頑張ってますよ」と教えて下さり、こちらも嬉しく満たされた気持ちになりました。 天理教の原典「おふでさき」では、   このさきハせかいぢううハ一れつに  よろづたがいにたすけするなら (十二93)   月日にもその心をばうけとりて  どんなたすけもするとをもゑよ (十二94) と記され、人と人がたすけ合うなら、その心を神様が受け取り、天のたすけを与えて下さるのだと教えられています。 人の心の向きを変えたり、運命を変えるということは私にはできませんが、A君自身の人とたすけ合おうとする心を神様が受け取られ、心の向きが変わる、運命が変わるという天のたすけが与えられたのではないかと感じています。 こども食堂には、A君のように補導委託の少年が度々やってきますが、みんな一生懸命お手伝いをしてくれます。そして終わった後は、「こんなに人から『ありがとう』と言われたのは初めてです」という子や、「楽しかったのでまた来たいです」という子など、こちらが嬉しくなる言葉をかけてくれます。 また、迎えに来た親御さんからも「うちの子の、こんな明るい表情初めて見ました。うちの子に必要だったのは、こういう経験だったんですね」など、家では見せない我が子のたくましい姿を喜ぶ声が聞かれます。 これからも、たくさんの人が出会い、たすけ合いを実践できる場として、教会が地域の拠り所となれるよう、こうした活動を続けていきたいと考えているところです。 ぢば一つに 親にとって、我が子が自分より先に命を落とすことほど、辛く悲しいことはありません。特に「子供は三才までに親孝行のすべてをなす」と言われるほど、幼い子供はその存在自体が愛おしくてたまらないものです。 天理教教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、こんな逸話が残されています。 明治十九年六月、諸井国三郎さんの、四女の秀さんがわずか三才で出直しました。 余りに悲しかった国三郎さんは、おぢばへ帰って「何か違いの点があるかも知れませんから、知らして頂きたい」とお願いしたところ、教祖は、「さあ/\小児のところ、三才も一生、一生三才の心。ぢば一つに心を寄せよ。ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方へ根が張れば、一方流れても三方残る。二方流れてもニ方残る。太い芽が出るで」と、お言葉を下さいました。(『教祖伝逸話篇』187「ぢば一つに」) 国三郎さんは、数え年三才のお子さんを亡くしました。元気に歩き回り、片言でしゃべり始める頃です。まさに可愛い盛りのお子さんでした。 この時、国三郎さんは養蚕業の事業をやめ、人だすけ一本で通っており、生活は困窮を極めていました。懸命に神一条の道を通りながらも、なぜこんな目に遭わなければならないのか。そうして悲嘆にくれる中で「何か違いの点があるならば、どうかお諭し頂きたい」と、教祖にお願いしたのですから、厳しいお仕込みを覚悟していたでしょう。 ところが、教祖のお言葉は想像だにしないものでした。 「三才も一生、一生三才の心」 何という大らかなお言葉でしょうか。親神様によって与えられ、そして親神様によって引きとられた尊い命。わずか三才でこの世を去った短い命であっても、三才も一生。その人生にも立派な意味がある。そのようにお諭しくだされのです。 なぜこうなったのか、心得違い、通り方の間違いを振り返ったり、因果を考えるよりも大切なことがある。それは、ぢば一つに心を寄せる、すなわち「をや」一筋に思いを寄せること。そして、ふしにこもるをやの思いをどう悟るかによって、それが将来、太い芽を出すご守護につながると教えてくださいます。 国三郎さん夫妻は、このお言葉を頂いた十カ月後、無事に元気な女の子を授かりました。ろくと名付けられたこの女の子は、将来、この道の上に大いに力を尽くしました。 (終)
ゲームは宿題が終わってから!
15-11-2024
ゲームは宿題が終わってから!
ゲームは宿題が終わってから!  岡山県在住  山﨑 石根 私には子どもが5人いるのですが、この春、小6になった4番目の三男はいわゆる天然キャラで、「おとぼけちゃん」なんです。うっかりした失敗が日常茶飯事なので、しょっちゅう私たち家族に笑いを届けてくれます。また、その反対に怒られてしまうこともしばしばです。 今年の夏休みのことです。我が家には、「夏休みの宿題を全部終わらせたら、ゲームをしてよい」というルールがあります。少し厳しいようですが、2年前の8月末に、大量に残っている宿題に深夜まで付き合わされた妻が下した鬼のミッションなのです。 今年も皆、7月中に宿題を終わらせようと一生懸命頑張りました。特に小6の三男と小4の妹は、7月末に4日間、母方の祖父母の家に泊まりに行き、「この期間に全部終わらせる」と意気込んでいました。 ところが、祖父母の家から戻った時に事件は起こったのです。仕事から帰った私が、ゲームをしている三男を見て、「宿題終わったんか?」と尋ねると、「全部終わった」と言います。「じゃあ、見せてごらん」と言うと、「妹に確認してもらった」と言い、なかなか見せようとしません。ゲームに夢中だからです。 しかし、ここは退いてはダメな場面だと思い、きちんとチェックしようとすると、一つの宿題が見当たりません。それは「サマー32」という冊子で、国語・算数・理科・社会・英語のすべての教科を網羅したメインの宿題です。 「サマー32が無いやんか」 「だから、それも妹に確認してもらったってば」 押し問答は続きます。 祖父母の家に忘れていないか尋ねたり、あちこちの部屋を探したりしたのですが見つかりません。そこで私が彼の旅行かばんをのぞくと、ついに「サマー32」が現れました。ところがその冊子の中身は、何と7割ぐらいが白紙の状態だったのです。 「ほら、やってへんやないか!」 私も驚きましたが、あろうことか三男も目が点になっているのです。 「いいや、僕は絶対全部やった」 「でも、ここに出来てない宿題があるやんか」 「だから、全部やって、妹にも確認してもらったんだって」 「確認、確認言うても、目の前に終わってない宿題があるやないか」 「だから、おじいちゃんのうちで全部やったんだってば!」 再びの押し問答、もはや『世にも奇妙な物語』のようです。実際に目の前に出来ていない宿題があるのに、なぜそれを認めず、「やった」と言い張るのか…。 もやもやの晴れないまま迎えた夕食の席で、衝撃の事実が判明します。妹が、「お兄ちゃんがやってた宿題は、私の分で!」と打ち明けたのです。何と三男が仕上げた宿題は、小4の妹の「サマー32」だったのです。 椅子から転げ落ちそうなくらい皆でズッコケましたが、三男にしてみたら笑い事ではありません。うっかりもここまでくると、不注意以外の何ものでもないのです。 さらに、妻からとどめの一言が続きました。 「ほら~、やっぱり!」 実はこの「やっぱり」には、ものすごい重みがあるのです。 これは私たち夫婦のさんげ話にもなりますが、彼が小4の時の担任の先生から、三学期の終わりに次のようなことを言われました。 「息子さんは、一年間、宿題のドリルをほとんどしませんでしたよ」 本人の「宿題はもう終わった」というセリフを真に受け、忙しさを理由に確認を怠っていたのは私たちです。妻は彼が小5になってからも、「ドリルは一生ものだから、いつやっても遅いことはない。小4のドリル、今からでもやりねえ」と再三にわたって促していたのですが、彼は全くやらなかったのです。 その上での、妻からの一言。 「ほらね。やっぱり、小4の宿題を、こういう形ででもやらなあかんようになってたんやで。神様は見抜き見通しなんやから!」 この妻の的を射た一言に、三男は泣きっ面に蜂で、ぐうの音も出ませんでした。 『天理教教典』では、「善き事をすれば善き理が添うて現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる」と、厳然たる因果律の存在が述べられており、これを「いんねん」と教えて頂きます。 もちろん、天理教でいう「いんねん」は、世にいう因果応報とは違い、その奥に、神様が人間を陽気ぐらしへ導こうとされる親心があることを忘れてはなりません。このことを、亡き私の恩師は「神様からの宿題」という言葉で分かりやすく教えて下さいました。 自分や自分の周りに辛いことや苦しいこと、都合の悪いことが起こってくると、私たちはどうしても「何でこんな目に…」と後ろ向きな考えに陥ってしまいます。しかし、そこを「これは神様からの宿題なんだ」と考え直すことが出来れば、「宿題なら後回しにしてはならないし、必ずやり遂げられるからこそ与えてくださったのだ」と、立ち向かう勇気が湧いてきそうです。 神様は人間をお創り下された親ですから、親ならばこそ、この宿題を通して成長させたいという期待が込められているのかも知れません。私はこの「神様からの宿題」という言葉が好きで、常々よく用いていたので、今回の三男の宿題事件を「絶妙の親心だなあ」と感じました。 