天理教の時間「家族円満」

TENRIKYO

心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。 read less
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エピソード

神様にもたれて通る
2日前
神様にもたれて通る
神様にもたれて通る 岐阜県在住  伊藤 教江 「あなた、このままだと死にますよ! すぐに入院、手術です!」 そうお医者さんから言われたのは、今から遡ること35年前でした。 私は人生の大きな岐路に立たされていました。子供の頃から大きな病気もせず元気に過ごしてきた私にとって、その言葉はあまりに衝撃的で、とても受け入れられるものではありませんでした。 「嘘でしょ…何かの間違いに決まってる。だって、痛くも痒くもない。食欲もある。今だって元気に動き回ってるし…」 確かに私のお腹には、いつからか小さな固いしこりが出来始めていました。それでも、「大したことはない」と少しも気に留めていませんでした。ただ、母が心配してくれていたので、母に安心してもらうために「まあ、一度病院で診てもらおうか」と、とても軽い気持ちで診察を受けました。 その後、いくつかの検査によってデスモイド腫瘍が見つかり、冒頭のお医者さんからの一言で、私の心は一瞬にして奈落の底に落ちたのです。  病院からの帰り道、今まで当たり前に見てきた街並みや、道端の小さな草花、流れる川さえもが愛おしく感じられ、「きっと、私がいなくなっても何事も変わらず、来年もまた花は綺麗に咲き、川も止めどなく流れ、時は過ぎていくんだろうなあ…」と、命のはかなさを感じ、ただただ涙を流したのでした。 当時、私にはまだ幼い二歳と一歳の二人の娘がいました。 「この子たちを置いて死ぬわけにはいかない! もし私がここで死んだら、この先この子たちはどうなるんだろう…。お願いです!何とか救けてください! 山ほど借金して、世界中から名医を探し出してでも、命を救けてもらいたい! たとえ動けなくなっても、どんな姿になっても命だけは救けてもらいたい!」 何度も何度も、どれほど心の中で叫んだことでしょう。しかし、どんなに望んでも願っても、思い通り、願い通りにはならないのが現実です。 そんな時、「人を救けたら我が身が救かるのや」という教祖のお声が、繰り返し繰り返し聞こえてくるような気がしました。 「人救けたら我が身救かる」。その教えは今まで何度も聞かせて頂いていたけれど、実際は頭で理解しているだけで、本当の意味で心の底に治まっていなかった。 親々の信仰を受け継いで今日まで生きてきたけれど、親神様を我が心でしっかりとつかめていなかった、もたれ切れていなかったということに気づいたのです。 そして、「このお言葉が真実なら、親神様は絶対におられる! このお言葉通りに実行して命をたすけて頂いたら、この親神様は絶対に間違いのない真実の神様である」と思えたのです。この病は私にとって、目に見えない親神様のお姿を心で感じ取るための大きなチャンスでもありました。 ある教会の先生からは、「固い鉄は、熱い火が溶かす。やわらかい身体に出来た固いしこりは、熱い心が溶かす。熱い心とは、人をたすける心である」と聞かせて頂きました。 人をたすけるとは、病んで苦しんでおられる方におさづけを取り次がせて頂くこと。これしかありません。この時ほど、教祖から尊いおさづけの理を頂戴していたことを有難く思ったことはありませんでした。 「人救けたら我が身救かる」との教祖のお言葉を胸に、病院中をおさづけの取り次ぎに回らせて頂きました。 見ず知らずの人におさづけを取り次ぐのは、とても大変なことでしたが、当時の私はそんな悠長なことを言っている場合ではありませんでした。「もっとおさづけを取り次がせて頂けば良かった」と、悔いを残すことは出来ませんでしたから。必死に我が心と戦いながら、病室から病室へと回らせて頂きました。 そんな私のたすかりを願い、主人は3月のまだ寒い中、水ごりをして十二て頂いている今、一分一秒、この瞬間生かされていることをしっかり喜ばせてもらいなさい」と聞かせてくれました。それは、いつでも教祖のひながたを心の頼りとして懸命に通ってきた親の言葉でした。 そして、来たる手術の日。教祖のお言葉を心に置き、10時間にも及ぶと予定されていた手術に臨みました。お腹の筋肉に付着していた腫瘍が、今まさに内臓を食いつぶしにかかろうとしている状態でしたが、お腹を切り開いたと同時に、その腫瘍が「ポーン」とゴムまりのように出てきたそうです。 そのため、10時間の予定が二時間半で手術を終えることが出来たのです。 この経験を通して、辛い人生のふしに出会った時、先を案じることなく、ひたすら親神様を信じ、心穏やかに神名を唱え、もたれ切ることが何より大切なのだと実感することができました。また、教祖のお言葉を聞かせて頂き、一つずつ素直に実行していくことの大切さも、この病気を通して心から感じさせて頂きました。 だけど有難い「忘れる力」 先日、テレビを見ていたら、長年、認知症の方の世話取りをしている人が、こんな話をしていました。あるとき認知症の方が、ベッドの上に身の回りの物を並べて捜し物をしていたので、「お手伝いしましょうか。何を捜しているのですか」と声を掛けたら、「それが分かったら苦労するか!」と答えが返ってきたそうです。 認知症とまでいかなくても、人は歳とともに物忘れをするようになります。私も、人の名前をよく忘れます。顔は分かっているのに名前が出てこないのです。大事なことをうっかり忘れることもあるので、メモを取るのを習慣にしています。寝るときも枕元に必ずメモ用紙を置いて、夜中に急に起きて書き込むこともあります。 妻も物忘れが多いので、メモを取るように勧めたことがあります。その後、メモを取るようになったのですが、それでも大事なことを忘れることがありました。「なぜ、メモを取らなかった?」と尋ねると、妻は「メモは取ったが、見るのを忘れた」と答えました。習慣になっていないと、メモだけ取ってもだめなのですね。 こんな話をすると、私が物忘れをすることに不足していると思われるかもしれません。実は、その反対に喜んでいるのです。もちろん、人に迷惑をかける場合は喜んでいられません。けれども私は、自分が実にくだらないことにとらわれたり、くよくよ悩んだりする人間だということをよく知っています。もし、忘れることがなかったら、失敗したことや、厳しく叱られたことをくよくよ悩んで、夜も眠れないでしょう。忘れるから、ゆっくりできるのです。こう考えると「忘れる」ということも、神様のご守護として喜ぶことができます。 記憶力というのがあるように、「忘れる力」があってよいのです。「最近、記憶力がなくなってきた」と言うのは当たっていないのです。「最近、忘れる力がますます向上してきた」と言うべきではないかと思います。歳とともに記憶力が低下するのは、ある意味では大変結構なことなのです。体はだんだん衰えていくのに記憶力が低下しなければ、イライラすることばかり増えて、しょうがありません。神様が、ちょうど良いようにしてくださっているのです。 これは勘違いということなのかもしれませんが、こんなことがありました。 私の父がいよいよ衰弱してきたときに、お医者さんが「いかがですか」と容体を尋ねました。これに対して、父は「私はこの歳まで生かしてもらい、子供も七人与えていただいた。孫も次々生まれ、誰一人欠けることなく通らせてもらっている。こんな結構なことはない。なんにも言うことはありません」と言ったのです。 お医者さんは容体を聞いたのです。しかし父は、信仰で答えたのです。そのおかげで、私たち家族は喜ばせてもらいました。人生の黄昏時を迎えたときに、何も言うことがない、結構だという父の気持ちを聞くことができました。もしあのとき、父が勘違いをしていなかったら、こんなうれしい話は聞けなかったと思います。ですから「勘違い」も「忘れること」も、ご守護だと思えるのです。 私たちは、一人でも多くの方をおぢばへ連れ帰らせていただこうと、声掛けをさせていただいています。私たちの先人・先輩方もそうであったように、声を掛けても、すんなり聞いてくれる人ばかりではありません。むしろ、迷惑に思う人もいます。 先人は厳しい迫害・弾圧のなかを通り抜けてこられました。いまでも、あまり褒められることはなく、暴言を吐かれることのほうが多いのです。そんなときに、この「忘れる力」を発揮したいと思います。私たちの先輩は、この力を大いに発揮しました。何事もなかったかのように、翌日また声を掛けに行ったのです。そして意外にも、行ってみれば、おぢばへ帰ってくださるということがあるのです。ですから、コロッと忘れて声掛けをすることが大事なのです。 つまらないことにこだわったり、とらわれたりするのではなく、「忘れる力」も大いに発揮して神様の御用をさせていただきましょう。 (終)
産後に起きた大激変
27-09-2024
産後に起きた大激変
産後に起きた大激変 静岡県在住  末吉 喜恵 私は双子を含む五人の子供を育てる母親です。教会で育ち、少年会の活動などで幼い頃から多年齢の子供とふれ合い、大きくなってからも小さな子と遊ぶのが常で、自分では子供好きを自覚していました。 なので、赤ちゃんが生まれたら、子育ては自然にできると思っていたし、我が子を当たり前のように可愛がれるのだろうと思っていました。泣き始めたら、「今はお腹が空いてるんだな」とか、「おしっこが出たのかな」とか、そんなことも自然に分かるのだろうと。 でも、実際はそうではなかったのです。初めての子育ては、本当に分からないことだらけ! 何で泣いているかなんて、最初は全然分かりませんでした。生後一カ月ほどして、赤ちゃんと一緒の生活にリズムが出来てきた頃にようやく、「お腹が空いているのかな?おむつなのかな?」と、感じられるようになったことを思い出します。 産後の女性に起きること、それは四つの大激変です。 一つ目は、身体的な変化。予想外のダメージが連続します。出産とは、大怪我を負うようなものだと言われています。分娩をスムーズにするために会陰切開をしたり、帝王切開でお腹を切った後も、それはそれは痛いです! 双子を産んだ時は帝王切開で、産後一カ月は痛みが消えませんでした。 また、授乳は予想以上に重労働で、初めは時間もまちまちで赤ちゃんの姿勢も定まらないし、小さい赤ちゃんは大事に扱わなくてはいけないので、神経を使います。母乳で育てた方が丈夫な子に育つ、という周りからの助言がプレッシャーになったことも正直ありました。 二つ目は、精神的な変化です。突然母親になり、不安を抱えながらも自分がやるしかない状態に放り込まれます。妊娠中に色々な本を読んだり、出産準備のための教室を受けたりしましたが、実際に命を預かるのとは大違いで、戸惑うことばかり。その重さに知らず知らずのうちに自分にプレッシャーをかけてしまいます。 三つ目は、時間的環境の変化。徹底的に時間が細分化され、自分のための時間がゼロになります。赤ちゃんのお世話をするのに、夜昼の区別もなくなり、授乳、おむつ替え、抱っこ、寝かしつけなどなど、休む間もなく24時間稼働状態になります。いつ何が起きるのか分からないので、自分の時間はもちろんないし、トイレに行くことさえもままならない。こんな状態がいつまで続くのか、終わりが見えず不安になります。 四つ目は、社会的環境の変化です。核家族化が進む中、私も夫と赤ちゃんと三人で暮らしていました。外出もできず、話し相手がまったくいないというのは本当にしんどくて、社会から取り残されたような感覚に追い込まれます。私は妊娠期に仕事もやめたので、収入面での不安もありました。 仕事とは異なるスキルが必要で、ましてや相手は生身の人間ですから、思うようにいかないことが多く、毎日お世話をこなすだけで精一杯です。加えて、それまでは自分の名前で呼ばれていたのに、赤ちゃんと常にセットなので、急に「〇〇ちゃんのお母さん」と言われ始め、まるで自分の存在がなくなったようでした。 赤ちゃんは、一人では生きていけない存在であり、常に誰かのお世話を必要としています。もともと母親一人で子育てをするのは難しいことなのですが、しかし現実はどうでしょう? 多くの母親が周りに頼る人がおらず、不安や孤独を感じている場合が多いと思います。 ガルガル期というものを知っていますか? 産後にホルモンバランスが崩れて、情緒不安定になる時期のことで、私も経験しました。この時多量に分泌されるオキシトシンというホルモンは、子供や夫に対して愛情を深める働きを持っているのですが、産後は子供を守るために周囲に対して攻撃的になってしまうという作用もあるのです。大好きな夫にすら、「近くに来ないで!」と思った瞬間もありました。自分でもびっくりです。 それに加え、双子を出産した直後は、夜泣きがひどく眠れない日が続きました。子供は可愛い!でも、虐待してしまうお母さんの気持ちも分かるような気がする…というところまで気持ちが落ち込んだ時期もありました。 片方が寝たと思ったら、もう片方が起きるの繰り返し。二人が一度に泣くこともざらにあり、泣きの一時間コース、二時間コースはほぼ毎日。「今日はオールナイト」という日もあり、そんな状態が三年間続きました。 産後はホルモンバランスが急激に変化するので、いつも以上に不安や孤独を感じやすく、その母親を周りのみんなで支え、子供を育てていくのが本来のあり方なのです。これは「共同養育」と呼ばれていますが、これも「子供はみんなで育てるもの」と私たちが自然に思うようにしてくださる、神様の不思議なご守護なのです。しかし現実には多くの家庭で、子育ての負担が母親に大きくのしかかっています。 そうした時期に必要なのは、アドバイスでもなく、がんばれの言葉でもなく、この大変さを分かってくれる人、共感してくれる人が周囲に一人でもいること、そしてもう一つは、身体を休めること、「休息」だと思います。 赤ちゃんを産んだお母さんに寄り添い、周りのみんなで支えていける社会になることを願っています。 てびき 『天理教教典』第六章は「てびき」と題され、親神様が何ゆえに私たちをこの道にお引き寄せくださるのか、その篤き親心のほどが記されています。 親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。   なにゝてもやまいいたみハさらになし  神のせきこみてびきなるそや (二 7)   せかいぢうとこがあしきやいたみしよ  神のみちをせてびきしらすに (二 22) 即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ。 さて、教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、こんな逸話が残されています。 山中忠七さんの妻・そのさんは、二年越しの痔の病が悪化して危篤の状態となり、何日もの間、流動物さえ喉を通らず、医者にも匙を投げられてしまいました。そんな時、近隣の者から話を聞いた忠七さんが、教祖のお屋敷を訪ねると、次のようなお言葉がありました。 「おまえは、神に深きいんねんあるを以て、神が引き寄せたのである程に。病気は案じる事は要らん。直ぐ救けてやる程に。その代わり、おまえは、神の御用を聞かんならんで」 親神様による「てびき」の実際を伝えたお話です。私たち人間は、陽気ぐらしを見て共に楽しみたいと望まれる親神様によって創造されました。すべての人間は、陽気ぐらし実現のための種を持つ存在として生かされているのであって、それが皆が幸せを求めてやまない理由です。しかし、その望みは必ずしも直ちに成就するものではありません。誤って自ら方向を狂わせてしまうからです。 親は、子供が可愛いからこそ、その思案や行動がもどかしく、時に腹を立てることもあります。意見や躾も厳しくなるでしょう。親神様はこのように仰せになります。   にんけんもこ共かわいであろをがな  それをふもふてしやんしてくれ (十四 34)   にち/\にをやのしやんとゆうものわ  たすけるもよふばかりをもてる  (十四 35) 私たちを何とか陽気ぐらしへ導こうとされる親心が、実に率直に表れているおうたです。その親心に応えて心を正すところに、親神様はその心を受け取ってご守護をくださるのです。 病気や事情の嘆きの中に身を落とし込んでしまうばかりでは、事態は改善しません。大切なのは、親神様の慈愛のてびきを受け止め、前を向いて立ち上がることではないでしょうか。 (終)