さて、三男は翌日、本来やるべき「サマー32」を、何と一日で完成させました。やったら出来る子なんです。 反対に、「私の宿題、お兄ちゃんが勝手にやってくれた。しめしめ」と思っている妹にも、いつか「神様からの宿題」が出されるでしょう。いつになるのかは分かりませんが、彼女もきっと乗り越えてくれると信じています。 まだあるならバわしもゆこ この教えが広まり始めた江戸時代、建物の普請が行われる時は、その規模に応じて人足、いわゆる労働者が募集され、人々はすきやモッコを各自で持参し、土を掘り起こして運搬するその労働の対価として報酬を得ていました。 そのような時代、教祖・中山みき様「おやさま」は、「みかぐらうた」の中で、信仰実践としての「ひのきしん」の形を、お言葉と手振りによって分かりやすく教えられています。   みれバせかいがだん/\と  もつこになうてひのきしん(十一下り目 三ッ)   よくをわすれてひのきしん  これがだいゝちこえとなる(十一下り目 四ッ)   いついつまでもつちもちや  まだあるならバわしもゆこ(十一下り目 五ッ) おそらく、当時の人々は、「もつこになうてひのきしん」と聞いて、すぐに普請現場で土持ちをする様子を思い浮かべたはずです。そしてその行為が、対価を得るためではなく、神様の報恩感謝の行いなのだと心が切り替わった時、それがすなわち「ひのきしん」なのだと教えられたわけです。 ひのきしんとは、欲を忘れて行うものであり、互いにたすけ合う生活につながる行いです。それは形にとらわれることのない、いわば「心のふしん」であり、はた目には地味な作業で、すぐには成果の見えにくいものです。しかし、土持ちが普請における大切な土台作りであるように、ひのきしんは、私たち一人ひとりの人生にとっても、かけがえのない土台作りとなるのです。 ゆえに、ひのきしんとは、お言葉通り「いついつまでも」心掛けるべきものです。「私は若い時に十分やったから、もういいだろう」などと思うことなく、「まだあるならバわしもゆこ」と、自ら率先して勇み立ち、幾つになってもさせてもらうのだという、その気持ちこそが大切なのです。 教祖は、それを自らの行いによって示されました。こんな逸話が残されています。 お屋敷で、春や秋に農作物の収穫で忙しくしていると、「私も手伝いましょう」と教祖自らお出ましになることがよくありました。 ある年の初夏のこと。カンカンと照りつけるお日様の下で、数人が汗ばみながら麦かちをしていると、教祖がやって来られ、手ぬぐいを姉さん冠りにして、皆と一緒に麦かちをなさいました。 それは、どう見ても八十を超えられたとは思えぬお元気さで、若い者と少しも変わらぬお仕事ぶりに、皆は感嘆の思いをこめて拝見したのでした。(教祖伝逸話篇70「麦かち」) (終)
知ることからはじめてみませんか?
08-11-2024
知ることからはじめてみませんか?
知ることからはじめてみませんか? 埼玉県在住  関根 健一 先日、行きつけの酒屋さんで買い物をした時のこと。会計をしようとレジに行くと、店主から「Hさんから関根さんに渡してくださいと預かったよ」と、小さな包みを渡されました。開けてみると、酒の肴になりそうな、ちょっとしたおつまみでした。 こちらの店主は、私より一回り以上年上の方ですが、20年近くのお付き合いになります。客として通ううちに意気投合し、お酒のことを教えてもらったり、イベントのお手伝いをしたり、仕事の悩みの相談にも乗ってもらう兄貴分のような存在です。 先日、酒蔵での仕込み体験イベントが開催され、私も店主のサポート役としてお手伝いをしたのですが、その時に夫婦で参加していたのがHさんでした。 Hさんは足に障害があって、「補装具」と呼ばれる足の機能を補完する特殊な靴を履いています。あまり馴染みのない方は気づかないかもしれませんが、私は障害のある娘と共に生活する中で、様々な補装具を見てきた経験があるので、Hさんに初めてお会いした時から、不便なことはないか、さりげなく気にかけるようになっていました。  酒蔵での仕込み体験イベントでは、蒸したお米を「放冷機」という機械に通して冷まし、出てきたものをタンクに入れたり、お酒の元となる「もろみ」を袋詰めして絞りにかけるなどの作業を、蔵人と呼ばれる職人さんの指導を受けながら行います。 周囲の配慮もあって、ある程度のことは一緒に体験できたHさんでしたが、タンクの中で発酵しているお酒を見るには階段を上がらなければならず、その時は下で待つことになりました。 ご本人にとっては、足に障害があるので、階段を上がれないのは当たり前なのかも知れませんが、障害があることで諦めてしまうことを、出来るだけ増やしたくないという私なりの思いがあります。そこで、皆が階段の上で見ている資料などを出来る限りHさんの所に運んで、少しでも同じ体験に近づくようにお手伝いをしました。 そのことをHさん夫妻はとても喜んでくれたようで、そのお礼に酒屋さんを通じて、おつまみを届けてくれたとのことでした。 私にしてみれば、極々当たり前のことをしたまでです。「お礼なんてして頂くほどのことではないのに…」とも思うのですが、当日も別れる間際まで「ありがとうございました」と、ご夫婦で繰り返しお礼をして下さったことなどを思い返すと、日頃周囲で同じように対応してくれる人はあまりいないのかもしれません。 私は時々、障害者の暮らしについて話して欲しいと、講演依頼を受けることがあります。その場合、比較的障害者と接することが少ない方が対象の時は、「世の中には、意識的に障害者を差別する人よりも、ただ単に実態を知らない人の方が圧倒的に多い」ということを強調して話すようにしています。 街中には、障害者にとって障壁となるものや、不便なものが数多く見受けられます。しかし、私も娘が生まれるまでは、それらを何気なく通り過ぎていたのであって、娘を連れて歩いて初めて、その障壁の多さにびっくりしたものです。 今でこそ障害者の家族として、SNSを使って情報発信などもしている私ですが、娘が生まれるまでは無関心だったことを思うと、まだ気づくチャンスが訪れていない人に対して、「差別的だ」などと一方的に断じることは憚られます。大切なのは、気づくチャンスが一人でも多くの人に訪れるような社会を作ることだと思います。 そうした視点で見ると、生まれた時からお姉ちゃんが障害者という環境にある次女の行動には、多くのことを教えられます。 例えば幼稚園の頃、娘たちの大好きなお菓子を買ってきて、姉妹でどっちを選ぶかを聞きました。すると次女が、「ジャンケンで決めよう!」と提案します。手でグー・チョキ・パーを出せない長女と、どうやってジャンケンをするのか…?と観察していると、「ジャンケン、ポン!」の掛け声で長女が「グー!」と口で言うのと同時に、次女は背中の後ろで「チョキ」を出し、長女の掛け声を確認してから手を前に出します。妻と私はビックリ! いつの間にか、とても理に適ったやり方を編み出していたのです。 幼稚園でジャンケンを覚えたのに、お姉ちゃんとは友達と同じようにジャンケンができない。でも、好きなお菓子を選ぶ時は平等に決めたい。そのような状況を次女なりに考えた結果、私や妻には思いもつかない方法に行き着いたのです。それ以来、長女を交えてジャンケンをする時には、この方法で仲良く競っています。 他にも、幼い頃から次女の発想には、驚かされることがたくさんありました。やはり、まずは障害者のことを「知る」ことが大切なのだと思います。 では、家族に障害のある人がいない人には知る機会がないのか?と言うと、そうではありません。 皆さんのお近くにある特別支援学校や障害福祉作業所は、「地域とのつながり」を求めています。いつしか「都会では、隣に住んでいる人の顔も分からなくなっている」などと言われるようになりましたが、自分一人で気軽に外 に出かけることが難しい障害者にとっては、都会に限らずこうした状況にあることも少なくありません。障害者がその人らしく自立して生きていくためには、地域との関わりは必要不可欠です。 まずは、「知ること」「関わること」からはじめてみませんか? 自分一人で この教えでは、この世界と人間を創造された親神様と私たちの関係を、親子の関係であると示されています。私たち一人ひとりは、親神様と直接に親子の関係でつながっているのであり、ゆえに、私たち人間は、皆がお互いに等しく親神様を「をや」と仰ぐ「一れつきょうだい」なのです。 しかし現実には、私たちは日常、夫婦、親子、兄弟姉妹というつながりの中で家族として暮らしています。教祖・中山みき様「おやさま」は、その家族の日常における心のあり方について、次のように仰せられています。   一やしきをなじくらしているうちに  神もほとけもあるとをもへよ (五 5)   このはなしみな一れつハしやんせよ  をなじ心わさらにあるまい (五 7)   をやこでもふう/\のなかもきよたいも  みなめへ/\に心ちがうで (五 8) たとえ一つ屋根の下で暮らす夫婦、親子であれ、また血を分けた兄弟姉妹といえども、心は一人ひとり皆違うということです。 これについては、別のお言葉でも、 「さあ/\人間というは神の子供という。親子兄弟同んなじ中といえども、皆一名一人の心の理を以て生れて居る。何ぼどうしようこうしようと言うた処が、心の理がある。何ぼ親子兄弟でも」(M23・8・9) と諭されています。 教祖をめぐって、こんな逸話が残されています。 教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに行こうやないか」などと、居合わせた人々がニ、三人連れを誘って行くと、教祖は、決して快くお話し下さらないのが常でした。 「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、本心から聞かしてもらいにおいで」と仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話をお聞かせ下され、なおその上に「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね」と仰せられ、いとも懇ろにお仕込み下されたのです。(教祖伝逸話篇116「自分一人で」) この教祖の逸話がお示しくださるのは、心が皆違うのであれば、信仰も一名一人限りである、ということです。この信仰は、決して義理やお付き合いでするものではなく、お話の取り次ぎは一対一が基本であり、一人ひとりが自主的に道を求める姿勢こそ大切であるとお諭しくだされているのです。 何より有難いのは、真実に聞かせて頂こうとする者には、「何んでも、分からんことがあれば、お尋ね」と、こちらが得心するまでお話しくださる教祖の親心。こちらが真実の心で運べば、教祖は必ず応えてくださるのです。 (終)
同居の恩恵
01-11-2024
同居の恩恵
同居の恩恵 兵庫県在住  旭 和世 「ばあばちゃ~ん!これ直して~」 おもちゃを壊してしまった時、うちの子たちは私の前をスルーして、すぐ母の所に持っていきます。宿題で分からない所があると、「じいじ~宿題おしえて~」と、父の所に飛んでいきます。 食べたい夕食のメニューがある時も、うちの子は迷いなく「ばあばちゃ~ん、今日ハンバーグ食べた~い」と母におねだりに行きます。娘に「どんな人が好みのタイプなの?」と聞くと、すかさず「じいじみたいな優しい人がいい~!」と言います。 子供たちは本当に正直です。この子たちの親はいったい何しとるねん!と、つっこまれそうですが、そうやってじいじ、ばあばに甘えられる子供たちを見て、心からありがたいと思うのです。 私は教会の後継者である主人と恋愛結婚し、主人の両親やきょうだい達と教会で同居することになりました。深く考えることもなく、そんなものだと思って嫁いできました。 でも良く考えてみると、主人は自分が選んだ相手ですが、両親までは選べません。きょうだいもしかり。どんな人と家族になるかは、ある種くじ引きみたいなものです。よく、そんな賭け事みたいな人生におそれることなく、のん気にやってきたものだと、今となっては笑えてきます。 ただ、自分も教会で育ち、幼い頃から神様のお話を通じて心の使い方などを教えられてきたので、きっと、同じ教会なら価値観や考え方も似ているだろうと信じていました。 嫁いですぐに馴染めたかと言われたら、もちろんそんなことはありません。最初は緊張したり、気もつかったり、多少のカルチャーショックも受けつつ、じわじわと慣れてきたように思います。その一方で、両親や周りの方はそれ以上に、私に気をつかってくれていただろうと思うのです。 ママ友からよく言われます。「え~、旦那さんの両親と同居してるの? うわ~、大変だね~。私は無理だわ~」 主人の家族と同居するのは、私の住む地域ではとても珍しいことなのだと、周りのママ友を見て気がつきました。私は実家でも祖父母が一緒に住んでいたこともあり、特に抵抗がなかったので、こんなにもびっくりされるということに、まず驚きました。でも実際一緒に住んでみると、良い面がたくさんあるということに年々気がついてきました。 現代では出産を機に、環境の変化や子育ての不安などにより、「産後うつ」を発症するママさんがたくさんおられると聞きます。きっと、理想とかけ離れた育児の現実に戸惑い、その悩みを誰にも相談することができず、一人で抱えている方が多いのではないかと察しています。 その点で言うと、もし両親と同居していれば、育児の先輩がすぐそこにいてくれて、アドバイスをもらったり、長年の知恵を授けてもらうこともできます。 今はネット上に情報があふれ、育児書も充実しているので、ひと昔前の情報が古臭いと感じることがあるかもしれません。でも、経験者がそばにいる心強さと、まったく目が離せない時期にちょっと見てくれる人がいる安心感、それだけでも産後の不安はかなり解消されると思います。 私自身は、子供が大きくなるにつれて、益々親のありがたさに気がつきました。若い頃、甥っ子や姪っ子の面倒を見ていた時は、可愛いばかりで怒る必要はなかったのですが、我が子となると責任を感じてしまい、ちゃんと育てないと!とか、人の迷惑にならないように躾けないと!などなど、妙に力が入ってしまいます。そして、気がつけば必要以上にガミガミ言っている自分がいて、「こんな怖いママになるつもりはなかったのに…」と、我が子の可愛い寝顔を見て後悔することもしばしば。 でも、子供たちにとれば、私がガミガミ言っていても、隣りでじいじやばあばが笑ってフォローしてくれたり慰めたりしてくれるので、それが救いになっているようでありがたく思っています。 ややもすると、我が子を自分の分身のように考え、こちらの思う通りに育てたいと思いがちだけど、親がそばにいてくれるおかげで、子供は一人の人間として「個」を持つ存在であり、その個を大切にしなければならないと思えるようになりました。 同居したら気苦労が増える。そう思う人もいるでしょう。たしかにそうかも知れませんが、ある先輩の先生がこう言われました。「その気苦労がとても良いんです」と。 気苦労=悪いこと、ストレスになること。私もそんな負のイメージしか持っていませんでした。しかし、その先生の言葉を聞いて、周囲の人に気を配ってお互いに気持ちよく過ごせるように工夫したり、言葉をかけ合う姿を映すことが、子供たちの将来にとって、とてもいいことなのではないかと考えるようになりました。彼らが社会に出て家庭を持った時、自然にその気づかいができるようになっていたら、これほど嬉しいことはありません。それは、私たち親が子供たちに手渡すことの出来る心の財産だと思います。 思い返せば、私自身も教会で生まれ育ち、祖父母や住み込みさんと一緒に暮らし、教会に出入りしているたくさんの方々の中で育ててもらいました。その中で両親が皆さんに心を配っている姿や、自分たちの時間を惜しまず、祖父母の世話をしたり、信者さんの悩みを聞いたり、おたすけに出向く姿を間近に見られたことが、今では心の財産になっているとつくづく感じています。 「おふでさき」に、   せかいぢういちれつわみなきよたいや  たにんとゆうわさらにないぞや (十三 43) とあります。 世界中のみんながきょうだいならば、一緒に暮らす家族や身近な人はきょうだいの中のきょうだい。本当に、何十億分の一の確率の、奇跡ともいえる巡り合わせです。 両親と同居できたおかげで、親がそばにいる安心感と恩恵を頂いているのだから、今度はその恩恵にご恩返しをさせてもらえる自分になりたい!と思いつつ、まだまだ両親に甘えっぱなしの毎日です。 だけど有難い「食べる順番」 食事をするとき、好きなものを先に食べるでしょうか。それとも、あとで味わって食べるでしょうか。特に極端な好き嫌いがなくても、人によって、なんとなく箸の出し方の違いというものがあるように思います。 数日前、家族そろって食事をすることがありましたので、皆に聞いてみたところ、娘二人は「好きなものは、あとで味わって食べる」と答えました。妻は「一番美味しいと思うものをまず食べて、残っているなかで一番好きなものを次に食べる。そうしていったら全部好きなものだから楽しい」ということでした。 では、教祖はどうかといいますと、『稿本天理教教祖伝逸話篇』のなかに「柿選び」というお話があります。柿がたくさん載ったお盆を教祖の御前にお出ししたところ、教祖はその柿を、あちらから、こちらからと、いろいろと眺めておられました。やはり、教祖もお選びになるのだなと思っていますと、そのなかから、一番悪いと思われる柿をお選びになった。人に美味しい柿を食べさせてやろうとの親心なのです。教祖もお選びになるが、私たちとは選び方が違うのです。 私たちはそのようには、なかなかできないと思うかもしれませんが、わが子にはどうでしょう。私の妻も、子供が小さいときは、子供が残したものを綺麗に食べていました。美味しいものを自分が先に食べてしまうのではなく、子供に先に食べさせ、残ったものを食べていたのです。