優先順位
20-09-2024
優先順位
優先順位  大阪府在住  山本 達則 ある日、何気なくインターネットを検索していると、海外のあるお話に出会いました。「マヨネーズの瓶と二杯のコーヒー」というタイトルで、海外でも大きな反響があったお話です。 ある大学の哲学の教授が、授業が始まると、空っぽのマヨネーズの瓶を取り出し、その中にゴルフボールを入れていっぱいにしました。次に教授は小石の入った箱を取り出し、それを瓶の中にあけ始め、ゴルフボールの間を小石で埋めました。 次に教授は砂の入った箱を取り出し、それもまた瓶の中に入れて隙間を埋めました。そして最後に、二杯のコーヒーを取り出して瓶に注ぎ、砂の隙間をすべて埋め尽くしました。不思議な組み合わせに、学生たちは笑い出しました。 「さて」、笑いが静まると、教授は言いました。 「この瓶は、あなた方の人生を表しています。最初に入れたゴルフボールは、人生で最も大切なものです。それは家族であり、健康であり、友人、情熱など、それさえあれば、あなたの人生は満ち足りたものになります。次に入れた小石は、仕事や家、車など。次の砂は、その他のほんの小さな、ささいなものです。 人生において重要なこと、『ゴルフボール』を大事にしてください。子供と一緒に遊び、健康診断を受け、パートナーと一緒に食事を楽しんでください。掃除や物の修理など、家のことをする時間はいつでもあります。 大切なのは、優先順位を間違わないということです。小石や砂で人生を満たしてしまっては、ゴルフボールの入る余地がなくなります」 ここまで話すと、一人の学生が「コーヒーは何を表しているのですか?」と尋ねました。教授は、「あなたの人生がどれだけ手一杯に見えても、友人とコーヒーを飲む時間はいつでもあるということを表しています」と言って、微笑みました。 人間は誰しも、欲望や損得勘定で動いたり、人の好き嫌いで対応を変えたり、いわゆる「自己中心的」な考えを持っています。そしてその感情は、「家族」に対しても向けられることが多々あります。夫は仕事が忙しくなると、妻や子供の声に耳を傾けなくなったり、邪険にしてしまったりすることがあります。 また、家事を担っている妻にしても、余裕がなくなると、夫の仕事に理解を持てなくなったり、思い通りにならない日常にイライラして、家族に当たってしまうということもあるでしょう。子供は子供で、願い通りにならないことに突き当たると、家族に対する態度や言動が粗暴になることもあるかも知れません。私自身も父親として家族と過ごす中で、大いに心当たりのあることです。 このような日常を俯瞰してみると、夫は家族の幸せのために、必死になって仕事をしている中でのこと。家事を担っている妻にしても、家族のことを大切に思うがあまり、行き過ぎた行動に出てしまうのだと思います。 このように、私たちは優先順位を間違ってしまうことがあるのです。お互いの人生という器の中に、何よりも大切な「家族」というゴルフボールを入れる前に、「仕事」や「家事」、すなわち小石や砂で瓶を満たしてしまっているのです。 もちろん、仕事や家事は適当にこなせばいい、ということではありません。何より大切なのは、家族や周りの人たちに対する「心」の使い方ではないでしょうか。 腹が立つけれど、笑ってみよう。面倒だけど、自分から進んでやってみよう。相手が悪いと思っても、こちらから謝ってみよう。忙しい時でも、しっかり相手の話に耳を傾けよう。そういった心の使い方が、ゴルフボールで満たされる人生につながっていくのだと思います。 天理教では、ご守護を十分に頂くための「順序」の大切さを教えられています。 「まいたるたねハみなはへる」 「人をたすけて我が身たすかる」 まず、種を蒔くという行動があってこそ、その先に芽生えを見ることができます。また、あくまで人をたすけて我が身がたすかるのであって、「自分がたすかったら人をたすけますよ」では順番が逆なのです。それではいつまで経っても、神様のご守護に浴することはできません。 地球上のすべての人は、「幸せになりたい」という願いを持ち合わせています。80億人の人がいれば、80億通りの幸せの形があります。同じ家族の中でも四人いれば四通り、五人なら五通りの「幸せの形」があるでしょう。 私たちは、たとえ家族といえども、人の感情や思いをコントロールすることはできません。自分でコントロール出来るのは、自分自身の心だけです。 その自由になる心を、自分の喜びや欲得のために使うのではなく、人様のために費やすことが、遠回りのようでいて、幸せを心から実感できるための一番の近道ではないかと思います。 空いた時間、たまにはコーヒーを飲みながら友人と語らい、自分自身の日常を振り返ってみてはいかがでしょうか。 神、月日、をや 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、親神様の存在とはいかなるものか、私たち人間が得心しやすいように様々な言い方でお示しくだされています。直筆による「おふでさき」において、はじめは「神」といい、次には「月日」と呼び、さらには「をや」と言い表しています。 神という言葉は、当時、信仰の対象を指すものとして一般的に広く使われており、庶民の多くは、福を招き、禍を避けるためにあらゆる神々に祈願していたものです。そのような背景の中、教祖は、   たすけでもをかみきとふでいくてなし  うかがいたてゝいくでなけれど (三 45) と仰せられ、親神様は、それまでに拝み祈祷の対象とされていた神々とは全く違う存在であることを示されました。親神様こそ、この世界と人間を造り、昔も今も変わることなく人間の身体から日々の暮らしに至るまで全てを守護している神である。そのお働きを、この世を創めた神、元こしらえた神、真実の神などと言葉を添えてお説きくだされています。 また、次に親神様を「月日」と呼び、空に仰ぎ見る太陽や月によせて、より具体的にその存在を感じ取れるよう導かれました。太陽の光と熱は、あらゆる物の命の源であり、夜の暗がりを照らす月の明かりもまた、地球の生命にとって欠くことのできない恵みです。 しかもそれらは、何の分け隔てもせず、惜しむことなくこの世のすべてを照らし出している。このような姿を指しながら、昼夜を分かたず、すべての存在に恵みを与えられる親神様の存在を示されたのです。 そしてさらには「をや」という言葉で、身近な肉親への情を喚起させるよう、親しみを込めて親神様を言い表しています。すなわち、親神様ははるか彼方にあり、絶対の立場から人間を支配される、そのような遠い存在ではない。むしろ私たち人間のもとへと、どこまでも身を寄せられつつご守護くださる神様であり、いついかなる時も、すがることのできる親身の親であることを示されたのです。   にんけんもこ共かわいであろをがな  それをふもをてしやんしてくれ (十四 34)   にち/\にをやのしやんとゆうものわ  たすけるもよふばかりをもてる (十四 35)   せかいぢう神のたあにハみなわがこ  一れつハみなをやとをもゑよ (四 79) これらのお歌からあふれ出る親としての情愛は、いかばかりでしょう。親神様こそ、全人類、すべての子供が可愛いという親心から、人間本来の生き方である陽気ぐらしが実現できるようにと、日夜心を砕き、お見守りくださる真実の神なのです。 (終)
SNSたすけ
13-09-2024
SNSたすけ
SNSたすけ 千葉県在住  中臺 眞治 四年前、世間はコロナ禍となり、私たち家族も「ステイホーム」ということで、教会の中で過ごしていましたが、元々信者さんが一人もいない教会なので、何をしたらいいのか分からないという日々でした。そうした状況の中、私自身、神様から何かを問われているような気がして、夫婦でよく相談をしていました。 そんなある日、天理教青年会主催の「SNSたすけセミナー」が開催され、私も参加しました。「SNSたすけ」とは、SNS上で「生きる気力がない」というようなメッセージを発信している方とつながりを持ち、相談に乗る活動です。そして、必要な場合には教会で受け入れ、衣食住を提供しながら、その方が生き抜いていけるように手だすけをします。 私どもの教会には空いている部屋がいくつかあるので、これなら自分たちにも出来ると思い、妻と半年ほどの相談期間を経て、コロナ禍の令和3年3月に始め、現在まで29名を受け入れました。 活動を始めて間もない頃、ある30代の女性、Aさんとつながりができました。Aさんはすでに自ら命を絶つ日を決めていて、その日までのカウントダウンを日々SNS上で更新しながら、一緒に死んでくれる人を募っていました。 もしかしたら、教会の中で自殺してしまう可能性もあり、妻にその不安を話しましたが、最終的には二人で覚悟を決め、教会でお預かりすることになりました。 教会で暮らし始めてからも、カウントダウンは日々更新され、心配な状況は続きましたが、うちの子供たちを可愛がってくれたり、他の入居者の方とテレビを見ながら大笑いしたりと、楽しそうな姿も見られました。 日によって色々なことがありましたが、数週間が経った頃、Aさんがふと「今は死にたいなんて全く思わないです」と話してくれたことがあり、私たち夫婦もとても嬉しい気持ちになりました。おそらくAさんは、教会で入居者の方や私たち家族と共に過ごすうちに、それまで感じていた孤独感や絶望感が徐々に心の中から消えていったのだと思います。 その後、Aさんのお父さんが教会へお礼に来てくださいました。 「心配でしたが、家族にはどうすることも出来ませんでした。この教会にお世話になっていなかったら、娘は生きていなかったと思います」と、涙を浮かべて話してくださいました。 私たちが何か特別なことをしたわけではありません。振り返ってみると、神様がAさんにとってちょうどいい人との縁を、その時その時に応じてつないでくださっていたのだと思います。 Aさんはその後、一年ほど教会で暮らしながら仕事に通っていました。そして教会を出た一年後に結婚し、先日、生まれたばかりの赤ちゃんを連れて教会を訪ねて来られ、共に喜びを分かち合いました。 SNSたすけでは、Aさんのように嬉しい出会いや別れもあれば、やるせなさが残る出会いや別れもあります。しかし、それらの縁はすべて神様がつないでくださっているのだと思う時、このおたすけは、私たち夫婦にとっての有難い学びの場であると感じることができるのです。 また、こうした活動は私たち夫婦の力だけでできるものではありません。アドバイスをして下さる方、寄付などで協力をして下さる方、トラブルがあっても許して下さる近隣住民の方など、活動を理解し、応援して下さる方々のおかげで継続できている活動です。そのことを思う時、私たちもたすけて頂いているのだなあと温かい気持ちになり、困っている人を前にした時には、自分にできることを何かさせてもらおうという気持ちになるのです。 私自身、コロナ禍を振り返ってみて思うことがあります。この期間、「ソーシャルディスタンス」や「ステイホーム」が叫ばれ、人との距離をとることが大切にされる一方で、孤立や貧困の問題が浮き彫りになり、そうした報道が連日のようにされていました。 こうした社会状況にも神様の親心が込められているのだとすれば、私たち夫婦が神様から問われていたのは、信仰の有無にかかわらず色々な人と出会い、たすけ合うという生き方であったのではないかと感じています。 天理教の原典「おふでさき」では、   たん/\となに事にてもこのよふわ  神のからだやしやんしてみよ (三 40、135)   にち/\にをやのしやんとゆうものわ  たすけるもよふばかりをもてる (十四 35) と記され、この世の中は神様の懐住まいであり、神様は人間に陽気ぐらしをさせてやりたいという思いいっぱいでご守護を下さり、導いて下さっているのだと教えられます。 つまり、平穏無事な日々はもちろんですが、目の前で起こる困難にも、陽気ぐらしをさせてやりたいという神様の親心が込められているのであり、それに対してどう応えさせてもらうのか、と思案することで陽気な生き方へと軌道修正していくことができるのだと思います。 悲しみや苦しみに遭遇した時には、「どうしてこんなことが起こるのか」と落ち込んでしまうこともあります。悲しみが深ければ、それが神様の親心だとはとても思えない時もあるでしょう。そうした中で、どう応えさせてもらおうかと思案を重ねるのは簡単なことではありません。 しかし、それでもなお、「たすけるもよふばかりをもてる」とまで仰せられる、その温かい親心だけは忘れずに生き抜いていくことが、大切なのではないかと感じています。 むらかたはやくにたすけたい 天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、   むらかたはやくにたすけたい  なれどこゝろがわからいで (四下り目 六ッ)   なにかよろづのたすけあい  むねのうちよりしあんせよ (四下り目 七ッ) とあります。 村方とは、地元の人、お屋敷周辺に住まう人々のことです。近くにいる者なら尚更早くたすけたいが、なかなか神の思惑を分かってくれない、そのもどかしさが表れています。 それまでも教祖に身近に接していた近隣の人にすれば、月日のやしろとなられてからの行動は、到底理解できるものではありませんでした。「貧に落ち切れ」との親神様の思召しのままに、食べ物や着る物、金銭まで次々に施され、ついには家形まで取り払う様を側で見て、「あの人もとうとう気が違ったか。いや、憑きものやそうな」と嘲笑を浴びせ、ついには訪ねる者さえいなくなったのでした。 そうした中、教祖自らお針の師匠をつとめられ、決して教祖が憑きものでないことを人々に理解させたり、さらに安産のご守護である「をびや許し」をきっかけとして、おたすけを願い出る人が少しずつ出始めたのです。 直筆による「おふでさき」には、   村かたハなをもたすけをせへている  はやくしやんをしてくれるよふ (四 78)   せかいぢう神のたあにハみなわがこ  一れつハみなをやとをもゑよ (四 79) とあります。 村方の人々が、親神様を真実の親として慕い仰ぐようになれば、教祖のされることに疑いを持たず、子供として素直についていくことができる。そのために教祖は不思議なたすけを相次いで見せられ、やがて教祖を生き神様と慕い寄る大勢の人々で、お屋敷は賑わうようになっていったのです。 さらに教祖は、「なにかよろづのたすけあい」と、信心の歩みの目指すべき姿として、「たすけ合い」ということを仰せになり、それについて心の底からよく思案をするようにと教えられています。 「おふでさき」に、   このさきハせかいぢううハ一れつに  よろづたがいにたすけするなら (十二 93)   月日にもその心をばうけとりて  どんなたすけもするとをもゑよ (十二 94) とあります。 世界中の誰もが人をたすける心になって、たすけ合いを実践できれば、親神様はその心を受け取って、どんなたすけもすると仰せられます。そこに至るまでにまず、「むらかた」と示される、身近な人々に親神様の思召を伝えること。その大切さを、教祖は身をもってお教えくだされたのです。 (終)
20年後のラブレター
06-09-2024
20年後のラブレター