誰でもそうではないでしょうか。子供に対してはできるのです。では、子供だけかというと、そうではありません。夫や妻にしている方もあると思います。恋人、親友、またお世話になった人にもそうではないでしょうか。つまり、大好きな人にはできるのです。 こうしてみると、私たちも意外と教祖のように心を働かせているのです。ひょっとすると、原始時代、人間が一番初めにした親切は、人に食べ物を分け与えたことではないでしょうか。食べ物を人に譲ろうという気持ちから、私たちの人を喜ばせたいという感情が始まったのかもしれません。 人間の値打ちは、そうして「人に喜んでもらいたい」と考えられるところにあると思います。 喜んでもらいたい対象には、もちろん親も入っています。自分を産み育ててくれた親に、ご馳走したいなどと考えます。誕生日のプレゼントを贈るのに、親に毎月仕送りをしているからといって、そこからプレゼントの代金を差し引く人はいないでしょう。 私は、教祖の年祭活動のつとめ方というのも、この心だと思うのです。をやに対する日ごろの感謝に加えて、さらに喜んでいただく行動を取るのです。をやは子供を喜ばせたい思いで、お土産をたくさん用意してお待ちくださるに違いないのです。その親元へ、一番お喜びくださる「人をたすける」心と態度をもって帰るのです。 教祖年祭の元一日は、実は誕生日ではありません。教祖が現身をかくされた日です。ということは、親に喜んでもらいたいという心でつとめるのではありますが、それは誕生日に使う心ではなく、むしろ、親が危ういときに使う心だと思います。なんとしても親に喜んでいただきたいという、仕切った心でやりきらせていただくことが大切です。 共々に、できるだけ多くの人に声を掛け、病気や事情に苦しむ人にご守護の喜びを味わっていただけるよう、仕切ってつとめさせていただきましょう。 (終)
神様の大作戦(後編)
25-10-2024
神様の大作戦(後編)
神様の大作戦(後編) 助産師  目黒 和加子 臍帯剪刀を手にしたこの日は、奇しくもおさづけの理を戴いたあの日と同じ7月17日だったのです。 「これって偶然? 教祖に助産師になってみせるって言うたけど、もしかしてなるように仕向けられてるの?」 神様が練った作戦に気づき始めたのです。 私が目指したのは、新潟大学医療短大助産専攻科です。入試の2ヵ月前、腰の激痛で椅子に座れなくなり、近所の整形外科を受診、腰椎椎間板ヘルニアと診断されました。 新潟大学を受験することを、院長の南先生に伝えると、「僕は30歳の時に造船会社をリストラされて、一念発起して医学部を受験して36歳で医者になったんや。34歳で受験か。新潟に行けるよう全力で応援するで」と、嬉しいお言葉。 痛みを抑えるため、飲み薬だけでなく神経ブロック注射も受けましたが、効果は今ひとつ。これでは飛行機に乗れません。すると南先生は、私が搭乗予定の日本エアシステムに、「人生をかけた34歳での受験なんです。3人席の肘掛けを上げて、横にしてフライトしてもらえないでしょうか」と、手紙を書いてくださったのです。 日本エアシステムからの返事は、「離陸と着陸の時は座ってもらい、それ以外は希望通りになるよう配慮します」とのこと。なんとまあ、こんなことがあるのでしょうか。私はこうして、ひどい腰痛を抱えたまま新潟大学を受験することができたのです。 入試が終わり、帰りの飛行機での出来事。満席のため、行きと違いどうしても座らなければならず、痛み止めの座薬を入れて飛行機に乗り込みました。客室乗務員さんがひざ掛けを丸めて腰に当ててくれるのですが、効果がなく冷や汗が出てきます。 すると、隣りに座っていたおじさんが、「どうしたの? 腰が痛いの?」と心配そうに声を掛けてきました。「はい、腰椎にヘルニアがありまして…」と答えると、「ワシも30年前からヘルニア持ちなんや。おっちゃんに任しとき!」と言って、客室乗務員さんにひざ掛けを何枚か持って来させ、それを私の背中と椅子の間にぎゅうぎゅうに詰め込み、がっちり固定。すると、痛みが引いたのです。 驚いた顔の私に、おじさんは「腰のヘルニアは治ることはないけど、上手に付き合えるで。大丈夫やで」と、笑顔で励ましてくれました。 石田病院に勤めて数カ月後、看護師のなっちゃんから電話がありました。なっちゃんは看護師として勤務しながら、助産師学校の合格を目指して予備校に通っていたのですが、突然、「私、結婚するから助産師目指すのやめるわ」と言うのです。 「せやから、和加ちゃんに予備校の教材全部あげるわ。高かってんで、がんばりや!」なんと、教材をタダで手に入れてしまいました。 「よし、これで学科試験は何とかなる。問題は小論文や」 今でこそ、こうして原稿を執筆していますが、その当時は小学生の作文のような文章しか書けなかったのです。早速、予備校の通信教育小論文コースで指導を受けることにしました。 予備校の先生から課題をもらい、小論文を書いて提出するのですが、毎回戻ってくる原稿用紙は、赤ペンの修正だらけ。 9月に送られてきた課題は、「現在の日本における老人看護の現状とこれから」。9月半ばに小論文を提出し、添削指導が戻ってきたのは10月初旬でした。 封筒を開けてビックリ! 新しい原稿用紙に万年筆で書かれた模範解答が入っていたのです。おそらく、修正箇所が多すぎて真っ赤っかになったので、一から書いてくださったのでしょう。 「すごい! さすが赤ペン先生、めちゃめちゃ上手いわ。なんて素晴らしいお手本なんや」 次の日からその模範解答をかばんに入れ、通勤電車の中で黙読を続け、1カ月後には暗記できるようになりました。この模範解答の暗記が、入試で効いてくるのです。 推薦入試の受験日は11月末。定員は20名ですが、そのうち推薦入試の枠は、たったの5名。私の受験番号は2番なので、何人受験するのか検討がつきません。 いよいよ受験当日。新潟大学の試験会場に行ってびっくり! なんと80名を超える受験生がいるではありませんか。競争倍率16倍の超狭き門です。 「これは絶対に無理やで…」がっくりモードで学科試験が終了。次は小論文の試験ですが、ここで信じられないことが起こります。 出された小論文のテーマは、「我が国における高齢者への看護の課題と将来」 あれ? これって? まさか……。 リスナーの皆さん、お気づきでしょうか。赤ペン先生が模範解答を送ってくださった小論文の課題は、「現在の日本における老人看護の現状とこれから」でしたよね。そうなんです。表現が違うだけで、同じことを求めている問題だったのです。体中に鳥肌が立ちました。 夢中で暗記していた赤ペン先生の模範解答を書き終えましたが、体の震えが止まりません。 〝自分の力や意志と違う。助産師になるように仕組まれてる。きっと合格させられる!〟 結果は、予想通り、合格。入学してすぐ、担当教授から「あなたの小論文、素晴らしかったわ」とお褒めの言葉をいただきました。そうでしょうとも…。 会ったことのない赤ペン先生に、心から感謝申し上げました。 助産専攻科の卒業間近、風邪から副鼻腔炎を再発。急性増悪して新潟大学病院で診察を受けた時のことです。蝶形骨洞のCTを撮ると、それを観た耳鼻科医の顔色が変わりました。 「あなたの蝶形骨洞の骨は本当にペラペラです。また手術しないといけなくなっても、僕には無理です。恐くて触れません。すぐに点滴で炎症を抑えましょう」 さらにドクターは、もう一度CTフィルムをジーッと観て、「骨まで溶かす炎症だったのに、どうして蝶形骨洞内を走る視神経がやられなかったんでしょう。人間の身体の中で一番硬いのは骨ですから、視神経がダメージを受けずに失明しなかったのは奇跡ですね」と目を丸くして言いました。 点滴を受けながら、この十数年間に起こった出来事を振り返りました。 〝17歳でおさづけの理を戴いて、23歳で結婚して修養科に行って、離婚して、看護師になったのに病気になって、治療を失敗されて、クビになって、自殺を目撃して、教祖に「助産師になってみせる」なんて生意気に言い放って。 助産師になると決めてからは、あちこちでたすけてくれる人に出会った。耳鼻科の内田先生、整形外科の南先生、日本エアシステムさんのご配慮、帰りの飛行機で隣り合ったヘルニアのおじさん、赤ペン先生…。 そうか、すべては私を助産師にするためやったんか。だから、視神経が守られて、失明せえへんかったんや〟。 こういう経緯で助産師になったのですが、「なった」というより「ならされた」という方がピッタリですよね。あれから28年。何度か副鼻腔炎を再発しつつも、脳炎にはならず現在に至っています。 神様の大作戦は、「私を助産師にすること」でした。では、助産師にして何をさせたいのでしょう。それこそが、神様の真の目的ですよね。 私は今年で還暦となりますが、今も助産師にさせられた真の目的を考え続けている道中です。いつか、「なるほど、こういうことなのね」と、神様の思いが分かる日が来ると信じています。 