20年後のラブレター              岡山県在住  山﨑 石根 6月の初旬、妻から私宛てのハガキが届きました。ところが、その郵便を受け取った妻自身が、「あれ?何で私から手紙が届いてるんやろう?」と、心当たりがないようなのです。 よく見ると、宛名が市町村合併以前の住所になっています。そして丁寧に、「市町村合併で住所が変わるかもしれないので、その場合は天理教の教会に連絡してください」との注意書きと共に、教会の電話番号まで書かれていました。 二人で不思議がりながら通信面に目をやると、20年前の日付けと「20年先へのメッセージ」というタイトルの下に、妻の直筆の文章が書かれているではありませんか。 何と、当時29歳の妻から、20年後の私に宛てたラブレターだったのです。この年に天理市の事業として、タイムカプセルに手紙を入れるイベントがあったようで、その時に妻が出した手紙がこの時届いたのです。 「サッキー、今、元気ですか? 今、幸せですか? 私たちは互いにたすけ合って、補い合って、思いやりのある夫婦でいられてるでしょうか?あの頃の私は不足がちの毎日を通っていましたが、サッキーの優しい言葉や周りの人からの神様のお話しで、心に潤いを与えてもらいました。今の私は、逆にサッキーや周りの方々に返せているでしょうか?」 私は結婚当初、妻からサッキーと呼ばれていたのですが、その頃の彼女は、20年後もきちんと夫婦でいられているか、教会で生活をしているのか、子どもを授かっているのか。現在の私たちの様子は全く想像もつかなかったはずです。 そんな新婚ホヤホヤの若い妻からの20年越しの問いかけに、私は少し照れながら、「元気でたすけ合っているよ」と呟き、現在の彼女に「十分すぎるぐらい返してもらってるよ」と伝えました。 20年前の6月13日、私たちは天理市にある教会本部の教祖殿にて結婚式を挙げました。ご縁のあった教会本部の先生に主礼を務めて頂き、夫婦の固めの盃を頂戴しました。 今年の結婚記念日には、挙式の時に読み上げて頂いた祝詞を20年ぶりに取り出し、改めて二人で読んでみたのですが、その中の次のような内容が目に留まりました。 「未だ二人は至らぬ勝ちではございますが、今より後は互いに変わることなく、千代の契りを結び、常に教祖のひながたを心に湛えて、如何なる中も一つ心に睦び合い扶け合いつゝ日々晴れやかに心陽気につとめさせて頂く覚悟でございます」 折りしも20年前の妻からの「たすけ合っているか」との問いかけも相まって、「ああ、結婚とはこういうことなんだなあ」と改めて私は感じ入ったのです。 このように手紙であったり、祝詞もそうですが、実際に書いた文字を読み返したり手に取ることが出来ると、嬉しさも一入です。 この20年間で世の中は目まぐるしく進展し、スマートフォンやタブレットの普及により情報伝達のスピードは格段に上がりました。そのような、老若男女を問わずSNSを利用する時代になったからこそ、誰かが自筆の文字に認めてくれた想いが、一層嬉しく感じるのでしょう。 天理教の教祖「おやさま」は、ご在世中に自ら筆を執って「おふでさき」というご神言を書き残されています。「おふでさき」は天理教の原典であり、私たちが常日頃から親しみ、拝読しているものですが、この教祖のお言葉にふれる度に、20年どころか、実際に教祖が書かれた140年以上前にタイムスリップして、教祖から直接メッセージを頂いているような心持ちになるのです。 そうして私も妻と同じように、神様のお言葉によって心に潤いを与えて頂いているとすれば、これを教祖からのラブレターだと表現するのは言い過ぎでしょうか。 さて、記念日から三日後の6月16日は、世に言う「父の日」でした。その日は一日御用で、夜帰宅したのですが、何だか子どもたちが慌ただしい様子です。どうやら中2の長女に急かされながら、小6の息子と小4の娘が慌てて手紙を書いているようです。 そして、私がお風呂から上がると、3人が「とと、いつもありがとう」と言いながら、父の日の手紙を渡してくれました。長女の心のこもった手紙に比べ、下の二人の手紙はどこか書かされた感が否めない内容でしたが、それでも父親としてこれほど嬉しいことはありません。末娘の手紙には、三回分の肩もみ券まで添えられていました。 さらに翌日の月曜日には、天理の高校で寮生活を送っている息子二人からも、父の日の手紙が送られてきました。 結婚記念日に何か美味しい料理を食べに行ったり、父の日に何か高価なプレゼントをもらったりした訳ではありませんが、妻と子どもたちから何にも代えがたい贈り物を受け取った私は本当に幸せ者だと、しみじみ思いました。 今のこの気持ちをずっと忘れずに、今回のこの原稿も20年後に家族で読み返すことができたなら、どんなに幸せだろうと、まだ見ぬ未来を思い描きます。「肩もみ券」は、それまで大事にとって置こうと思います。 だけど有難い  「火水風」 親神様のお働きを十分に頂戴する通り方とは、どのようなものでしょう。 親神様は、ご自身のお働きについて端的に「火、水、風」と教えられます。それぞれ、どんなものか見てみましょう。 まず「火」。私たちは太陽の光や熱、温みなしに生きていくことはできません。そして「水」。地表の70%は水、私たちの体の70%も水で出来ています。 「火」は太陽、「水」は月。最近の研究で、月には、かなりの量の水が存在すると言われるようになりました。そしてまた、月は地球の生命にとってなくてはならないものであることが、あらためて分かってきました。 地球は自転と公転を続けています。もし月の引力がなかったら、これらの運動が不規則になり、地球環境はとてつもなく厳しいものになるというのです。地球に生命が誕生するには、太陽と地球が、ちょうどいまの距離になければならなかったということは、よく知られています。その確率も相当に低いわけですが、加えて月の存在なしに、現在の地球環境は成り立たないのだそうです。この宇宙のなかで、宝石のような地球の存在、それは太陽と月があるおかげなのです。 潮の満ち引きも、月の引力によるものです。海岸で見られるあの潮の満ち引きは、私たちの体のなかの満ち引きでもあります。人間の誕生や出直しの時期は、私たちの体と月の運行に深い関わりがあるといいます。 「火」と「水」、温みと水気の調和のおかげで、私たちは生きていくことができます。世界の平均気温が数度上がれば地球は砂漠化します。逆に下がれば氷河期がやって来ます。気温にすれば、わずか数度の違いです。同じように、私たちのこの体も、体温が三六度前後で一定しているから生きていけるのです。数度上がっても下がっても、たちまち動けなくなってしまいます。 そして、もう一つのお働きが「風」です。これは、大気や空気のことです。大気や空気は目に見えないので、その存在になかなか気づきません。それを、教祖は「風」と教えてくださいました。なるほど、見えなくても、空気が動いて風になると頬に感じるし、旗ははためきます。見えない姿が動く風になって、私たちに見えるのです。この空気、大気がなくなると、私たちは生きていけません。動物は酸素を吸って二酸化炭素を出し、植物は二酸化炭素を吸って酸素を出しています。大気というものがなかったなら、地球上の生命は存在できません。 「火、水、風」は、まさに親神様の肝心要のお働きです。では、この親神様のご守護をいっぱい頂戴するためには、どんな通り方をしたらいいのか。この道の先人先輩は、こんな悟り方をしました。それは、「火、水、風」のような心で通らせていただくということです。 まず「火」とは、どんなものでしょうか。昔は暖炉の火や囲炉裏の火がありました。火は、私たちに光と温みをたっぷりと与えてくれます。そのおかげで食事を作ることもできます。しかし、火が燃え尽きると、灰になります。蝋燭の火でいえば、最後まで周りを照らして自分は消えてなくなるのです。 「水」はどうでしょう。水は低い所へ流れていって、しかも周りの汚れを取っていく働きをします。「風」もなくてはならないものですが、私たちの目には見えません。見えないけれど、大切な陰の働きをしているのです。 火のような姿とは、周りを温め、輝かせ、そして自分は消えていくような働き方。水のような姿とは、低い心で、人の汚れを自分が被るような通り方。風のような姿とは、大切な仕事をしながらも自己主張をしない陰のつとめ方。こうした「火、水、風」のような心の姿勢で私たちが通れば、間違いなく、親神様のお働きを十分に受けることができると思います。 (終)
おさづけは世界共通
30-08-2024
おさづけは世界共通
おさづけは世界共通 タイ在住  野口 信也 私は22歳の時にタイへ留学に出させてもらいましたが、一か月を過ぎた頃、父が倒れたとの連絡があり、日本へ一時帰国しました。そうした節もあり、再びタイへ戻る時、「もし、病気の方がおられるのを見たり聞いたりしたら、すぐに病の平癒を願うおさづけを取り次ぐ」と心に決めました。 私は天理で育ちましたので、周りは天理教の方ばかりです。そんな、いつでもおさづけを取り次げる環境が、かえって二の足を踏んでしまう原因ともなり、取り次ぐ機会を逃すことがよくありました。でも、タイでは私が躊躇してしまえば、その方は一生おさづけを取り次がれる機会を失ってしまう。当時の私は、若いなりにそんなことを考えていました。 タイに戻り、再度タイ語学校へ通い始めました。数日後、クラスメイトが欠席したので、理由を聞くと、お子さんが腕の骨を折ってしまったとのこと。早速、お子さんが入院しているクリスチャン病院へお見舞いに行きました。 そして、付き添っているクラスメイトに、息子さんにおさづけを取り次がせて頂きたいとお願いしましたが、「私はクリスチャンで洗礼を受けているので、受けることができません」とのお返事でした。 しかし、病人さんには必ずおさづけを取り次ぐと、親神様、教祖に約束をしていますから、手ぶらでは帰れません。なので、同室に入院しているタイ人の子供たちに取り次ごうと、親御さんにたどたどしいタイ語で天理教について説明し、何とか取り次がせてもらいました。 その後、毎日学校帰りにその病院におさづけを取り次ぐために通いましたが、ある日突然、「ここはキリスト教の病院です。勝手なことはしないでください」と看護師に言われ、そこでの取り次ぎはできなくなってしまいました。 そんなある日のこと、タイ在住の信者さん方が団体でおぢばがえりをするので、空港へ見送りに行きました。現地で布教している方々と一緒に皆さんを見送った後、出迎えの用もあった私は、一人空港に残りロビーで待機していました。 すると、少し離れた所が騒がしくなり、人だかりが出来ました。どうやら女の子が倒れたようで、そばにいた大柄な西洋人の男性が彼女を抱えて椅子に寝かせました。 私は正直、「あ、しまった。見てしまった」と思いました。病気の方を見たら必ずおさづけを取り次ぐと心に決めていたものの、なかなか勇気が出ません。布教師の皆さんも帰った後で、この大きな空港の人だかりの中で、天理教の信者は私一人かも知れない状況です。 色々考えをめぐらせた挙げ句、「よし、氷でも持って行って、もし症状が良くなったら、今日はおさづけはやめておこう」と心に決め、近くにあったお店で氷をもらい、恐る恐る持って行きました。しかし、女の子の症状は良くなるどころか「頭が痛い」と涙を流し、とうとう痙攣まで起こしてしまいました。 「こうなったら仕方ない」。私は周りにいたその子の友達に、「私は天理教という宗教を信仰するものですが…」とタイ語で話しかけました。すると、一人の男の子から「関係ない奴はあっちへ行け!」と言われ、その態度にカチンと来てしまい、気がつけば「いえ、私はこの子をたすけますから」と勢いよく答えていました。 そして、半ば強引に倒れている子の前に進み出て、柏手を二回打ち、おさづけの取り次ぎを始めました。 ただ、こんな人の大勢いる場所で取り次いだ経験がなかったので、緊張で気が動転していて、何度手を振って、何度神名を唱えたのか、まったく覚えていません。それでも何とか取り次ぎを終え、柏手を二回叩くと、次の瞬間、ひどい痙攣をしていたその子が、ガバッと上半身を起こし、頭をポンポン叩きながら、ケロッとして「あー、頭痛かったあ」と言ったのです。 私は何が起きたか分からず、「良かったですね」と言うのが精一杯でしたが、周りで見ていた友達が、「お兄さん、ありがとう、ありがとう」と、合掌をしながら次々にお礼を言ってくれました。 数分後、空港のスタッフがやって来て、念のためと言って、起き上がった彼女を医務室へ連れて行きました。私はホッとして、出迎えの飛行機の到着までまだ時間があるので、コーヒーでも飲もうかと歩き始めました。 そこで、ふと視線を感じ周りを見ると、おさづけを取り次ぐ様子を見ていた大勢の人が、「こいつは何者だ」という感じで、こちらをジーッと見ているのです。何とも言えず、いい気分でした。 大きな空港に、様々な国籍や職業を持ち、信仰する宗教も違う大勢の方がおられたはずです。しかし、私が居合わせたその日、その場所でその女性を苦しみから救うことが出来たのは、唯一、天理教を信仰する私たちが教えて頂いている〝おさづけ〟だったのです。 親神様、教祖とお約束をすると、その決心を試されるような状況に出会うことがあります。私は急な場面に遭遇し、一旦は逃げ出しそうになりましたが、何とか自分の都合を捨てて、親神様、教祖とのお約束を守ることができ、そこに鮮やかなご守護をお見せ頂きました。 本当にもったいない、有難い出来事で、その後の私の信仰生活において、大きな一歩であったと思います。 戦いを治める 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、「みかぐらうた」の二下り目で、 「四ッ よなほり」 「六ッ むほんのねえをきらふ」 「十デ ところのをさまりや」 と教えられています。 世直りとは、この世界を陽気ぐらしへと建て替えること。謀反とは主君に背くことや、広く対立や抗争を意味しており、所の治まりとは、人間社会の場の治まりと解されるでしょう。 この二下り目は冒頭で、「とん/\とんと正月をどりはじめハ やれおもしろい」と、足取りも軽やかにおつとめをつとめる楽しさが歌われています。つまり、二下り目全体を通して、おつとめによって世の対立の治まりを願い、世界平和の実現に向かうべきことを教えられているのです。 明治十年、国内最後の内戦と言われる「西南戦争」が勃発した頃、教祖は直筆による「おふでさき」で、争いを治める道筋を次のようなお歌で示されました。   せかいぢういちれつわみなきよたいや  たにんとゆうわさらにないぞや (十三 43)   このもとをしりたるものハないのでな  それが月日のざねんばかりや (十三 44)   高山にくらしているもたにそこに  くらしているもをなしたまひい (十三 45)   それよりもたん/\つかうどふぐわな  みな月日よりかしものなるぞ (十三 46 )   それしらすみなにんけんの心でわ  なんどたかびくあるとをもふて (十三 47)   月日にハこのしんぢつをせかいぢうへ  どふぞしいかりしよちさしたい (十三 48)   これさいかたしかにしよちしたならば  むほんのねへわきれてしまうに (十三 49)   月日よりしんぢつをもう高山の  たゝかいさいかをさめたるなら (十三 50)   このもよふどふしたならばをさまろふ  よふきづとめにでたる事なら (十三 51) 世界中の人間は皆きょうだいであり、それぞれの身体は皆神のかしものであるのに、人々はその真実を知らず、なにか人間に高い低いの分け隔てがあると思っている。神は一れつきょうだいという真実をはっきりと知らせたいのだ。そして皆がこれを知ったならば、必ずや争いの根は切れてしまうだろう。神は上に立つ者の戦いを治めることを切に願っているのだが、そのためには早く陽気づとめに取り掛からなければならない。 このように、世界の治まり、世界平和実現という救済過程の中で、おつとめが持つ重要な意義をお示しくだされています。 (終)
おやつのポシェット
23-08-2024
おやつのポシェット
おやつのポシェット 兵庫県在住  旭 和世 今年の元旦、能登半島で信じがたいような災害が起こり、一変した街の様子が報道を通して伝わってきました。 私が住んでいる神戸の街も、29年前の1月17日、大地震に襲われました。嫁ぎ先の教会は新神戸駅近くにあり、当時の避難生活の話をよく聞かせてもらいます。誰も予想だにしなかった天変地異に、成すすべもなく、日常がどれだけ有難いものだったのかを思い知らされた。そして、変わり果てた景色の中で、必死にたすけ合って復興への道のりを歩んできた。皆さん口々にそう話してくださいます。 神戸市の小学校では、年が明け、1月17日が近づくと「しあわせ運べるように」という歌を歌います。神戸の街の復興を願うこの歌を、子供たちが初めて聞かせてくれた時、私は涙が止まりませんでした。 親しんだ街並みが一瞬にして消え去り、切なくて、悲しくて、倒れそうな心を何とか奮い立たせている情景が目に浮かぶような歌なのです。 私は特に「届けたい わたしたちの歌 しあわせ運べるように」という最後の歌詞にいつも感動します。「しあわせを運びたい」という、辛い思いをした人たち自らが発する前向きなメッセージに心を打たれるのです。 神様のお言葉に、「人たすけたら我が身たすかる」とあります。このお言葉は、「自分がたすかりたいから人をたすける」という意味ではなく、人のたすかりや幸せを願う心を持つことが、何より自分がたすかっていく姿だと教えられているのです。そんな神様がお望みくださっている「人のたすかりを願う心」が、この歌から伝わってきました。 私どもがお預かりする教会では、「こども食堂」や「学習支援」を行っています。その活動を通してつながった地域の方から、「子供たちに震災のことを伝えたい」との声があがり、ある日のこども食堂で、神戸で被災された時のお話をして頂きました。 そして、お話のあと、参加してくれた子供たちと一緒に、被災した能登の子供たちに届ける「おやつのポシェット」を作りました。 被災地には、命に直結しないおやつなどは中々届きにくく、「あめ玉一つあったら、きっと子供たちは笑顔になれるだろう」という被災経験から生まれた取り組みで、何種類かのお菓子を詰めたポシェットをたくさん作り、それに応援メッセージを添えました。 すると、そのポシェットが現地の避難所に届いた翌日、私のケータイに一本の電話がかかってきました。 「昨日、能登市でおやつを頂いた子供の父親です。子供がとても喜んでいるので、ひと言お礼が言いたくてお電話しました」。 そのお父さんは、「みそらこども食堂」からの支援だと聞き、インターネットで調べて電話をくださったのです。 私がびっくりして声も出さずにいると、お父さんに続いて、「お菓子ありがとう!」と、お子さんが直接お礼を言ってくれるではないですか。私は急なことで慌てましたが、「神戸もね、大きな地震があって大変だったけど、みんながたすけ合って元気になれたのよ。能登もいま大変だと思うけど、たすけ合ってがんばろうね!お電話ありがとうね!」と伝えることができました。 このお電話を頂いて、神戸のみんなの真実が能登の子供たちに伝わったんだという喜びがあふれてきました。そして、こんなに喜んでくださるなら、継続的な支援として続けられたらいいなと思いました。 しかし、被災地の様子は刻々と変わっていきます。避難所ではまだまだ帰宅できない方も大勢おられますが、子供は二次避難をしているため、人数は減っていると聞きました。 その子供たちに、どうすれば継続的にポシェットを届けられるかと思案していると、ある方から、珠洲市で自ら被災しながらも、地域支援のために活動されている「メルヘン日進堂」という和洋菓子店を紹介されました。 そのお店では、被災された方たちの憩いの場として「たすけ愛カフェ」を開設していて、その方いわく「そこの社長さんだったら、『おやつのポシェット』をカフェに置いてくださると思うよ!」とのことでした。 そのお店の支援活動については、今年3月の『天理時報』に大きく取り上げられていたので、こんな素晴らしい活動をされている真実の方がいるのかと、私も感動と勇み心を頂いていました。 さっそく連絡してみると、お店の再開準備で忙しい中を快く引き受けてくださり、ポシェットを店内に置いて頂けることになりました。 こうして、神戸の子供たちが心をこめて作った「おやつのポシェット」と応援メッセージは、メルヘン日進堂さんのステキなお店を窓口にして、地域の子供たちに届けられています。 このようなめぐり合わせを頂けたことが本当に有難く、親神様、教祖に心から感謝申し上げています。 天理教の教祖「おやさま」は、ひと房のぶどうを手にとって、小さな男の子に仰いました。 「世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで」と。 この度のご縁が、このお言葉を思い出させてくれました。人と人とがみんな、まあるい心でつながる事で、笑顔が生まれ、心が温かくなり、力が湧いてくるのです。 これからも、被災地の一日も早い復興と人々の心の安寧を願い、小さな取り組みではありますが、心をつなげていきたいと思っています。 おふでさき 天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」は、天理教の原典の中で最も重要なものであり、教えの根幹をなすものです。   このよふハりいでせめたるせかいなり  なにかよろづを歌のりでせめ (一 21)   せめるとててざしするでハないほどに  くちでもゆハんふでさきのせめ (一 22)   なにもかもちがハん事ハよけれども  ちがいあるなら歌でしらする (一 23) 「理でせめたる世界」は、理詰めと解釈できるでしょう。この世は理詰めの世界である。その理合いについては、全て歌でもって説いていく。決して手で指し示したり、また、口で言うのでもない。筆先をもって教え諭すのだ。そして、何か通り方に間違いがある場合にも、それは歌によって知らせていく。 ここに、教祖の深い親心が感じられます。直接口に出して間違いを指摘されれば、あまり面白くないと感じる人もいるでしょう。そこで、自ら悟っていけるように話を進めてくださるのです。しかも普通の文章、いわゆる散文ではなく、歌で示すことによって、わずかな字数の中から深い意味合いを感じ取れるようにお計らいくださっています。ゆえに、   だん/\とふてにしらしてあるほどに  はやく心にさとりとるよふ (四 72)   これさいかはやくさとりがついたなら  みのうちなやみすゞやかになる (四 73) このような、神の思いを自ら悟ってくれ、とのお歌も多いのです。 しかし、この親心が分からない人間の側からすれば、そんなにじれったいことをせずに、そのものズバリを言ってくれたほうが分かりやすいのに、との思いが拭えないのです。 そこで、「言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという」とのお言葉を噛みしめなければなりません。「言わん言えんの理」つまり、神様の口からああせい、こうせいと言われてから行動に移すようでは、鮮やかなご守護は頂けないのです。 「おふでさき」全1711首の最後は、   これをはな一れつ心しやんたのむで (一七 75) とのお歌で締めくくられています。教祖は、私たちにどこまでも、自ら思案し、神の思いを悟ることを強く望んでおられるのです。 (終)
ランドセル
16-08-2024
ランドセル
ランドセル 岐阜県在住  伊藤 教江 三女の佳乃が五歳の時です。突然息つくことも出来ないほどの激しい咳をし出し、それが何日も止まらなくなりました。42、3度の高熱も続き、肺炎と診断され、入院を余儀なくされました。一度は回復して退院できたものの、半年も経たないうちにまた肺炎に見舞われ、再度入院することになりました。 二度の肺炎で、小さな身体は弱り果てていました。目の前で苦しんでいる我が子、代われるものなら代わってあげたい…でもそれは叶わないという辛さと悲しさで、私は心を倒していました。 そんな時、主人の母が、「より子はねえ…、より子はねえ、病院から元気に帰ってくることが出来なかった。でも、佳乃ちゃんはきっと元気になって帰って来てくれるから、何も心配しなくていいよ」と声を掛けてくれました。 より子ちゃんは、義母の三女で、主人の妹にあたります。より子ちゃんは五歳の時に白血病を患いました。何ヶ月も辛く苦しい闘病生活を送りながらも、早くから買ってもらった新しいランドセルを病院のベッドの枕元に置いて、元気に小学校へ通うことを何よりも楽しみにしていました。 でも、より子ちゃんはランドセルを一回だけしか背負うことが出来ずに、その後も病院のベッドで何度も何度も血を吐きながら、短い生涯を閉じたのでした。 より子ちゃんが出直した後、教会の客間の袋戸棚の中の誰にも見えない所に、「より子は死ぬの…」と書いてあるのが見つかりました。辛い闘病生活の中、最後の一時退院でうちに帰ってきた時により子ちゃんが書いたものでした。 血を吐くたびに、「私はこの先どうなっちゃうんだろう…」と不安は募っていくけれど、それは誰にも言えない。ましてやお父さんやお母さんに言ったらどんな悲しい顔をするだろう…。小さな胸は張り裂けそうだったに違いありません。 そうして病状が悪化する中、より子ちゃんはお母さんに必死の思いで尋ねたのです。 「お母さん、より子は死ぬの?死んだらどうなっちゃうの?」 苦しむ我が子にそう聞かれて、もし私が母親の立場なら、きっと何も言えず、ただただ涙があふれるばかりだと思うのです。 しかし義母は、「より子、何も心配しなくていいよ。より子は死んだら、またお母さんのお腹の中から産まれてくるんだよ! だから、何も心配しなくていいんだよ!」そう微笑みながら答えたのです。 我が子を失うという、これ以上ない辛く悲しいふしの中、義母はひたすらに教祖を信じ、「出直し、生まれ更わり」の教えを心の支えとして通ってきました。その義母が「佳乃ちゃんは、きっと元気で帰ってくる」と言ってくれたからこそ、私はその言葉にすがることができたのです。 佳乃は肺炎で高熱が出ていても、まだ命をつないで頂いている。義母が通ってきた道に比べたら、私の苦しみはほんの些細なものだ。私は親神様に心からお礼を申し上げました。 親から子、子から孫へと運命が受け継がれ、本来なら佳乃も同じように命が切れていくはずのところを、喜びを見つけて通ってくれた親のおかげで、魂に徳を頂き、大きな病を二回に分けてもらえた。大難を小難にして頂いたのです。 もうすぐ小学生になる佳乃には、ランドセルを背負って元気に学校へ通えるだけの徳を頂きたい。そのためには、身の回りの一つ一つの物を大切にして、その物の命を生かすことが、我が命を守って頂ける徳につながるのではないかと思いました。 そこで小学校入学にあたり、服も下着も靴下も学校の用具も、一切新しい物は買わずに、すべてお古として頂く物だけで通らせることにしました。 ランドセルは、長女が六年間使い終わったばかりのものがありました。親の目から見ても、とても綺麗とは言えないランドセルです。佳乃は、このランドセルを喜んで使ってくれるだろうか…。 「こんなボロボロのランドセル、誰も持って来ないよ。みんなピカピカのだよ。嫌だよ!」そんな娘の声を想像してしまいました。 しかし、徳を積むためには全ての与えを喜んで受け入れなければならないと思い、まず長女に話をしました。 「六年間、ランドセルを背負って元気に学校に通えたことを親神様・教祖にお礼をさせてもらおうね。それから、ランドセルにありがとう、ありがとうってお礼を言いながら綺麗にしようね」 そして、家族全員を揃え、佳乃の目の前でランドセルを拭いてもらい、綺麗になった後で贈呈式をしました。「お姉ちゃんが六年間、大事に大事に使ったランドセルだよ。誰もこんな素敵なランドセル持ってないよ。良かったねえ、嬉しいねえ」と、みんなで手を叩いて喜びました。 佳乃は、「うん!嬉しい!ありがとう!」と満面の笑顔で、翌日からそのボロボロのランドセルを背負って元気に学校に通ってくれました。 親としては、たとえ不充分な与えでも、それを子供が喜んで受け取ってくれれば、今度はもっといい物を与えてあげたいと思うものです。きっと私たち人間の親である親神様も、私たちが不充分な与えを喜んで受けて通ったならば、もっと与えてやりたい、守ってやりたいという大きな親心で抱えてくださるに違いないと思うのです。 強い者は弱い 神様のお言葉は時として、私たちの常識では理解することが不可能な場合があります。 「強い者は弱い、弱い者は強いで。強い者弱いと言うのは、可怪しいようなものや。それ心の誠を強いのやで」 「強い者は弱い」。誠に矛盾している表現です。しかし、日常生活に何かしら行き詰まりを感じている時、この一見理解し難いお言葉は、人間思案に慣れた心の目にハッと気づきを与えてくれます。人は大抵の場合、一般的な常識や自ら積み重ねてきた経験知によって日常の歩みを進めています。しかし、その物事の奥深くには、人間思案によっては割り切れない神様のご守護の世界、いわゆる「理の世界」が存在しているのです。 このような逸話が残されています。 泉田藤吉さんは、ある時、十三峠で三人の追剥に遭いました。その時、頭にひらめいたのは、かねてから聞かせて頂いている「かしもの・かりもの」の教えでした。そこで、言われるままに羽織も着物も皆脱いで、財布までその上に載せて、大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下さい」と言って、頭を上げると、三人の追剥は陰も形もありません。 追剥たちは、藤吉さんの余りの素直さに薄気味悪くなって、何も取らずに逃げてしまったのです。そこで藤吉さんは、脱いだ着物を着ておぢばへ向かい、教祖にお目通りしたところ、結構なおさづけの理を頂戴したのでした。(教祖伝逸話篇114「よう苦労してきた」) 藤吉さんのおたすけは、いつでも人並み外れていて、深夜に冷たい淀川の水に二時間も浸かり、身体が乾くまで風に吹かれることを三十日も続けたり、天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってからおたすけに向かうこともありました。 ところが、教祖から「この道は、身体を苦しめて通るのやないで」とのお言葉を賜り、藤吉さんは、人間思案を離れて「かしもの・かりもの」の教えを深く理解するに至ったのです。 何が強い、何が弱いという価値判断は、人間の常識では計り知れないことのようです。次のお言葉をかみしめたいと思います。 「日々という常という、日々常に誠一つという。誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い」(「おかきさげ」) (終)
共に生きる
09-08-2024
共に生きる
共に生きる 埼玉県在住  関根 健一 今年で23歳になる我が家の長女は、出産時のトラブルで、一時仮死状態となった影響で脳性麻痺が残り、今でも身体の障害と知的障害があり、車椅子で生活しています。 日常では言語によるコミュニケーションに困ることもあまりなく、社交性も高いほうで、初めて会った人にもきちんと自己紹介をします。最近は、福祉サービスで移動支援をお願いし、ヘルパーさんと一緒にショッピングモールや映画館へ出かけるなど、家族と離れて楽しむ時間も増えてきました。 ある日、タレントさんが気になるお店に入ってグルメを味わったり、商品を見たりする、いわゆる「街ブラ番組」を家族で見ている時のことです。その回は、我が家からもほど近い川越の街を紹介していました。 おしゃれなカフェを見つけたタレントさんが、中に入って店主おすすめの抹茶ラテを楽しむ場面を見ていた時、長女がふと「かわいいジュースだね」とつぶやきました。言われてみれば、グラスの中には抹茶のグリーン、季節に合った桜のピンク、ホイップクリームの白などが幾つもの層をなしていてとてもカラフルで、よく言う「SNS映え」するメニューでした。 学生時代を川越で過ごした私は、お店の周りの風景を観てすぐに場所が分かったので、「今度みんなで行ってみようか?」と提案しました。すると家族みんなが喜んで賛成し、その話題でひとしきり盛り上がりました。 しかし、長女と一緒に出かけるには、そのお店は車椅子で入れるのか?という確認が必要になります。そこで、タレントさんがお店を出入りする場面を確認すると、階段があって細い通路を通らなければならないことが分かり、さっきまで盛り上がっていた雰囲気も一気に諦めムードに変わっていきました。 もちろん、お店に行って店員さんに相談すれば、車椅子ごと持ち上げるのを手伝ってくれたり、裏口からスロープで上がれたりする可能性もあります。しかし、そこまでして行きたいお店か?と考えて二の足を踏んでしまったり、過去にお店に入れなかった時のガッカリした気持ちを思い出したりして、諦めてしまうことは少なくありません。 結局、長女とのお出かけは大きなショッピングパークなどの、バリアフリーが整った施設になることが多く、路地裏を入った隠れ家的なお店は考えにくいのが現状です。 それでも、長女が生まれた頃に比べると、障害者を取り巻く環境が少しずつ良くなってきているのは事実で、私が子供の頃と比べれば格段の差です。 長女が小学部に入学する一年前、特別支援教育の推進のために学校教育法が改正され、「養護学校」という名称が「特別支援学校」に変わりました。私は、障害児を取り巻く環境については肌感覚でしか理解していなかったので、特別支援学校のPTA会長になったことをきっかけに、それまでの障害児の教育環境について調べてみました。 すると、40数年前に養護学校が義務教育になる以前は、障害児は就学を免除されていた、すなわち義務教育を受けなくていい時代が続いていたことが分かりました。