神にもたれる 天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、「なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする」とあります。 「神にもたれる」という表現は、その他のお言葉にもしばしば出てきますが、どのような意味を表しているのでしょう。 「もたれる」とは、何かに依存したり、頼ったりと、受動的な態度のようにも思えますが、ここでは決してそのようなことを意味しません。神様にもたれるには、目に見えないものに対する心の中の不安や疑念を払拭しなければならないのですから、相当の勇気が必要になります。 教祖は、直筆による「おふでさき」で、   これからハどんな事でも月日にハ  もたれつかねばならん事やで (十一 37)   これからハ月日ゆう事なに事も  そむかんよふに神にもたれよ (十三 68) と記され、狭い人間思案を捨て、目先のことにとらわれず、神様に決して背くことなくもたれ切って通るようにとお諭しくださいます。 そして、「天の理に凭れてするなら、怖わき危なきは無い」(M23・6・29)と私たちを励ましてくださいます。 しかし、そのような思いに沿えない私たちに、神様は時として身体にしるしをお見せ下さいます。   めへ/\のみのうちよりもしやんして  心さだめて神にもたれよ (四 43)   みのうちのなやむ事をばしやんして  神にもたれる心しやんせ (五 10) 「かみにもたれてゆきまする」とは、人間の知恵や力で捉えられる範囲を超えて、一切を神様にお任せします、との決意表明と言えます。自己中心的な欲の心を離れ、神様にもたれ切る時、そこに真実のご守護の姿が表れるのです。 (終)
神様の大作戦(中編)
18-10-2024
神様の大作戦(中編)
神様の大作戦(中編) 助産師  目黒 和加子 気温30℃を超える7月の真夏日、神様に文句を言おうと自宅を出ました。京阪電車の萱島駅に着き、4番線に止まっている準急に乗り込むと、「3番線を特急が通過します。しばらくお待ちください」と、車内アナウンスが聞こえてきました。 〝もし脳炎になったら、特急に飛び込んで死のう〟そんなことを考えながら3番線を眺めていると、目に入ったのは青いジャンパーを着た男性。すると、その男性は突然走り出し、特急に飛び込んだのです。特急電車は金属音を立てて急停車。 人の死を間近で目撃し、頭を金槌で殴られたような衝撃が走りました。 〝神様に見せられた! 私がしようとしたことは、どういうことなのか見なければいけない〟 急いで準急から降り、3番線側に向かうと何かにつまずきました。それは、男性の腕の一部でした。ちぎれた青いジャンパーに親指だけがついていました。周囲を見回すと足首、頭の一部、肉片が飛び散り、見るも無残な状態。 〝あかん! こんなことしたら絶対あかん。こんな姿、親に見せられへん…。じゃあ、どうしたらええの? どう生きればいいのよ!〟 頭の中が混乱したまま、おぢばに到着。神殿に駆け上がり、賽銭箱にお供えを思いっきり投げつけて、「神様、看護師になってこれからという時に何でですか! 全然喜べません! でも、なにか意味があるんですよね? 人間の親やったら、その意味を教えてください!」 かんろだいを睨みつけ、怒りをぶつけました。それでも怒りは収まらず、阿修羅のような形相で回廊を歩いていると、鼻からドッと出血し、マスクは血だらけ。すれ違う人はギョッとした顔で固まっています。 教祖の御前に座ると、涙がこぼれてきました。当たり前のことですが〝人間は必ず死ぬ。人生には限りがある〟と痛感したのです。 そして、今、この病気で出直すとしたら何を後悔するか思案を巡らせると、真っ先に心に浮かんだのは、看護学校の実習で見学したお産の現場でした。 「お産ってスゴイ! 助産師さんってスゴイ! 素晴らしい仕事や!」と心が震えました。担任の先生に「助産師を目指したら?」と勧められましたが、これほど責任の重い仕事は無理だと諦めていたのです。 しかし、死がちらつく重い病気になり、考えが変わりました。今世で後悔を残さないためにどうすればいいのか。私は教祖に、「このままでは終われません。助産師になってからでないと死ねない。何としてでも助産師になってみせます!」と言い放ったのです。 神様に向かってなんとまあ、高慢ちきなことですよね。でもこれは、真っ直ぐで気の強い、私の性格を見抜いていた親神様と教祖の巧妙な作戦だったのです。もちろん、この時はまったく気づいていません。 鼻から血を流しながらおぢばに帰った翌日、西宮市にある所属教会に行きました。死を意識し、「今世最後の参拝になるかも…」と覚悟を決め、貯金を全部お供えしました。若い頃からお世話になっている親奥さんに病気のことを話すと、おさづけを取り次いでくださいました。 そして、「明日は上級の中央大教会の月次祭よ。このお供えを今すぐ速達で送ると祭典に間に合うから」と、郵便局に連れて行かれました。 暗い気持ちで座っていると、親奥さんが「和加ちゃん、神様がたすけてくださるから大丈夫よ」と笑顔で言うのです。〝なんで大丈夫と言い切れるんやろう?〟疑問に思いながら郵便局を後にしたのですが、ここから運命の歯車が動き出すのです。 教会からの帰り、クビになった病院に置いてある私物を取りに行きました。ナースステーションの入り口で、「この度はご迷惑をおかけして申し訳ありません」と頭を下げましたが、誰も仕事の手を止めてくれません。 この病院では、中途退職者が出ても年度が変わる4月までは欠員補充がありません。〝あなたが辞めたせいで、来年の3月末まで大変な思いをしないといけないのよ〟という雰囲気が漂っていました。退職の理由が病気であってもです。看護部長室にも伺いましたが、会ってもいただけません。 惨めな気持ちで通用口を出ると、「みかぐらうた」が聞こえてきました。病院の隣りは天理教の教会なのです。おうたが心に沁み、泣けてきました。涙が鼻腔へ流れ、手術の傷跡がジンジン痛みます。 「崖っぷちやけど、まだ生かしてもらってる」と自分に言い聞かせ、駅への道をとぼとぼ歩きました。 病院からの帰り、大学病院を紹介してくださった内田耳鼻科に退院したことを伝えに行きました。 院長の内田先生に、大学病院でヤミックが失敗し、ひどい蝶形骨洞炎になったこと。骨も溶け、脳炎になる可能性があること。仕事を辞めたこと。人生は一度しかないと痛感し、助産師を目指そうと思っていることなどを伝えると、 「あんた、うちに勤めなさい。ここは耳鼻科やから、いつでも診てあげられる。そうしなさい。来週からおいで。」 なんと、私を雇ってくださるというのです。  〝ありがたいけど、看護師の募集をしてないのに、ご迷惑になるんとちゃうかな〟と戸惑っていると、それを察した先生は、「ワシ、3年前に胃がんの手術した時に色々あってな。あんたの気持ち、ようわかるんや。来年の3月までということで、どや!」 これまた、よく分からないまま内田耳鼻科に勤務することになったのです。 これは一体何なんでしょう? 一方ではクビになり、もう一方では雇ってくださる。「捨てる神あれば拾う神あり」とでもいうのでしょうか。しかも職場が耳鼻科というのは、退院後も経過観察が必要な私にとって最高の環境です。 急降下に急上昇、まるでジェットコースターに乗っているよう…。この日を境に、自分の考えや意志以外のところで、物事が動き始めたのです。 内田耳鼻科で診てもらいながら、3月末まで働かせていただき、4月から助産師になるための第一歩として産科専門の石田病院に転職しました。 石田病院はこの地域で最も分娩件数が多く、入職して3カ月が経っても、いっぱいいっぱいの毎日。忙しすぎて助産師学校へ進学する気力を失いかけていた頃、神様が練った作戦に気づきかけた出来事がありました。 お産の終わった分娩室で片付けをしていると、ベテラン助産師の大石さんが分娩セットの中から一個のハサミを取り出しました。 「このハサミは臍帯剪刀といって、へその緒を切る専用のハサミよ。へその緒は、ところてんみたいにツルツルしてるから、集中して切るためにわざと切れ味を鈍くしてあるの。先端だけを使って2、3回で切断するの。刃先が丸くて上に反っているのは、へその緒を切る時に赤ちゃんのお腹の皮膚を傷つけないようにするため。助産師だけが使う特別なハサミよ。ほら、よく見てごらん」 手渡された臍帯剪刀を見て、ハッと思い出したことがあります。 私がおさづけの理を拝戴したのは、昭和57年7月17日、17歳の時。拝戴直後、教祖殿で待っていた所属教会の間瀬弘行 前会長さんが、「和加ちゃんは、数字の〝7〟に縁があるなあ。7というのは『たいしょく天さん』のお働きで〝切る〟ということや。上手に切ることも神様の大切なお働きやで。だから、将来はハサミを使う仕事をしなさい」 高校生だった私は、素直に「はい」とうなずきました。 〝そうや、あの時、前会長さんの言わはったハサミって、この臍帯剪刀のことや!〟 さらに、壁に掛けてあるカレンダーを見て息をのみました。 