制度上「免除」と言ってはいますが、実質的には障害児は学校に通うことを拒否されていたと言っていいかも知れません。そんな時代に「我が子が人として当たり前に教育を受けられるように」と、声を上げた人たちがいたのです。 今でも問題がないとは言い切れませんが、少なくとも現在はすべての障害のある子供たちが教育を受けられる社会になっています。 最近では、障害者が飛行機や電車など交通機関の利用がままならなかったことに声を上げ、SNS上で議論が巻き起こることがしばしばあります。時代に応じ形は変わっても、常に誰かが声を上げてきたおかげで社会は少しずつ変わってきたのです。 私は仕事で建築の設計に携わっていますが、一定の基準に該当する建物の場合、車椅子でも快適に過ごせるようにという法律や条例に則って設計をしなければなりません。 一般の個人経営のお店では、すべての人が快適に過ごせるような環境作りはなかなか難しいのが現状ですが、「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」という言葉が浸透してきたことで、一般的にも障害者に対する考え方が変わったように思います。 少し前、日本で「ニート」という言葉が使われ始めた頃に、ニートが一気に増えたというデータがあります。これは、実数が増えたということ以外に、認知されるようになったために対象者が顕在化したという側面もあるようです。世の中の状況が変化し、起きてきた現象に名前がついたことで対象が顕在化し、人々の意識が変わる。社会の常識は、その状況を表す言葉と一緒に変化してきたとも言えます。 最近よく耳にするようになった「共生社会」という言葉があります。差別のない、誰もが暮らしやすい社会の象徴として語られる言葉ですが、ある福祉施設で働く知人から、こんな意見を聞きました。 「共生社会という言葉は、文字通りに捉えれば『共に生きる』という意味で、どちらが上でも下でもないはずだが、昨今この言葉の使われ方を見ていると、安全な場所にいる側が、上から目線で『共に暮らしてあげよう』と言っているような傲慢さを感じる」 私はこれを聞いて、ハッとさせられました。こうした小さなすれ違いや、感覚の相違はまだまだ残っています。共生社会という言葉の浸透とともに、障害のある人が安心して暮らせる社会になるには、もう少し時間がかかるようです。 では、本質的な共生社会とはどのようなものなのか? 自分なりに想像してみると、心に浮かんできたのは天理教の教えにある「陽気ぐらし」でした。 陽気ぐらしとは、大自然を司る親神様の恵みに感謝し、そのご守護によって生かされて生きている喜びを身体いっぱいに感じながら、私たち一人ひとりが互いに尊重し合い、たすけ合って暮らす、慎みのある生き方です。 共生社会の実現を目指すという目標は、親神様によってすでに私たちに向けて示されている。そう言えるのではないでしょうか。一人の信仰者として、共生社会の理想像とも言える「陽気ぐらし」の実現を目指していきたいと思います。 慈愛のてびき 人間はどこから来て、どこへ行くのか。この世界の始まりに関しては、多くの人が関心を持っていることと思いますが、その興味の中で、人生の意義についても考えが及ぶのではないでしょうか。 私たちは陽気ぐらしをするべく、親神様によって創造されたことを知りました。それが、私たち皆が例外なく、幸せを求めてやまない理由です。しかし、その望みは必ずしも直ちに成就するものではありません。誤って、自ら方向を狂わせてしまうからです。 『天理教教典』には、次のように記されています。 親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。   なにゝてもやまいいたみハさらになし  神のせきこみてびきなるそや (二 7)   せかいぢうとこがあしきやいたみしよ  神のみちをせてびきしらすに (二 22) 即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ。(第六章「てびき」) 我が子が地図も持たず、自分勝手にやみくもに歩いていこうとする危うさを、をやとしては黙って見ていられないのです。そして、今にも落ちていきそうな崖っぷちに立つ子供を、襟首をつかんででも安全な場所へ引き戻そうとします。いかに子供が嫌がっても、そうせずにはいられないのが親心なのです。 私たちは苦悩を抱えていない時には、足元を見つめずに過ごしています。身を病んではじめて、いまさらのように自分自身を省みるものです。病気や事情に遭った時には、そこに親神様のたすけたいばかりの慈愛の手が差し伸べられていることを信じ、喜びの人生を開くきっかけとしたいものです。 (終)
「想い出ノート」はじめました
02-08-2024
「想い出ノート」はじめました
「想い出ノート」はじめました 岡山県在住  山﨑 石根 今年の四月、信者さんが立て続けに二人お亡くなりになり、教会長である私はその方々のお葬式をつとめました。また、この四月にはもともと二件、故人を偲ぶ年祭を行う予定があり、「待ったなし」にやって来たお葬式と合わせて、その準備や段取りにバタバタの月となりました。 天理教の年祭やお葬式では、故人の生涯を思い起こし、生前の功績やお徳を偲ぶために祭文を読み上げます。今回の年祭は二件とも、私の父が教会長の時にお葬式をした方の年祭でした。私は、当時父が書いたものを参考に今回の祭文を作成しながら、「ああ、このご夫婦はこういう人生を通ってきたんだなあ」と、感慨深い気持ちになりました。 当然のことですが、家族の数だけ、否、人の数だけ人生があります。お葬式や年祭を執り行う度に、その人が生きた証を強く感じることができます。 しかし、このような祭文も、故人の情報がなければ書けません。いざ訃報が届き、そこから故人のことを尋ねても、夫婦であれば容易に振り返ることができますが、子や孫が喪主の場合は知らないことも多かったりするのです。 かと言って「お葬式に必要なので、人生について教えてください」とあらかじめ根掘り葉掘り聞くのは、何だか失礼な気もします。私は以前からそんなジレンマを抱いていました。 四年前の春先、ちょうど世の中がコロナ時代に入る頃、牧さんという年配の女性信者さんがお亡くなりになりました。牧さんは遠方にお住まいですが、講社祭というおうちでのお祭りを毎月欠かさず勤めていた熱心な信者さんでした。 晩年は病気のため、同じお話ばかり繰り返されることが多かったのですが、私の曽祖父に導かれてこの信仰に入った話や、ご主人が病気だった時の苦労話など、私にとって非常に関心のある内容でした。 あまりに毎月同じお話を聞くので、細かい内容まで覚えてしまいましたが、「いつかお葬式で必要になる内容だから、きちんと記録しておきたい」との思いに至りました。 そこで「牧さん、来月ICレコーダーを持ってくるから、このお話し録音させてください」とお願いをしたのですが、その翌月に牧さんは突然お亡くなりになり、お話を録音することは叶いませんでした。 世の中がコロナ時代を迎え不安に包まれる中、また遠方で何かと移動や準備が大変な中、家族の方がとても親切にしてくださり、滞りなくお葬式をつとめることが出来ました。また、録音こそ叶わなかったものの、繰り返し聞かせて頂いたお話を元に、きちんと牧さんを偲ぶ祭文を読ませて頂くことも出来ました。 さて、私の教会では数年前から毎月、信者さん方と色々なことを相談する「談じ合い」の時間を設けています。そこで、私のほうからジレンマを抱えていたお葬式について、ある提案をしました。 今、世の中では「終活」や「エンディングノート」と呼ばれる取り組みが注目されています。命の危険が差し迫った時、七割の方は意思伝達ができなくなると言われており、十分な準備が出来ないままに亡くなる方も大勢おられます。そうしたことから、元気なうちに遺産相続、医療や介護の希望、葬儀やお墓についてなど、様々なことを家族に書き残しておく必要があるのです。 教会長である私は、遺産や法律的なこととは直接関係ありませんが、「なぜ信仰をしてきたか」ということについては、故人の信仰を確実に後進に伝える意味で、言葉が無理でも何とか文字で残して欲しいと以前から願っていました。生い立ちからご両親のこと、信仰を続けてきて良かったと思うこと…。お葬式の準備のためではなく、自分自身の信仰を振り返る意味でノートに書き記して欲しいと提案しました。 みんなで相談した結果、このノートには「みちのこ想い出ノート」という名前が付きました。さっそく書式を作り、教会に所属する信者さん方にお手紙を添え、老いも若きも問わず皆さんに送り届けました。すると、たくさんの「想い出ノート」が私の元に返ってきました。 そこにしたためられた内容は、長いことお付き合いのある信者さんであっても、私が初めて知るその方の人生が書き記されていて、驚きと共に何だか胸が熱くなりました。 皆さん時間はまちまちで、すぐに届けてくださった人もいれば、一年かかった人もいます。途中までは書いたけれど、未だに迷っている人もいれば、なかなか筆の進まない人など様々です。 当然そこには、その方の通っただけの、歩んだだけの確かな足跡が記されています。それらは良い想い出ばかりではないにしても、そこをどのように思案して乗り越え、今、この瞬間があるのか。その陽気ぐらしへ向けたポイントが必ず描かれているのです。そして何より、このことをきっかけに、信仰について家族同士で話し合う機会が生まれることを願ってやみません。 さて、牧さんのご家族が、早くも「来年の二月に五年祭をしたい」と日程の相談をしてくださいました。 牧さんが出直してからも、ご家族には色々な出来事がありました。息子さんが養子を迎えられたこと。その養子さんに赤ちゃんが生まれたこと。また、生前の牧さんと同じように、息子さんが講社祭を毎月欠かさず勤められ、さらには教会の月次祭にも養子さんたちと共に遠方から駆けつけ、参拝してくださるようになったこと。 牧さんの人生だけでなく、「亡くなられた後に、こんなことがあったんですよ」と祭文で読み上げ、五年の節目の年祭で報告したいと思います。きっと牧さんの霊様だけでなく、牧家のご先祖様も喜んでくださるのではないかと、私は思うのです。 だけど有難い  「華のある人」 テレビ、映画、舞台、あるいは野球やサッカーといったスポーツの世界などを見ると、「華のある人」というのはいるものですね。その人がやって来ると周りまでパッと明るくなるような、なんとも言えない魅力がある。そういう人には、人の心が寄ります。人の心が寄るから、物も寄ります。 たとえば、アテネオリンピックで野球競技の日本代表監督を務めた長嶋茂雄さんがそうです。巨人ファンでなくても、長嶋ファンだという人は多いですね。それだけ魅力があるからでしょう。途中で病気になってアテネへ行けない状態になったのに、監督は代わりませんでした。普通なら、そのまま続けることはあり得なかったと思いますが、周囲から文句も出なかった。まさに「華のある人」です。みんなが「長嶋さんなら」と認めてしまう素晴らしさがあるのです。 私は、道友社発行の『すきっと』という雑誌が「華」という特集を組んだ際に、フジテレビの元プロデューサー・横澤彪さんの話を聞いたことがあります。昔、「オレたちひょうきん族」というバラエティー番組をプロデュースしていた人です。ビートたけしや明石家さんまが出演していて、大変人気がありました。 その横澤さんが、こう言うのです。 「華のある人というのは、まず何より『陽気な人』である。『明るい人』である。暗い人には華はない。また、どんなに苦労していても、苦労が顔に出る人には華はない。役者でも、苦労が顔に出ると華はないんです、あとは下り坂です」 また、こうも言っていました。 「華のある人というのは、人を喜ばせたいという気持ちを持っている人である」 たとえば、落語家の初代・林家三平師匠は、明るく陽気で、人を喜ばせる心が人一倍あったそうです。ネタが受けないときは、草履を投げてでも受けたい、お客さんに喜んでもらいたい。笑ってもらえるなら、なんでもするというのが、あの三平師匠だった。師匠がいるだけで、みんなうれしくて楽しくて、そばへ寄っていったということです。 この話を聞いて思いました。そんな話なら、わざわざ横澤さんを取材しに行かなくても、お道の人こそ「華のある人」のはずです。親神様を信じているのですから、当然、明るく陽気な心になれますね。そして、お道では「人をたすける」ことを学びますから、当然、人に喜んでもらいたい、たすかってもらいたいという心を持っているのです。 では、お道を信仰してさえいれば良いのか。そうではありませんね。教えを実行しないと、人の心も物も寄るような魅力のある人にはなれません。 「信じているが、にをいがけができない」「人をたすけるなんて、おこがましい」と言う人がいます。しかし、それは考えようによっては、災害や事故のときに、自分がたすかって「ああ良かった。でも、人をたすけるなんて気持ちにはなれない」と言っているようなものです。 人のことを思いやれない、考えられないというのは、たすかりにくい姿です。犯罪を起こす人たちは、たいてい後のことは考えていません。人の痛みに気がつけば、そんなことはできないのです。 私たちお互いは、教えを実行させていただいて、「あの人がいると、うれしくなるな」「あの人に会って、話が聞きたいな」「あの人の話を聞くと、何か明るい気持ちになれるな」 そんな華のある人、魅力ある人を目指したいものです。 (終)
幸せを求める心
26-07-2024
幸せを求める心
幸せを求める心 大阪府在住  山本 達則 あるテレビ番組で、一人のアスリートについて特集していました。現在も世界の表舞台で活躍されている方ですが、そのアスリートの日常を良く知る方がインタビューに答えていました。 「彼が一番優れているところは、どこでしょうか?」という質問に対して、その方は「自分自身が今、必要としている事以外に惑わされない強い心だと思います」と答え、食事を例にあげました。 今、自分自身がアスリートとして食べるべき物は何かを常に考えながら、食事をとる。もちろん人間ですから、好きな食べ物や飲み物も当然あります。多くの人は「今日ぐらいいいだろう、少しぐらいはいいだろう」と栄養を考慮せずに好きな物を口にし、自分に癒しを与えますが、彼は妥協をしません。 またアスリートといえども、時には競技から離れて、友人たちとお酒を飲みながら開放感を味わいたいと思うこともあるでしょう。しかし、常にアスリートとしての最高の結果を求める彼は、友人たちと楽しく過ごす時間を少しでも身体を休めるための睡眠に当て、必要以上にそういった場に参加することはありません。 プロスポーツの世界で活躍できる人は、選ばれし才能をすでに持ち合わせている人たちですが、その中でも彼がさらに優れている点は、「求める力の強さとその実行力」、そして「求める姿のために費やす時間のかけ方」である、と結んでいたのが印象的でした。 つまり、自分自身の行動の結果が、今の姿を形づくっているということでしょうか。 神様のお言葉に、「善い事すれば善い理が回る、悪しきは悪しきの理が回る。(中略)理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く」とあります。(M25・1・13) 世界中の人々に対して、その姿をすべて見通しておられる神様の目は、絶対的に平等であるということ。善き事をすれば善き結果が表れ、悪い事をすれば、悪い結果として表れてくる、と教えられます。 私たちは誰しも家族が健康に恵まれ、幸せな毎日を過ごすことを望んでいます。しかし、現実には少なからず不安や不満を抱えながら日々を暮らしている人が多いのではないでしょうか。 日々、自分自身の成したことが結果として返ってくる。このことに気づく必要があると、神様は教えてくださっているのです。 50%の力で投げれば、50%の結果として自分の手元に返ってきます。100%の力で投げれば、100%の結果として返ってきます。 しかし、私たちは時に、50%の力で投げながら、100%の結果を待っていることがあります。極端に言えば、何も投げていないうちから、与えを待っていることさえあるかも知れません。 神様は、「まいたる種は皆生える」と教えられますが、裏を返せば、何事も種をまかずして、芽生えを見ることはできないのです。 現在、世界には80億人の人々が暮らし、80億通りの「幸せを求める心」があります。自分だけの幸せを求める種は、神様から見れば良い種ではないかもしれません。なぜなら、神様は世界中の人々を絶対的に平等な目でご覧になっているからです。 世界中の人々の幸せまで考えを及ぼすのは難しいかもしれませんが、せめて家族はもちろん、身近な周囲の人々の幸せを考えながら、それに向けて自らの行動を変えていくこと。これが良い種まきとなり、ひいては喜びの芽生えにつながるのではないかと思います。 目の前に起こる事柄に対して、それをどのように考えるか、またそれをふまえてどのように行動するか、私たち一人ひとりはそれぞれに「自由」を与えられています。この「自由な心」の使い方を変えていくことが、誰もが望んでやまない「幸せな毎日」につながっていくのではないでしょうか。 をびや許し、ほうその守り 天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、   ひろいせかいのうちなれバ  たすけるところがまゝあらう(五下り目 一ッ)   ふしぎなたすけハこのところ  おびやはうそのゆるしだす(五下り目 二ッ) とあります。 広い世界の中であれば、人々をたすける所があちこちにあるだろう。しかし、不思議なたすけをするのはこの元なるぢばであり、ここから「をびや許し」や「ほうその守り」を出す。このように仰せられています。 安産のご守護である「をびや許し」、また当時大流行した感染症、疱瘡をたすけるための「ほうその守り」がどのようなものであり、それらがなぜ人々にとって「不思議なたすけ」であったのか。当時の状況を振り返ってみましょう。 江戸時代の平均寿命は、現在の半分以下の三十歳から四十歳ぐらいだったと言われています。もちろん、当時でも六十や七十を過ぎるまで長生きした人は大勢いましたが、それでも平均寿命が短かったのは、当時は出産直後の母親と子供が、今よりはるかに多くの割合で命を落としていたことが原因でした。 そんな命がけである出産に関して、当時は安産祈願として、妊婦が出産の前後に「腹帯」をしたり、柿はお腹を冷やすなどの理由で「毒忌み」として避けたり、頭に血が上らないように「高枕」をしたりと、様々な慣習がありました。 教祖はそうした状況の中で、「これが、をびや許しやで。これで、高枕もせず、腹帯もせんでよいで。それから、今は柿の時やでな、柿を食べてもだんないで」。だんないとは、大事ない、大したことはないという意味の方言ですが、をびや許しによって、そのような慣習に頼らなくとも安産できる道を教えられたのです。 また、当時は、たとえ無事に出産したとしても、その後の幼児死亡率が高く、その大きな原因となっていたのが疱瘡やはしかなどの感染症でした。 疱瘡にかかると、高熱とともに顔から全身へ赤い発疹ができます。ひどい場合は化膿した箇所から出血し、肺炎や腎炎などを引き起こして死に至ることもありました。 予防接種もまだ一般には広まっていない時代にあって、「ほうその守り」は、まさに不思議なたすけであったに違いなく、人々にとってどれほど有難いものであったことでしょう。 この「をびや許し」や「ほうその守り」を頂くに際して、何より肝心なのは親神様を信じ切ることです。こんな逸話が残されています。 清水ゆきさんという身ごもった婦人が、「をびや許し」を自ら願い出て頂いた時のこと。ゆきさんは「人間思案は一切要らぬ。親神様にもたれ安心して産ませて頂くよう」という教祖の仰せに反して、毒忌みなど昔からの習慣に従っていました。すると、出産後に高熱が出て三十日ほど寝込んでしまったのです。 そこで教祖にうかがうと、「疑いの心があったからや」とのお言葉があり、ゆきさんはこれに深く感銘し、心の底からお詫びをしました。 その後、教祖は産まれたばかりの赤子を預かってお世話をされ、ゆきさんも程なく全快しました。そして翌年、再び妊娠したゆきさんは「今度は決して疑いませぬ」と誓って、二度目の「をびや許し」を願い出ました。今度は教祖の仰せ通りにしよう、ひたすら親神様にもたれようと念じていたところ、不思議なほどの安産で、産後の患いもまったくありませんでした。(教祖伝第三章「みちすがら」) 当時のをびや許しは、教祖が直接お腹に息をかけられたり、撫でられたりするものでした。現在では、「をびやづとめ」に供えられた洗米を、「御供」として頂くことができます。 (終)
「生き方が分からない」と嘆く少年
19-07-2024
「生き方が分からない」と嘆く少年
「生き方が分からない」と嘆く少年 千葉県在住  中臺 眞治 私どもがお預かりしている畑沢分教会では、現在さまざまなたすけ合い活動を行っていますが、その中で補導委託と、自立準備ホームとしての活動があります。 補導委託は、非行のあった少年を家庭裁判所からの委託で数日間から半年間預かる制度です。家庭環境が複雑だったり、友人関係が良くなかったりで、今の場所から一度離れたほうが本人のためになると、家庭裁判所から判断された少年たちがやってきます。 また、自立準備ホームとしては、少年院や刑務所を出た後、帰る家がないという方を、保護観察所からの委託で数カ月間預かります。どちらも北海道のある教会長さんから「是非やった方がいいですよ」と勧めて頂き、妻にも相談の上、了承を得て始めた活動です。 この二つの活動で、一年半の間に八人の少年をお預かりしました。委託を受ける際には委託書という書類が届くのですが、そこには少年たちがどのような家庭環境で生まれ育ち、どのような非行歴があり、どのような困難を抱えているのかが記されています。 その中でも、特に驚かされるのは家庭環境です。もちろん、家庭環境が複雑だから非行に走るとは限りませんが、そうした中で少年がどんな思いを味わいながら生き抜いてきたのか、それを想像すると胸が締め付けられる思いがします。 ある少年、仮にA君とします。A君は罪を犯し、少年院に入ったのですが、収容期間を終える時、「家には帰りたくない」と、自ら家庭に戻ることを拒否しました。そのため、保護観察所の委託で当教会にやってきたという経緯があります。 A君は元々手持ちの衣類が少なかったので、私が「それなら一度家に受け取りに行ったらいいんじゃない?電話してみたら?」と提案しました。A君はちょっと嫌そうな顔をしながらも笑っていたので、「ほらほら」と言って携帯電話を渡し、連絡を取ってもらいました。 その直後、私は後悔することになりました。私が想像していたのは、長いこと会っていない子供を心配する親の声でした。しかし、現実は違ったのです。我が子を心配する言葉は一切なく、それどころかA君は親から一方的な罵声を浴び続けたのです。 その間、A君の声と身体は震えていました。そして、「二度と帰ってくるなよ!」という親の言葉で通話は途切れました。 電話が切れた後、本当に申し訳なかったと謝ると、A君は「いつも通りですよ。お酒を飲んでいる時はもっとヤバいです」とあきらめ顔で言いました。 「家族円満」というタイトルがついているこうした時間に言うのはふさわしくないかも知れませんが、「どんな親子も分かり合える」という考えは、恵まれた家庭で生まれ育った私自身が持つ幻想なのだと思い知らされた出来事でした。 子供に関心のない親、子供の気持ちを想像することが出来ない親はいます。A君の親が悪者だというわけではありません。親もまた様々な困難を抱えて生きているのだということを実感しました。 A君は教会に来て数カ月の間に、何度か私に「どう生きていけばいいのかが分からないです」と話してきたことがありました。大抵の人の場合、生き方は親から教わるものだと思いますが、それを経験していないA君にとっては、生きていくこと自体が不安なことだったのだと思います。 A君は衝動的な行動から、近隣住民や職場の方などとトラブルになってしまうことも度々で、私もどうしたらA君が幸せに生きられるのだろうかと悩み、色々と試みてはみるものの状況は変わらず、ただただ時間ばかりが過ぎていきました。 そのような中で半年ほど経った頃、A君と他愛のない会話をしている時、ふと彼が「最近毎日楽しいです」と言ったのです。私はその言葉に「あー良かったな~、嬉しいな~」と思うと同時に「なんで?」という疑問が湧いてきました。でも、次の言葉で、なるほどそういうことかと思いました。 「中臺さんの周りって、優しい人ばっかりですね」 A君はうちの教会で実施している「こども食堂」に、毎回ボランティアスタッフとして参加したり、また、天理教の行事にも度々参加してくれています。そうした場にはA君を理解し、味方になろうとしてくれる大人たちが大勢います。そうした人たちの存在が、A君の心に安心をもたらしているのだと思います。 子供に関心を持たず、子供の気持ちを想像することが出来ない親がいるのは事実ですが、その親の代わりを沢山の優しい大人で埋めていく、そういうやり方もあるのだと感じた出来事でした。 A君に限らず、世の中には生き辛さを抱え、生きていくことに不安を感じている方は少なくないと思います。そうした方々と、どう関わっていったらよいのか? 天理教の原典「おさしづ」では、 「どんな事も心に掛けずして、優しい心神の望み。悪気(あっき)々々どうもならん。何か悠っくり育てる心、道である。悠っくり育てる心、道である/\。」(M34・3・7) と教えて下さっています。 そもそも人が育っていくというのは、時間のかかることなのだと思います。いけないことをした時に、「ダメだよ」と伝えることももちろん大切ですが、同時に「許す心」「あたたかい心」で関係していくことが大切なのだと思います。そうした積み重ねが、生き辛さを抱えて苦しんでいる方々の安心につながり、生き抜いていく力になっていくのではないでしょうか。 私自身の人生を振り返ってみても、間違いだらけの人生で、正しく生きてきたなんて口が裂けても言えません。その都度、周りの方に「しょうがないなあ」と許されながら日々を過ごしてきました。おそらくこれからもそうだろうと思います。 自分自身も許されながら生きていることを忘れずに、生き辛さを抱える人々に寄り添っていきたいと思います。 いまさいよくば 私たち人間には、人生の先々までを見通すほどの力はありません。ゆえに、目先の楽な暮らしを求めて、自分勝手な行動や考えに陥ってしまいがちです。 そのような私たちの心得違いを、天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、   めへ/\にいまさいよくばよき事と  をもふ心ハみなちがうでな (三 33) と戒めてくださいます。 銘々が勝手に目先のことばかりを考える、今さえ良ければいいんだという刹那的な心づかい。それは全て間違っているとの仰せです。これは言い換えれば、自分のことばかり考えて周りが見えていない、また今のことばかり考えて将来を見据えていないということです。 さらに教祖は、   てがけからいかなをふみちとふりても  すゑのほそみちみゑてないから (三 34)   にんけんハあざないものであるからに  すゑのみちすじさらにわからん   (三 35) と、私たちの「あざない」あさはかな道の通り方が、いかに危ういものであるかをお示しくだされています。 私たち一人ひとりの存在は、神様がご守護くださるこの広い世界の中の一点であり、今とは、悠久の時の流れの中の、これまた一点に過ぎません。周囲の人々に気を配り、また先々のことに思いを馳せたり、過去を振り返ることによって、物の見方や受け止め方が変わり、身の処し方も自ずと変化してきます。今さえ良くばといった狭い視野、刹那的な考え方ではなく、神様の大いなるご守護を基準とした広い視野で、また長い目で物事を見るように心がけたいものです。   いまのみちいかなみちでもなけくなよ  さきのほんみちたのしゆでいよ (三 36) 今がどれほど困難な道中であっても嘆いてはならない。天の理に沿っていさえすれば、必ずや確かな本道に出られるのだから、それを楽しみに通るようにと、教祖は励ましてくださいます。 (終)
ふしから芽が出る
12-07-2024
ふしから芽が出る
ふしから芽が出る 静岡県在住  末吉 喜恵 今から25年ほど前の話です。私は結婚を機に奈良から静岡に来ました。大恋愛の末、三年間の遠距離恋愛を経ての結婚です。 大好きな人と結婚できて、見るもの全てキラキラと輝いて見えました。市街地から見える雄大な富士山に、車の運転中でも散歩中でも、少しでも見えたら「富士山だ~!」「きれいだなあ、おっきいなあ」と大感激していました。また、海なし県で育ったので、青く澄み渡る穏やかな海を見ては、心がウキウキしたものでした。 妊娠が分かったのは、結婚して三ヶ月経った頃でした。うれしくてワクワクしながら病院に行ったのですが、医師から「あなたはガンかも知れない」と言われ、目の前が真っ暗になりました。通常の卵巣は親指の爪ぐらいの大きさなのに、私の卵巣は直径10センチまで膨れ上がり、3センチの腫瘍ができていたのです。 もしその腫瘍が悪性だった場合、赤ちゃんを諦めて自分の命を守るか、それとも赤ちゃんを産むために妊娠を継続させるか、難しい選択をしなければなりません。がんで妊娠を継続した場合、若いこともあって転移しやすいので、命の保障はないと言われました。 結婚してから毎日が楽しくて仕方がなかったのに、医師からあっさり告知を受け、一気に谷底に突き落とされたような感覚になりました。病院からどのように家にたどり着いたのか覚えていませんが、泣いて夫に電話をかけると、仕事を早退してすぐに帰宅してくれました。 それまでも、おさづけによって神様の不思議なご守護を頂いた話をたくさん聞いていたので、私もご守護を頂きたくて、夫におさづけを取り次いでもらいながら、「がんよ消えろ、消えろ、消えてなくなれ!」と神様の前で必死に願いましたが、消えてなくなりはしませんでした。 医師からは「妊娠安定期に入ったらすぐに卵巣を取ってしまうか、出産時に帝王切開して取るか」と判断を迫られましたが、出来るだけ早く取った方がいいのではないかと思い、安定期に入った妊娠五ヶ月の時に開腹手術をし、卵巣を一つ取りました。 取った腫瘍の精密検査の結果は「ボーダーライン」。良性でもなく悪性でもないという結果で、そんな状態があることを初めて知りました。子供は諦めなくてはならないし、自分の命もどうなるか分からない。そんなところまで追い詰められていましたが、ギリギリのところでたすかったのです。本当に良かった、ありがたいと思いました。 幸い術後の経過も良く、順調に回復し、健康な妊婦さんと同じような生活を送ることができました。お腹が大きくなるにつれて、手術した傷跡も広く伸びてきて、「もしかして、お産でお腹が破れるのかしら?」と不安になりましたが、人間の身体というのは本当に不思議で、皮はしっかりつながっていました。 お腹に赤ちゃんが宿ることも、お腹の中で成長して生まれてきてくれることも、一つとして当たり前のことはないのだと実感できました。 その時お腹にいた長女も無事に出産でき、その後も卵巣は一つですが、双子の次女、三女、そして長男、四女と5人の子供に恵まれました。親々が通ってきて下さった信仰のおかげだと、感謝する毎日です。 四人目を妊娠中の2004年、同じように子育てをしている親子同士が一緒に楽しめる場を作りたいと思い、音楽を使って身体を動かす「リトミック」を取り入れた子育てサークルの活動を始めました。 サークル活動を始めてしばらく経った頃、夜、子供を寝かしつけていると、「ママの子供に生まれてきてくれてありがとう 大好きよ」という歌詞と共に、子守唄のメロディが天から降ってきたように突然浮かんできて、急いで枕元でメモを取りました。 サークルでその歌を歌うとママたちはほっこりと笑顔になり、それを見る子供たちも幸せそうな顔をしてくれます。中には、その歌を聞くたびに感動して泣き出す子もいました。 サークル活動も軌道に乗り、児童館や保育園、子育てサロンや子育て支援センターなどに広がり、私もリトミックの講師として依頼を受けるようになりました。 子育て中のお母さんたちを前に、卵巣の腫瘍ができたところを何とかたすけて頂き、無事出産できた体験をお話しします。 そして、 「私が親になれたのは、当たり前ではなく奇跡です。皆さん、寝る前には『ママの子供に生まれてきてくれてありがとう 大好き!』と言って我が子を抱きしめてあげてください。そうすると必ず子供の心は育ちます。