「今日って、あの日と同じ7月17日やんか!」 怒涛の展開はまだまだ続きます。来週の後編をお楽しみに! 「ひのきしん」で胸の掃除を  天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、直筆による「おふでさき」で、   せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ  神がほふけやしかとみでいよ (三 52) と記され、陽気ぐらしへ向けた各自の胸の掃除は、神様の教えを箒としてなされるのだとお諭しくださいます。その第一の方法として教えられるのが、生かされていることへの報恩感謝の行いである「ひのきしん」です。 教祖は「みかぐらうた」の中の、特に十一下り目において、ひのきしんについて詳しく教えられています。   ふうふそろうてひのきしん  これがだいゝちものだねや   よくをわすれてひのきしん   これがだいゝちこえとなる   いつ/\までもつちもちや  まだあるならバわしもゆこ   むりにとめるやないほどに  こゝろあるならたれなりと ひのきしんは、夫婦の心を揃えて行うところに始まり、その姿が周囲の人々に映っていくということ。そして、ひのきしんは利益を目的にするものではなく、あくまで「欲を忘れて」行うものであり、それが陽気ぐらしへ近づく歩みになるということ。 また、ひのきしんは、いついつまでも、どこまでも自ら追い求めて行うことが大切であり、その心意気があるならば、無理に止め立てはしないと仰せられています。 夫婦を台として、人々が心を合わせ、いそいそと一手一つにひのきしんをする姿こそ、陽気ぐらしの縮図であり、各自が胸の掃除を成している姿と言えるでしょう。 (終)
神様の大作戦(前編)
11-10-2024
神様の大作戦(前編)
神様の大作戦(前編) 助産師  目黒 和加子 私が助産師になったのは35歳の時です。看護大学を卒業すれば22歳で助産師になれるので、かなり遠回りをしました。今回は助産師になるまでの山あり谷あり、崖っぷちありの道中をご紹介します。 高校を卒業後、医療系の専門学校を卒業し、医療秘書として内科病院に勤務していました。23歳で結婚しましたが上手くいかず、仕事を辞めて天理教の教えを学ぶ修養科を志願し、三カ月おぢばで過ごしたのちに離婚。実家に戻っていました。 当時、歯科医院で勤務していましたが収入は少なく、将来を考え看護師免許を取ろうと28歳で一念発起し、まずは准看護師学校へ入学。病院で働きながら学校へ通う勤労学生を2年経験し、准看護師になりました。さらに正看護師の学校へ進学。2年後、32歳で晴れて看護師になったのですが、待っていたのはいばらの道でした。 大阪市内の総合病院に就職し、内科病棟の配属となりました。新人には指導者がついて、マンツーマンで教育・指導を受けるのですが、私の指導者はとても厳しく、課題がどっさり出て休みの日も宿題に追われる日々。 提出しても、「抜けているところがあります。やり直してください」と言われ、「どこが抜けているのですか?」と聞いても、「自分で考えてください」と冷たい返事。再提出、再々提出しても「やり直し!」と突き返されます。何度見直してもどこが抜けているか分からず、やり直しをせずに提出すると、その指導者はなんと「これでOKです」と言ったのです。 このことで緊張の糸がプツンと切れ、胃潰瘍となり近所の病院に入院。就職して2か月で休職となってしまいました。 入院中、「私の指導が行き過ぎていたと反省しています。やり方を変えますので戻ってきてください」と指導者から電話があり、職場復帰を考えていた矢先、風邪をひきました。 その風邪をこじらせ近所の内田耳鼻科を受診し、急性副鼻腔炎と診断されました。薬を飲んでも頬の痛み、黄緑色のドロドロの鼻水、頭痛、身体のだるさは良くならず、大学病院耳鼻科のK先生を紹介されました。K先生は頬の上顎洞に溜まっていた膿を出そうと、鼻に圧をかけて副鼻腔内を洗浄するヤミックという新しい治療をしたのですが、膿は出ませんでした。 後で分かったことですが、このヤミックの治療が失敗し、上顎洞の膿は排出されないどころか、鼻の一番奥、目の後ろにある「蝶形骨洞」へと押し上げられたのです。 治療後、頭痛は一層ひどくなり、目も見えにくくなったので再び大学病院を受診。しかしK先生から、「もう上顎洞に膿はありません。念のため脳神経外科を受診してみますか」と言われ、そちらへ回されました。 しかし、脳神経外科で問題なしと言われると、K先生は「症状は精神的なところから来ているのかもしれません」と言い、今度は精神科に紹介状を書き始めたのです。 ちょうどその時、CTとMRIのキャンセルが出たと連絡があり、急きょ検査を受けました。 検査後、フィルムを見たK先生の表情がこわばり、若いドクターに「すぐに蝶形骨洞開放術が必要だ!手術室の空きがあるか確認しろ!」と声を荒げ、慌てています。 「蝶形骨洞の粘膜が腫れて、腫瘍らしきものも見えます。何が原因でそうなっているかは分かりませんが、早く手術しないと蝶形骨洞内を走る視神経がやられて、失明する可能性があります」と言うのです。 しかし、その日は手術室の空きがなく、「今日はステロイドと抗生剤の点滴をして帰ってもらい、明日の朝一番で手術をします」との説明を受けました。 診療が終わり静まり返った耳鼻科外来。診察室の一番奥で、カーテンで仕切られたベッドに横になり、点滴を受けていると、私がいることに気づかない数人の医師がカンファレンスを始めました。 「このCT見てみ。こんなぐちゃぐちゃな蝶形骨洞、今まで見たことないわ」 「どうせ悪性ちゃう?」 「明日の朝一番でオペやって。どうせ開けてもたすからへんで」 「N病院の看護師やで。結構べっぴんや。32歳か、かわいそうになあ」 カーテン越しに聞こえてきたのは私のことでした。体が震え、頭の中は真っ白。この日、どうやってうちに帰ったのか思い出せません。一睡もできないまま朝になり、大学病院へ。耳鼻科外来から手術室へと運ばれました。 鼻の穴からハサミを使って蝶形骨洞を開放する際、目の神経の近くを触るので、目が見えているかを確認しながら手術を進めます。なので、麻酔は局所麻酔。意識は普通にあり、ドクターの会話も聞こえます。 蝶形骨洞の粘膜は、イチゴジャムのようにぐちゃぐちゃで無残な状態。腫れ上がった腫瘍組織の一部をとり、術中迅速細胞診で調べると、「炎症性病変です。悪性ではありません」と、K先生の言葉が聞こえました。 〝やれやれ、悪性じゃなかった。命拾いした〟とホッとしたのですが、K先生が突然、「脳外科のドクターを呼んでくれ!」と、慌てた声でナースに指示を出したのです。 手術室内に三人もの脳外科医が呼ばれ、私の枕元でヒソヒソと話し合っています。聞こえてきたのは、「さわるな、さわるな」という小さな声。手術は、その小声とともに終了。「何が〝さわるな〟なんかな?」と疑問に思いながら病室に運ばれました。 退院の日、K先生が病室に来て、 「あなたの蝶形骨洞の病変は炎症によるものでした。その炎症がひどい状態で粘膜は腫れ上がり、一部は溶けていました。実は溶けていたのは粘膜だけでなく、脳と蝶形骨洞を隔てている骨、要するに脳をのっけている分厚い骨までもが溶けていたんです。内視鏡で蝶形骨洞の一番奥を見たら、見えるはずのない脳が透けて見えました。 脳外科の医師に手術室に来てもらって相談したところ、『さわらない方が良い』とのことだったので、溜まった膿が鼻へ流れ出る道を作っただけで手術を終わらせました。 今後、風邪をひいて副鼻腔炎が再発した場合、感染が脳に及んで脳炎になる可能性があります。脳炎になれば命にかかわることもあり、後遺症で寝たきりになることもあります。お気の毒です」 と一方的に言うと、さっさと病室から出て行ってしまいました。 〝風邪をひいたら脳炎になるかもしれないって…。風邪をひかないで生きていくことなんかできない。どうしたらいいんやろう…。〟医師に見放されたと感じ、お先真っ暗のまま自宅に戻りました。 翌日、勤務先の看護部長に電話をし、医師から言われたことを伝え、「復職はいつになるか分かりません」と言うと、「ここの病院にも耳鼻科があるのに、どうして自分の勤める病院で診てもらわなかったのよ! 復職がいつになるか分からないなら、辞めてもらって結構です。ロッカーの荷物を取りに来てください」 看護部長の逆鱗に触れ、なんとクビになってしまったのです。 鼻からの出血は止まらず、職も失い、体も心もどん底でした。どん底の時には涙も出ないんですね。泣ける余裕すらない。呆然としながらも、ふつふつと湧いてきた思いは、 「看護師になってこれからっていう時に、なんで神様はこんなことしはるねん!納得できへん!」 無性に腹が立ち、鼻に綿花を詰めマスクを三重にして、おぢばへ向かったのですが、京阪電車萱島駅で衝撃の場面を目撃させられるのです。 来週は、神様の大作戦に翻弄される怒涛の展開。