日々子育てに追われる中でも感謝の気持ちを忘れずに、言葉でちゃんと子供に伝えましょうね」 そう語りかけて、最後にみんなで子守唄を歌います。 命の尊さ、ご守護のありがたさを伝える私なりの「にをいがけ」として、この活動を続けています。 天理教では、「ふしから芽が出る」と教えて頂いています。たとえ困難なことがあっても、それは神様からの陽気ぐらしへ向けたメッセージで、心を倒すことなく感謝の心で取り組むことで、いい方向に向かうことができます。そして、これは決して短い時間のことを言うのではなく、何年、何十年を経て振り返った時に、本当に身にしみて有り難く思える教えなのです。 子育てをしていると、毎日がやらなければならないことの連続で、いっぱいいっぱいになることが多いと思います。しかしその中にも、幸せの種はたくさん散りばめられています。 そこに気づけるかどうかは、自分の心次第です。日々、小さな幸せを見つけることで、子育てはより楽しいものになるのではないかと思います。 早く陽気に 天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、   にち/\にをやのしやんとゆうものわ  たすけるもよふばかりをもてる (十四 35) とあります。このように、実の親である親神様は、常に私たち一人ひとりをたすけることだけを考えて、日夜お見守りくだされているのです。 では、私たちはこの切ないほどの親心にどうお応えすればいいのでしょうか。朝に夕に唱える「みかぐらうた」を紐解いても、教祖は決して私たちに難しいことを求めておられないことは良く分かります。 しばしば出てくる「何々してこい」という表現に注目してみます。まず一下り目で、「こゝまでついてこい」と、ただひたすらに信じてついて来るように、また三下り目で、「ひとすぢごゝろになりてこい」と、疑いの心を持たず、一筋にもたれてついて来るようにと仰せられています。 さらに、四下り目において、「いつもたすけがせくからに はやくやうきになりてこい」と、常に私たち人間をたすけたいと急き込んでいる親心を述べられ、早く陽気な心になるようにと促されています。 これらのお言葉から、親神様が私たちに陽気ぐらしを望んでおられるということは明らかですが、なかなかそう簡単には実行に移せない現実もあります。「早く陽気になりて来い」と言われても、病気になったり、家族の関係がこじれたり、仕事がうまくいかないなどの現実に直面し、そのような思い通りにならない状況の中では、とても陽気な心になどなれないというのも、仕方のないことかも知れません。 そのような人々を、教祖はどうやって導かれたのか。教祖は、教えを詳しく説かれる前に、まずはそうした人々の心に寄り添い、困窮している人には食べ物や着る物、金銭などを与え、さらには病気や事情をたすけて、一人ひとりの悩みや苦しみを取り除かれました。 しかし、たすけてもらった喜びを感じ、一時的に陽気な心になった人々も、また違う問題に直面しては再び悩むということを繰り返していきます。 そこで次の段階として、どれほど悩みや苦しみから救われても、自分自身の心を入れ替えなければ本当のたすかりではないことを教えられました。 そして、人々が自ら心のほこりを払い、陽気な心へ入れ替えていく道として、「おつとめ」を教えてくださったのです。   なにもかもよふきとゆうハみなつとめ  めづらし事をみなをしゑるで (七 94) おつとめこそ、真の陽気ぐらしへとつながる一番の手立てであり、あらゆるご守護の源であることを示されています。 (終)
へその緒は曲者
05-07-2024
へその緒は曲者
へその緒は曲者 助産師  目黒 和加子 「先生、指が折れます!」 「指が折れても押せ!絶対に抜くなよ!」 手術室に向かうストレッチャーに乗っているのは、膝を付き、うつ伏せでお尻を高く上げた「膝胸位」という体勢をとっている産婦と、産婦の足の間に入り込んでいる私です。私は産婦の子宮口に右手の人差し指と中指を突っ込み、胎児の頭を必死で押し上げているのです。 なぜ、こんなけったいなことになっているのでしょう。 後藤さんは一人目、二人目ともに3,500グラムを超える赤ちゃんを出産した経産婦。明け方に陣痛が来て入院しましたが、痛みが弱くお産が進みません。昼前に熱を測ると37度6分。 「熱が出てきたか。感染が進む前に促進剤を使ってお産にした方がいいかな。診察して決めるわ」と困った顔の浜田先生。後藤さんを内診台に乗せ、内診を始めました。 「子宮口6センチ開大。頭の位置が高い。朝9時と同じ所見や。一人目も二人目も大きかったから産道はめっちゃ広いわ。それにしても羊水が多いなあ…」と言ったその時、バッシャーと破水。おしもを見ると、ニョロニョロしたへその緒が垂れ下がっているではありませんか。破水の勢いで出てきたのです。 「先生、臍帯が出てます!」 浜田先生はギョッとした顔で、後藤さんを素早く膝胸位にさせ、「目黒さん!指で頭を持ち上げろ! 臍帯の血流を遮断させるな!」と、真顔で指示を出しました。 私は素早く右手の人差し指と中指を直径6センチに開大した子宮口に突っ込み、胎児を押し上げました。次に先生はナースステーションに向かって、「臍帯脱出や!緊急帝王切開!」と、大声で叫んだのです。 一斉にスタッフが集まってきて手術の用意を始め、あっという間に準備が整いました。そして、後藤さんと私をストレッチャーに乗せ、急ぎ手術室へ。冒頭のけったいなシーンへと続きます。   後藤さんは痛くもかゆくもないので、「へその緒が出ちゃったのね。帝王切開ですか。よろしくお願いします」と、まるでピンときていません。 先輩助産師が後藤さんに張り付き、穏やかな口調で声をかけつつ胎児心拍を聴いています。しかし、口調とは逆に先輩の手は震えていました。 赤ちゃんはオギャーと産声をあげることで、肺呼吸へと劇的に変化します。それまでは、胎盤からへその緒を通る血管を経由して酸素をもらっています。へその緒は酸素をもらう命綱。この命綱が赤ちゃんと産道の間に挟まると血流が遮断され、完全に息の根を止められてしまいます。先生が「指が折れても押せ!絶対に抜くなよ!」と、私にカツを入れた理由はここにあります。 後藤さんと私はストレッチャーから手術台に乗せ替えられ、すぐに腰椎麻酔がかけられました。後藤さんを仰向けにし、麻酔が効いたことを確認した浜田先生は、「メス、三刀で出すぞ」と呟くと、予告通り三回メスを入れただけで、あっという間に子宮から赤ちゃんを取り上げたのです。 この時、お股から胎児の頭を持ち上げている私の指先と、切開した子宮の中から赤ちゃんを取り上げる先生の指先が、コツンと触れるのを感じました。赤ちゃんはすぐに産声をあげ、元気いっぱい。私は手術台から降りると、へなへなと床にへたり込んでしまいました。 「目黒さんがしっかり持ち上げてくれたから、元気に産まれたで。ご苦労さん。あとで指のレントゲン撮ろう。折れてたら労災やな」と浜田先生。骨折はしていませんでしたが、しばらくお箸が持てませんでした。 真夏の熱帯夜に起きた臍帯脱出も、思い出すと背筋が寒くなります。 その日は夜勤。夕方、出勤すると陣痛室には経産婦の小田さんがいました。真夜中に分娩室に入ったのですが、胎児が下がってきません。 「子宮口は8センチ開いているのになあ。この状態で破水したら臍帯脱出の可能性があるわ。当直医に連絡しておこう」と思った途端、バーン!と音を立てて破水。お股からへその緒が垂れ下がっています。恐れていた臍帯脱出が起きたのです。 その日の当直医は、大学病院の若手の産科医でした。急ぎ内線で呼ぼうと分娩室の扉を開けると、目の前に当直医が立っているではありませんか。 「先生、臍帯脱出しました!8センチ開大の経産婦なので、すぐに全開大させます。吸引分娩してください!」 「あの~、吸引分娩に自信がないので院長を呼んでください」 「なにを言うてるんですか。そんな時間はない!すぐに吸引カップ用意してください!」 後ずさりする医師を、分娩室に引っ張り込みました。 不安そうな顔の小田さんに、「今の破水でへその緒が出てきたの。へその緒は赤ちゃんにとって命綱やから、すぐにお産にしないと命に係わる。私が指で子宮口をグリグリして開きます。めっちゃ痛いけど頑張ってや!」とカツを入れると、「痛くても我慢します。赤ちゃんをたすけてください!」と、覚悟を決めた顔に変わりました。 両手の人差し指と中指に力を入れて、子宮口をグリグリねじ開けると、「うわー!いたいー!」。小田さんの絶叫が分娩室に響きます。 オロオロする医師に、「先生、ボーッとしてんと機械に吸引カップつないで!」  「は、はい」  「小田さん、全開したからね。吸引分娩するから、陣痛きたら教えてや。先生、早くカップ装着して!」若いドクターのお尻を叩きまくります。 「陣痛きましたー」 「吸って、吐いて。吸って、吐いて。大きく吸って、それ!思いっきり息んでー。先生、吸引圧上げて! カップを上下にゆっくり動かしながら引っ張って!」 間一髪、赤ちゃんは無事に産まれました。 当直医はなぜ、分娩室の前にいたのか。そこには職員用の冷凍庫があり、暑いのでアイスキャンディーを取りに来たとのこと。 「先生、落ち着いたのでアイスキャンディー食べてもいいですよ」 「臍帯脱出で背筋が凍りました。アイスは結構です」 青い顔をして当直室に戻っていきました。 へその緒が赤ちゃんより先に出てくるだけで、命に係わるのです。新人の頃、先輩助産師から「へその緒は曲者や。気抜いたらあかんで!」と厳しく習いました。先輩の教えを噛みしめ、胸に深く刻み込みました。 だけど有難い 『奇跡』 奇跡というものは、山のようにあると思うのです。現に、河原町大教会の祭典後のおさづけの取り次ぎで、「医者に余命二週間と宣告された方がご守護いただいた」「ガンが消えた」「手術をしなくて済んだ」「手術が大変うまくいった」「歩けなかった人が歩けるようになった」「膝が曲がらず座れなかった人が、座れるようになった」といった報告を、毎月のように聞かせていただきます。この教会だけでも、数々の奇跡を見せていただいているのです。 今日は、そういう奇跡の話ではなく、私たちが「いま、ここにいる」という奇跡の話をしたいと思います。驚くようなご守護も奇跡です。しかし、そればかりではありません。むしろ本来、私たちが「いま、ここにいる」ということ自体が、奇跡的なご守護の真っただ中にいるということだと思うのです。 たとえば、私は一歳のときに母を亡くしました。考えてみれば、母の出直しが一年早ければ、私は生まれていないのです。私の母もまた、幼いときに祖母と死別しました。これもわずか数年出直すのが早ければ、母も生まれていません。私の家は信仰して五代目ですが、二代目の徳次郎も、生まれるのとほぼ同時に母を亡くして顔も知りません。五代目の私は、本当に奇跡的に、いま、ここにいるのです。それとても、四代前のこの教会の初代会長を務めた源次郎が信仰してくれたおかげで、こうしているわけで、そうでなければ百数十年前になくなっている家なのです。 さらに遡って、親神様がこの世人間をお創りくださってから今日まで、いったい何人の親がいたのか分かりませんが、その親が一人でも欠けていたら、私はいま、ここにいないのです。私だけではありません。人は皆、自分が全く知らない親がいてくださったからこそ、いまがあるのです。 また、過去から今日までの生命の営みだけでなく、いま、ここにある私たちの体を考えてもそうです。人間の体は、およそ三十七兆個の細胞から成り立っています。しかし、この細胞が全部生きていたらいいというわけでもありません。細胞それぞれの寿命が来たときには、死んでもらわなければならない。たとえば、血液の成分である白血球、血小板、赤血球は、それぞれ寿命が違います。数時間で死んでしまうものもあれば、十日生きるものもある。また、百二十日ほど生きているものもあります。そして、死んでいくものの代わりに、新しいものが生まれてくるから、私たちは生きているのです。 親神様のご守護というものは、本当にきりがないのです。人間をお創りいただいて以来、今日までに、どれほどのご守護を頂いてきたか。いま、ここにいるという事実のなかに、どれほどのご守護があるかと考えたら、どれだけお礼を申しても、し過ぎることはないと思います。 ですから、いま体が不自由で悩んでいる人も、お願いの前に、まずお礼を申し上げていただきたいのです。私たちは病気や事情で悩むと、必死になってお願いします。必死になってすがるというのは大切なことです。このすがってお願いする気持ちと同じくらい、お礼が大切だと思うのです。私たちはつい、それを忘れます。山のようにご守護を頂いているのに、たった一カ所、膝が痛いと、そのことで思い悩みます。まず、親神様のご守護に対するお礼を、しっかりさせていただきたいものです。 そのお礼の仕方を、教祖は教えてくださいました。その第一が、おたすけです。世界中の人は皆、山のようにご守護を頂いていることを知らずに生きています。この教えは、信仰している人だけのものではありません。お道を信仰している者だけが兄弟姉妹ではないのです。世界中の兄弟姉妹に、一日も早く教えを伝え、親神様のご守護に共に感謝してもらえるよう、つとめさせていただきたいと思います。 (終)
世界で咲く花
28-06-2024
世界で咲く花
世界で咲く花 兵庫県在住  旭 和世 私は大学を卒業した後、天理教語学院、通称「TLI」という、海外布教を目指す人が、語学や天理教の教理を学ぶ学校に勤めることになりました。 私の受け持ちの学科は「おやさとふせこみ科」略して「おやふせ」と呼ばれている所で、海外からの留学生が人類のふるさと「おぢば」で教えを学び、真実を伏せ込むという、世界でも唯一無二の学科でした。 まだ20代そこそこだった私は、お世話取りをするどころか、教えてもらうことばかりで、とても新鮮でユニークな毎日でした。 一つのクラスの中で、韓国、台湾、香港、タイ、インド、ブラジル、アメリカなどなど、多国籍の人たちが一堂に会するのですから、色々なことが起こります。 様々な言語が飛び交う中、歌ったり踊ったりの陽気な人や、おおらかでのんびりしている人、日本の文化にはないスキンシップで毎日あいさつしてくれる人、時にはお国対抗で荒々しいケンカが始まったりと、毎日大忙し。でも、そこで教わったことが、今の私の信仰生活の基盤になっています。 「ふせこみ」とは、「欲の心を忘れ、親神様が喜んでくださる真実の種を蒔くこと」であり、いつか必ずその種から芽が出て、花が咲き、一粒万倍となってあらわれてくるのだと教えて頂きます。 学生さんと共に「おやさと」でしっかり伏せ込み、いつかそれぞれの国に帰った時、その「ものだね」から芽が出て花が咲くことを楽しみに、毎日頑張っていました。 その取り組みの一つとして、校舎の裏に畑を作り、農作物を育てることを通して、「ふせこむ」ことの意味を体感できる機会を作りました。農作業は世界共通であり、親神様の火・水・風のご守護をとても身近に感じることができます。 しかし、実際の作業は地味なもので、土を耕し、種をまき、そして毎日毎日、水をやり、草を抜き、追い肥をやり、脇芽をとり、と、作物の丹精にはとても手間がかかるのです。 みんなで汗を流しながらその作業をする時間、いつも決まって私のそばに寄ってくる一人の学生さんがいました。 「せんせ~、なんでこんな事してるんですか~? こんなことやったって意味ないですよ~。もっと大事なことあるでしょう?」 その作業に意味を見出せない彼は、私に向かって不足の言葉をシャワーのように浴びせてくるのです。 最初は私もどうしていいのか分からず、「暑いししんどいけど、頑張りましょう」と、通り一遍の返答しかできなかったのですが、毎回そんな不足の心で作業をしていることは、彼にとってとても勿体ないことに思えてきたのです。 そんな時、教祖・中山みき様「おやさま」のこのようなお言葉を思い出しました。 「どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで」(教祖伝逸話篇144「天に届く理」) それからは、彼に「ねえ、もしかしたらくだらないことだと思うかもしれないけど、ここ『おぢば』で頑張ったことは神様がちゃんと見てくださって、あなたがお国に帰った時、きっと大きな芽を出し、花を咲かせてくださる。だから、先を楽しみに今しかできないことを喜んで頑張りましょう」と伝えるようにしました。 他にも、日本語で布教をしたり、神殿の警備をする境内掛のひのきしんや神殿掃除。