どうぞお楽しみに! たのしみ 「たのしみ」という言葉は、一般には物事を見たり聞いたりして、喜びを感じるという意味で使われますが、神様のお言葉の中にも、再三「たのしみ」という表現が出てきます。 教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」では、   心さいすきやかすんだ事ならば  どんな事てもたのしみばかり (十四 50) と、心が澄んだ状態になれば、楽しみ尽くめの日々を送れると示されています。また、親神様が何を楽しみにされているかについては、   にち/\にしらぬ事をやない事を  これをしへるが月日たのしみ (八 77) と、世界中の人々がいまだ知らないことを教え、陽気ぐらしへと導いていくことが楽しみであると示されています。すなわち、私たちは親神様の教えによって楽しみを与えられ、その人間の楽しむ姿を見て親神様も共に楽しまれる。これこそ神人和楽の陽気ぐらし世界です。 しかし、楽しみと言っても良いことばかりではなく、親神様は、私たち人間の「今さえ良ければ」という刹那的な「楽しみ」については、厳しく戒められています。 「その場の楽しみをして、人間というものはどうもならん。楽しみてどうもならん。その場は通る、なれども何にもこうのう無くしては、どうもならん事に成りてはどうもならん」(M22・3・22) そして、「たのしみ」のもう一つの意味、先のことに期待をかけて心待ちにする様を、この道の結構な通り方として示されています。 「神がちゃんと見分けて、一つのあたゑを渡してある。今の楽しみ、先の細道。今の細道、先の楽しみ。先の道を見て居るがよい」(M22・10・26) たとえ今は楽しい道を通れなくとも、先の楽しみを見据えて真実を尽くすことの大切さをお諭しくだされています。 (終)
神様にもたれて通る
04-10-2024
神様にもたれて通る
神様にもたれて通る 岐阜県在住  伊藤 教江 「あなた、このままだと死にますよ! すぐに入院、手術です!」 そうお医者さんから言われたのは、今から遡ること35年前でした。 私は人生の大きな岐路に立たされていました。子供の頃から大きな病気もせず元気に過ごしてきた私にとって、その言葉はあまりに衝撃的で、とても受け入れられるものではありませんでした。 「嘘でしょ…何かの間違いに決まってる。だって、痛くも痒くもない。食欲もある。今だって元気に動き回ってるし…」 確かに私のお腹には、いつからか小さな固いしこりが出来始めていました。それでも、「大したことはない」と少しも気に留めていませんでした。ただ、母が心配してくれていたので、母に安心してもらうために「まあ、一度病院で診てもらおうか」と、とても軽い気持ちで診察を受けました。 その後、いくつかの検査によってデスモイド腫瘍が見つかり、冒頭のお医者さんからの一言で、私の心は一瞬にして奈落の底に落ちたのです。  病院からの帰り道、今まで当たり前に見てきた街並みや、道端の小さな草花、流れる川さえもが愛おしく感じられ、「きっと、私がいなくなっても何事も変わらず、来年もまた花は綺麗に咲き、川も止めどなく流れ、時は過ぎていくんだろうなあ…」と、命のはかなさを感じ、ただただ涙を流したのでした。 当時、私にはまだ幼い二歳と一歳の二人の娘がいました。 「この子たちを置いて死ぬわけにはいかない! もし私がここで死んだら、この先この子たちはどうなるんだろう…。お願いです!何とか救けてください! 山ほど借金して、世界中から名医を探し出してでも、命を救けてもらいたい! たとえ動けなくなっても、どんな姿になっても命だけは救けてもらいたい!」 何度も何度も、どれほど心の中で叫んだことでしょう。しかし、どんなに望んでも願っても、思い通り、願い通りにはならないのが現実です。 そんな時、「人を救けたら我が身が救かるのや」という教祖のお声が、繰り返し繰り返し聞こえてくるような気がしました。 「人救けたら我が身救かる」。その教えは今まで何度も聞かせて頂いていたけれど、実際は頭で理解しているだけで、本当の意味で心の底に治まっていなかった。 親々の信仰を受け継いで今日まで生きてきたけれど、親神様を我が心でしっかりとつかめていなかった、もたれ切れていなかったということに気づいたのです。 そして、「このお言葉が真実なら、親神様は絶対におられる! このお言葉通りに実行して命をたすけて頂いたら、この親神様は絶対に間違いのない真実の神様である」と思えたのです。この病は私にとって、目に見えない親神様のお姿を心で感じ取るための大きなチャンスでもありました。 ある教会の先生からは、「固い鉄は、熱い火が溶かす。やわらかい身体に出来た固いしこりは、熱い心が溶かす。熱い心とは、人をたすける心である」と聞かせて頂きました。 人をたすけるとは、病んで苦しんでおられる方におさづけを取り次がせて頂くこと。これしかありません。この時ほど、教祖から尊いおさづけの理を頂戴していたことを有難く思ったことはありませんでした。 「人救けたら我が身救かる」との教祖のお言葉を胸に、病院中をおさづけの取り次ぎに回らせて頂きました。 見ず知らずの人におさづけを取り次ぐのは、とても大変なことでしたが、当時の私はそんな悠長なことを言っている場合ではありませんでした。「もっとおさづけを取り次がせて頂けば良かった」と、悔いを残すことは出来ませんでしたから。必死に我が心と戦いながら、病室から病室へと回らせて頂きました。 そんな私のたすかりを願い、主人は3月のまだ寒い中、水ごりをして十二て頂いている今、一分一秒、この瞬間生かされていることをしっかり喜ばせてもらいなさい」と聞かせてくれました。それは、いつでも教祖のひながたを心の頼りとして懸命に通ってきた親の言葉でした。 そして、来たる手術の日。教祖のお言葉を心に置き、10時間にも及ぶと予定されていた手術に臨みました。お腹の筋肉に付着していた腫瘍が、今まさに内臓を食いつぶしにかかろうとしている状態でしたが、お腹を切り開いたと同時に、その腫瘍が「ポーン」とゴムまりのように出てきたそうです。 そのため、10時間の予定が二時間半で手術を終えることが出来たのです。 この経験を通して、辛い人生のふしに出会った時、先を案じることなく、ひたすら親神様を信じ、心穏やかに神名を唱え、もたれ切ることが何より大切なのだと実感することができました。また、教祖のお言葉を聞かせて頂き、一つずつ素直に実行していくことの大切さも、この病気を通して心から感じさせて頂きました。 だけど有難い「忘れる力」 先日、テレビを見ていたら、長年、認知症の方の世話取りをしている人が、こんな話をしていました。あるとき認知症の方が、ベッドの上に身の回りの物を並べて捜し物をしていたので、「お手伝いしましょうか。何を捜しているのですか」と声を掛けたら、「それが分かったら苦労するか!」と答えが返ってきたそうです。 認知症とまでいかなくても、人は歳とともに物忘れをするようになります。私も、人の名前をよく忘れます。顔は分かっているのに名前が出てこないのです。大事なことをうっかり忘れることもあるので、メモを取るのを習慣にしています。寝るときも枕元に必ずメモ用紙を置いて、夜中に急に起きて書き込むこともあります。 妻も物忘れが多いので、メモを取るように勧めたことがあります。その後、メモを取るようになったのですが、それでも大事なことを忘れることがありました。「なぜ、メモを取らなかった?」と尋ねると、妻は「メモは取ったが、見るのを忘れた」と答えました。習慣になっていないと、メモだけ取ってもだめなのですね。 こんな話をすると、私が物忘れをすることに不足していると思われるかもしれません。実は、その反対に喜んでいるのです。もちろん、人に迷惑をかける場合は喜んでいられません。けれども私は、自分が実にくだらないことにとらわれたり、くよくよ悩んだりする人間だということをよく知っています。もし、忘れることがなかったら、失敗したことや、厳しく叱られたことをくよくよ悩んで、夜も眠れないでしょう。忘れるから、ゆっくりできるのです。こう考えると「忘れる」ということも、神様のご守護として喜ぶことができます。 記憶力というのがあるように、「忘れる力」があってよいのです。「最近、記憶力がなくなってきた」と言うのは当たっていないのです。「最近、忘れる力がますます向上してきた」と言うべきではないかと思います。歳とともに記憶力が低下するのは、ある意味では大変結構なことなのです。体はだんだん衰えていくのに記憶力が低下しなければ、イライラすることばかり増えて、しょうがありません。神様が、ちょうど良いようにしてくださっているのです。 これは勘違いということなのかもしれませんが、こんなことがありました。 私の父がいよいよ衰弱してきたときに、お医者さんが「いかがですか」と容体を尋ねました。これに対して、父は「私はこの歳まで生かしてもらい、子供も七人与えていただいた。孫も次々生まれ、誰一人欠けることなく通らせてもらっている。こんな結構なことはない。なんにも言うことはありません」と言ったのです。 お医者さんは容体を聞いたのです。しかし父は、信仰で答えたのです。そのおかげで、私たち家族は喜ばせてもらいました。人生の黄昏時を迎えたときに、何も言うことがない、結構だという父の気持ちを聞くことができました。もしあのとき、父が勘違いをしていなかったら、こんなうれしい話は聞けなかったと思います。ですから「勘違い」も「忘れること」も、ご守護だと思えるのです。 私たちは、一人でも多くの方をおぢばへ連れ帰らせていただこうと、声掛けをさせていただいています。私たちの先人・先輩方もそうであったように、声を掛けても、すんなり聞いてくれる人ばかりではありません。むしろ、迷惑に思う人もいます。 先人は厳しい迫害・弾圧のなかを通り抜けてこられました。いまでも、あまり褒められることはなく、暴言を吐かれることのほうが多いのです。そんなときに、この「忘れる力」を発揮したいと思います。私たちの先輩は、この力を大いに発揮しました。何事もなかったかのように、翌日また声を掛けに行ったのです。そして意外にも、行ってみれば、おぢばへ帰ってくださるということがあるのです。ですから、コロッと忘れて声掛けをすることが大事なのです。 つまらないことにこだわったり、とらわれたりするのではなく、「忘れる力」も大いに発揮して神様の御用をさせていただきましょう。 (終)
産後に起きた大激変
27-09-2024
産後に起きた大激変
産後に起きた大激変 静岡県在住  末吉 喜恵 私は双子を含む五人の子供を育てる母親です。教会で育ち、少年会の活動などで幼い頃から多年齢の子供とふれ合い、大きくなってからも小さな子と遊ぶのが常で、自分では子供好きを自覚していました。 なので、赤ちゃんが生まれたら、子育ては自然にできると思っていたし、我が子を当たり前のように可愛がれるのだろうと思っていました。泣き始めたら、「今はお腹が空いてるんだな」とか、「おしっこが出たのかな」とか、そんなことも自然に分かるのだろうと。 でも、実際はそうではなかったのです。初めての子育ては、本当に分からないことだらけ! 何で泣いているかなんて、最初は全然分かりませんでした。生後一カ月ほどして、赤ちゃんと一緒の生活にリズムが出来てきた頃にようやく、「お腹が空いているのかな?おむつなのかな?」と、感じられるようになったことを思い出します。 産後の女性に起きること、それは四つの大激変です。 一つ目は、身体的な変化。予想外のダメージが連続します。出産とは、大怪我を負うようなものだと言われています。分娩をスムーズにするために会陰切開をしたり、帝王切開でお腹を切った後も、それはそれは痛いです! 双子を産んだ時は帝王切開で、産後一カ月は痛みが消えませんでした。 また、授乳は予想以上に重労働で、初めは時間もまちまちで赤ちゃんの姿勢も定まらないし、小さい赤ちゃんは大事に扱わなくてはいけないので、神経を使います。母乳で育てた方が丈夫な子に育つ、という周りからの助言がプレッシャーになったことも正直ありました。 二つ目は、精神的な変化です。突然母親になり、不安を抱えながらも自分がやるしかない状態に放り込まれます。妊娠中に色々な本を読んだり、出産準備のための教室を受けたりしましたが、実際に命を預かるのとは大違いで、戸惑うことばかり。その重さに知らず知らずのうちに自分にプレッシャーをかけてしまいます。 三つ目は、時間的環境の変化。徹底的に時間が細分化され、自分のための時間がゼロになります。赤ちゃんのお世話をするのに、夜昼の区別もなくなり、授乳、おむつ替え、抱っこ、寝かしつけなどなど、休む間もなく24時間稼働状態になります。いつ何が起きるのか分からないので、自分の時間はもちろんないし、トイレに行くことさえもままならない。こんな状態がいつまで続くのか、終わりが見えず不安になります。 四つ目は、社会的環境の変化です。核家族化が進む中、私も夫と赤ちゃんと三人で暮らしていました。外出もできず、話し相手がまったくいないというのは本当にしんどくて、社会から取り残されたような感覚に追い込まれます。私は妊娠期に仕事もやめたので、収入面での不安もありました。 仕事とは異なるスキルが必要で、ましてや相手は生身の人間ですから、思うようにいかないことが多く、毎日お世話をこなすだけで精一杯です。加えて、それまでは自分の名前で呼ばれていたのに、赤ちゃんと常にセットなので、急に「〇〇ちゃんのお母さん」と言われ始め、まるで自分の存在がなくなったようでした。 赤ちゃんは、一人では生きていけない存在であり、常に誰かのお世話を必要としています。もともと母親一人で子育てをするのは難しいことなのですが、しかし現実はどうでしょう? 多くの母親が周りに頼る人がおらず、不安や孤独を感じている場合が多いと思います。 ガルガル期というものを知っていますか? 産後にホルモンバランスが崩れて、情緒不安定になる時期のことで、私も経験しました。この時多量に分泌されるオキシトシンというホルモンは、子供や夫に対して愛情を深める働きを持っているのですが、産後は子供を守るために周囲に対して攻撃的になってしまうという作用もあるのです。大好きな夫にすら、「近くに来ないで!」と思った瞬間もありました。自分でもびっくりです。 それに加え、双子を出産した直後は、夜泣きがひどく眠れない日が続きました。子供は可愛い!でも、虐待してしまうお母さんの気持ちも分かるような気がする…というところまで気持ちが落ち込んだ時期もありました。 片方が寝たと思ったら、もう片方が起きるの繰り返し。二人が一度に泣くこともざらにあり、泣きの一時間コース、二時間コースはほぼ毎日。「今日はオールナイト」という日もあり、そんな状態が三年間続きました。 産後はホルモンバランスが急激に変化するので、いつも以上に不安や孤独を感じやすく、その母親を周りのみんなで支え、子供を育てていくのが本来のあり方なのです。これは「共同養育」と呼ばれていますが、これも「子供はみんなで育てるもの」と私たちが自然に思うようにしてくださる、神様の不思議なご守護なのです。しかし現実には多くの家庭で、子育ての負担が母親に大きくのしかかっています。 そうした時期に必要なのは、アドバイスでもなく、がんばれの言葉でもなく、この大変さを分かってくれる人、共感してくれる人が周囲に一人でもいること、そしてもう一つは、身体を休めること、「休息」だと思います。 赤ちゃんを産んだお母さんに寄り添い、周りのみんなで支えていける社会になることを願っています。 てびき 『天理教教典』第六章は「てびき」と題され、親神様が何ゆえに私たちをこの道にお引き寄せくださるのか、その篤き親心のほどが記されています。 親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。   なにゝてもやまいいたみハさらになし  神のせきこみてびきなるそや (二 7)   せかいぢうとこがあしきやいたみしよ  神のみちをせてびきしらすに (二 22) 即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ。 さて、教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、こんな逸話が残されています。 山中忠七さんの妻・そのさんは、二年越しの痔の病が悪化して危篤の状態となり、何日もの間、流動物さえ喉を通らず、医者にも匙を投げられてしまいました。そんな時、近隣の者から話を聞いた忠七さんが、教祖のお屋敷を訪ねると、次のようなお言葉がありました。 「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで」 親神様による「てびき」の実際を伝えたお話です。私たち人間は、陽気ぐらしを見て共に楽しみたいと望まれる親神様によって創造されました。すべての人間は、陽気ぐらし実現のための種を持つ存在として生かされているのであって、それが皆が幸せを求めてやまない理由です。しかし、その望みは必ずしも直ちに成就するものではありません。誤って自ら方向を狂わせてしまうからです。 親は、子供が可愛いからこそ、その思案や行動がもどかしく、時に腹を立てることもあります。意見や躾も厳しくなるでしょう。親神様はこのように仰せになります。   にんけんもこ共かわいであろをがな  それをふもふてしやんしてくれ (十四 34)   にち/\にをやのしやんとゆうものわ  たすけるもよふばかりをもてる  (十四 35) 私たちを何とか陽気ぐらしへ導こうとされる親心が、実に率直に表れているおうたです。その親心に応えて心を正すところに、親神様はその心を受け取ってご守護をくださるのです。 病気や事情の嘆きの中に身を落とし込んでしまうばかりでは、事態は改善しません。大切なのは、親神様の慈愛のてびきを受け止め、前を向いて立ち上がることではないでしょうか。 (終)