また、重度の心身障害のある方と一緒に遊んだり、ふれあったりする活動もありました。 そんな、とってもハードで充実した一年間を過ごす中で、学生さんもスタッフである私自身も大きく成長することができました。 さて、あれから20数年が経ち、その時代の記憶も薄らいでいた時、韓国から一本の電話が掛かってきました。 「先生、ぼくです!覚えてますか?」 声を聞いた途端、20数年前の記憶がパッと戻ってきました。不足シャワーの彼です。 「もちろん覚えてるよ!元気にしてるの?」 「はい!とても元気で頑張っています。今度大阪に出張に行くので、先生たちに会いたいです」 さっそく他の先生方とも都合を合わせておぢばで集まることになり、大阪で彼と合流しました。彼専用の運転手付きの高級車でおぢばに向かったのですが、慣れていないこちらは何だか落ち着きません。 彼は自国に帰ると一流企業に入社し、何度かのヘッドハンティングを経て、今では役員の地位にあるとのこと。そんな立派になった彼を見て、「おやふせ」当時の思い出がよみがえりました。 「あの時、最初は草抜きなんて意味ないって言ってたのが懐かしいね。あの一年でコツコツ蒔いた種は、神様がちゃんと見ていてくださったんだね。すごいね」 「ホントに、あの時はよく先生を困らせたね~。日本に出張に来て、おぢばがえりする度に思い出すよ。先生たちにちゃんと恩返ししないとね!今は重要な仕事についていて責任もいっぱいあるけど、がんばってるよ」 「重要な立場になると、いいこともあれば大変なこともあると思うけど、立場が上がれば上がるほど、周りへの感謝を忘れず低い心で通らせてもらってね。神様のご守護は低い所に流れてくるからね」 「先生、それ、いつもおやふせの同級生に言われてるよ!心は低く、高慢になったらダメってね」 卒業しても世界中の仲間たちとつながり続け、神様の望まれる通り方をお互いに求め合い、たすけ合っていることを知り、とても嬉しく思いました。 教祖がお残しくださった「おふでさき号外」に、   にち/\に心つくしたものだねを  神がたしかにうけとりている   しんぢつに神のうけとるものだねわ  いつになりてもくさるめわなし とあります。 再会した彼をはじめ、当時一緒にがんばった学生さん一人ひとりが伏せこんだ理によって、親里ぢばで蒔かれた種は芽を吹き、生き生きと成長し、世界中でたくさんの花を咲かせているに違いないと、今、思いを馳せています。 浅知恵に走らず 信仰によって開かれる神様の世界は、知識として目で見て確かめられる世界よりも、はるかに広く大きいものです。それは神様の物差しによってはかり、判断する世界だからであり、次元が違うと言ったほうがいいかも知れません。次のお歌は、そのことを端的に示しています。   このせかいなにかよろづを一れつに  月日しはいをするとをもゑよ (七 11)   このはなしどふゆう事にをもうかな  これからさきのみちをみていよ (七 12)   どのよふな高い山でも水がつく  たにそこやとてあふなけわない (七 13)   なにもかも月日しはいをするからハ  をふきちいさいゆうでないぞや (七 14) この人間世界のことは何もかも、神の支配によって成り立っている。神が諭しているこの話を何のことかと思うかもしれないが、これから先、現れてくることをしっかり見ておくように。たとえどんなに高い山であっても水びたしになることもある。必ず谷底のほうへ水が流れるということもない。そのような常識とはかけ離れたことも現れてくるが、何もかもすべて神が支配しているのだから、やれ大きい小さいと、目に見える形に囚われて判断してはならない。 支配という言葉からは、やや権威的な響きが感じられるかも知れませんが、それは世界中の人間をたすけようとされる親神様の断固たるご意思の表れに外なりません。 水は低いところへ流れていくのが私たちの常識です。大きいほうがいいとか、小さいからよくないなどと物事に固執するのも私たちの常です。そのようなこだわりを捨てて、もっと広く深い神様のご守護の世界に目覚めるべきであることを仰せられています。 この信仰について、「道と世界はうらはら」などと言うことがあります。人間の浅知恵に走るべきではないことを教えられているのです。 (終)
トイレのスリッパ
21-06-2024
トイレのスリッパ
トイレのスリッパ   岐阜県在住  伊藤 教江 「大切なことは、目には見えないんだよ」 これは、不朽の名作『星の王子さま』に出てくる有名なセリフですが、目に見えないからこそ、大切なことを伝えるのは難しいのだと思います。 私は四人の娘を持つ母親です。娘たちはすでに成人していますが、まだ幼い頃は毎日がドタバタで、本当に大切なことをちゃんと伝えてあげられたかなあ、と反省するばかりです。 もう二十年以上前になりますが、長女が幼稚園に通う前の入園説明会でのことです。先生が園児たちに向かって、こう言いました。 「皆さん、今日はお母さんにお礼を言いましょうね。お母さんは毎日、皆さんのために朝早くからご飯を作ってくれたり、お掃除をしてくれたり、お洗濯をしてくれてますよね。だから、今日はお母さんにお礼を言いましょう」 すると、一人の園児が「先生、どうしてお母さんにお礼を言わなくちゃいけないの?だって、ご飯は炊飯器が炊くし、お掃除は掃除機がするし、お洗濯は洗濯機がするんだよ」と言ったのです。 その言葉に私は衝撃を受けました。幼い子供にとって、目に見える物事は分かるけれど、そこにあるはずの目に見えない母親の心までは分からないのだと…。 世の中には、形があり、目に見えるものだけが存在しているわけではありません。生活する上での習慣や規則、さらに人の心など、形もなく目にも見えないけれど、確かに存在するものがたくさんあります。そして、大切なものほど、目には見えないものなのだと思います。 この園児に限らず、子供にとっては、目に映る毎日の何気ない母親の言動が全てだと言えるかも知れません。ただ、そこにある親心が伝わらなければ、子供のためになりふり構わず頑張っているお母さんにとっては、少し寂しいことです。 では、どうすれば毎日の生活の中で、目に見えない大切なものについて子供たちに伝えられるのか…。そう考えた時、祖父のある思い出がよみがえりました。 私は、六人兄弟の二番目の長女として育ちました。兄と三人の弟に挟まれ、いつでもどこでもお構いなしに走り回って遊んでいたので、履いていた下駄を、一日のうちに何度も玄関に脱ぎ散らかしていました。 すると、祖父がニコニコと微笑みながら玄関へやって来て、決まって「下駄の乱れは心の乱れや」と言いながら、私たちの下駄を一つ一つ丁寧に揃えてくれるのでした。そんな祖父を真似て一緒になって下駄を揃えると、祖父は私の頭を優しく撫でながら、「いい子だね。上手に揃えられたね。みんなが下駄を履く時、喜ぶよ。教祖も、お手々たたいてお喜び下さっているよ」と褒めてくれたものでした。 当時の私は、「下駄の乱れは心の乱れ」という言葉の意味までは理解できませんでしたが、ただ祖父がニコニコと微笑んで褒めてくれるのが嬉しかったのです。 しかし、今思うと、祖父は幼い私に形ある「下駄を揃える」という行いを通じて、目に見えない心のあり方、たとえ小さなことでも心を込めて行うことの大切さを、繰り返し繰り返し、根気よく教えてくれていたように思います。祖父にはきっと、幼い子供たちに対して、「将来、少しでも人様に喜んでもらえるように育ってほしい」との強い信念があったのだと思います。その祖父の心が、自分自身が親になって初めて見えてきたような気がしたのです。 そこで、幼い娘にも出来る、人に喜んでもらえる行いは何だろうと考え、トイレのスリッパを揃えることを思いつきました。毎日一緒にトイレに行き、スリッパを揃えながら、このように言い聞かせました。 「こうやってきちんと揃えると、トイレに急いで来た人がすぐに履けるよね。あなたもスリッパが揃っていたら、すぐにトイレに入れるから嬉しいでしょ?」 「うん!そうだね、嬉しい!」 そうして、お手本を見せては同じ会話をし、娘が揃えた後で思いっきり褒めてあげることを繰り返しました。 そして入園式当日、早速、幼稚園のトイレに行き、一緒にスリッパを揃えて、それから思いっきりの笑顔で褒めてあげました。 次の日からは朝、幼稚園に行く前と、帰ってきてから、毎日同じ会話を繰り返しました。 「いってらっしゃい。今日もトイレのスリッパ上手に揃えてきてね」 「うん。わかったよ。お母さん、行ってきます」 「ただいま。お母さん、今日もトイレのスリッパ揃えてきたよ」 「おかえり。お利口だったね~」 私が祖父に褒めてもらって嬉しかったように、娘にも「お母さんの喜ぶ顔が嬉しいから」と思って楽しく実行してもらいたくて、毎日思いっきり褒めてあげました。 それから一年が過ぎたある日、娘の担任の先生が、「どうしてこんな幼い子が、毎日毎日トイレのスリッパを揃えられるのかを知りたい」と、教会を訪ねてきて下さいました。 「幼稚園ではみんなで一緒にトイレに行くんですが、娘さんは自分が用を済ませた後もずっとトイレの前にいて、最後のお友達が済んだ後に、バラバラになったスリッパを、タイルの床に手をついて、楽しそうに一足ずつ揃えてくれるんです。私も結婚して子供が授かったら、こんな素敵な子に育てたいです」 先生は、そう話して下さいました。 その後、先生は結婚を機に夫婦揃っておぢば帰りをされ、神様のお話を聞く「別席」を運ばれました。そして、安産の守りである「をびや許し」を戴いて出産した二人のお子さんと、幸せな家庭を築いておられます。 トイレのスリッパを揃えるという小さな行いが、人の運命をも変える大きな喜びとなりました。子供や孫たちには、自ら進んで人の心に寄り添い、人だすけができるように育ってほしいと、心から願っています。 月日にんけんをなじ事 人間誰しも、「いつ、どこへ生まれようか」などと考えて生まれてきた訳ではありません。皆、自分の出生については、後に親に教えられて知ることができるのですが、たとえ生みの親であっても「どう生きていけばいいのか」については、親の願いを話すことはできても、絶対に間違いのない道を指し示すことはできません。それができるのは、この世界と人間を創られた創造者のみです。 創造者は、造られたものの側、すなわち人間の方から認識することが難しい存在です。だからこそ創造者である親神様は、この世の表に現れ、自ら「元の神・実の神」であると宣言され、人間創造の目的であり、私たちの目指すべき「陽気ぐらし」について教えられたのです。 次のようなお言葉があります。   せかいぢうみな一れつハすみきりて  よふきづくめにくらす事なら (七 109)   月日にもたしか心がいさむなら  にんけんなるもみなをなし事 (七 110)   このよふのせかいの心いさむなら  月日にんけんをなじ事やで (七 111) 世界中すべての人々の心が澄み切って、陽気あふれる暮らしをするようになれば、神の心が勇んでくると共に、人間も同じように勇んでくる。こうして世界中の皆の心が勇み立ってくるなら、神も人もその喜びと楽しみとを一つにした、神人和楽の世界が実現するであろう。 「月日にんけんをなじ事」とのお言葉で、真実の親子なればこその響き合う間柄をお示しくだされています。親神様は、決して彼方に仰ぎ見るばかりの遠い存在ではなく、進んで親子団らんの輪の中に入り、私たちに優しい眼差しを注がれる実に身近な存在です。その親神様の思いに応えることが、私たち子供のたどるべき道であり、陽気ぐらしへとつながる道なのです。 (終)
子供と話す「人たすけたら我が身たすかる」
14-06-2024
子供と話す「人たすけたら我が身たすかる」
子供と話す「人たすけたら我が身たすかる」 和歌山県在住  岡 定紀 この春、高校生になる長男と信仰について話す機会がありました。長男は小さい頃から朝夕のおつとめや、神様に報恩感謝を捧げる「ひのきしん」などを素直に実行し、小学生になってからは、毎年夏の「こどもおぢばがえり」には、多くの友達を誘って参加していました。また、教会で「こども食堂」を始めた時も、積極的に手伝ってくれました。 ただ、小学生も高学年になると、教会について、信仰について真剣に考えることが増えてきます。教会は世のため、人のために活動しているということは分かっていても、では周りの友達がしていない信仰を自分はなぜしているのか?と、深く考え始めるのは当然のことです。 親子で信仰について深く話すようなことは、これまでありませんでしたが、高校では親元を離れて寮に入るので、その前に話せてとても良かったと思います。私自身、教えについて理解を深めるいい機会になりました。 長男との話の中で、「人たすけたら我が身たすかる」という教えについて話題になりました。これは教祖が書き残された「おふでさき」の一首、   わかるよふむねのうちよりしやんせよ  人たすけたらわがみたすかる(三 47) の下の句にあたります。現在教会で、教祖140年祭に向けての指針となる『諭達』を毎日読んでいますが、そこで引用されているので、子供たちにとっては聞き慣れているお言葉です。 『諭達』には、その引用の後で、「ひたすらたすけ一条に歩む中に、いつしか心は澄み、明るく陽気に救われていく」と説明されています。しかし、「我が身がたすかりたいから、人をたすけるようにも思えてしまう」ということが話題になったのです。 確かに「我が身」が先に来るとそうなりますが、「人たすけたら」が先に来るので、決してそうはなりません。しかし時には、「これは我が身のために行っているのではないか」と思えるような状況もあるのです。 例えば、教会で「こども食堂」をしていると、食材などを寄付して頂くことが増えてきます。個人で寄付をしてくださる方は、こちらが名前を尋ねても「名乗るほどの者ではありません」という感じで、匿名でされる方が多くおられます。 一方、企業から寄付を頂く場合、大概は会社名を書いたポスターやチラシが一緒になって送られてきます。まるで、「わが社は社会貢献をしています」と宣伝をしているかのようです。そんな場面に出会うと、こちらが人に対して親切にする時、何かを得ようと期待しているようなことはないか?と反省させられます。 長男が、「大切なのは、見返りを求めて人をたすけるわけじゃないってことやろ?」と聞くので、「そういうことだよ」と答えましたが、その後も何かすっきりしないものが残り、色々と思案しました。 数日後、再び長男と「見返りを求めない人だすけ」について話しました。まず思い浮かぶのは、病気や怪我をしている人に対してのたすけです。皆が似たような経験をしたことがあるからこそ、そんな人を目の前にすると、自然と身体が動くのでしょう。何とかして痛みや苦しみを取り除いてあげたいという一途な思いに、我が身の欲が入る余地はありません。 また、能登半島地震で多くの方が被災しましたが、被災地に駆けつけるボランティアの人たちや、寄付をしたり支援物資を届ける人たちも、決して見返りを求めているわけではありません。 そして、子供には言いませんでしたが、もっと身近な例があります。それは我が子を育てる時です。子供を育てるのに、決して自分の老後の面倒を見てもらおうと期待しているわけではありません。 特に、我が子を産んだ母親の愛情は、私には想像できないものです。「母子一体」という言葉がありますが、そこには「自分」と「子供」という隔てがなく、「人たすけたら我が身たすかる」の中にともすれば聞こえるような、「人」と「我が身」の区別さえないのでしょう。 だからこそ、「身内」と言われるように、自然に我が事として共感できる家族同士からたすけ合っていくこと。そして、その身近な所から共感の輪を広げていくことが大切なのだと深く気づかされました。 今後も、親子で信仰について話す機会を持ちたいと思います。 心のほこり 曇りや雨の日の飛行場には、雨雲が低く垂れこめています。暗い空を仰ぎ見ながら、これで飛行機は無事に飛べるのか、と不安な気持ちになります。ところが、ひとたび機体が舞い上がり、雲の上に出れば、そこには太陽が煌々と輝き、いつもと変わらぬ明るさいっぱいの世界が開けています。一見暗く見える雨の日も、決して光がなくなってしまったわけではなく、ただ雲や霧が太陽をさえぎってしまっているだけのことなのです。 私たちの日々の心遣いに関して、この雲や霧にあたるのが、天理教教祖・中山みき様「おやさま」がお教えくだされた、「心のほこり」と言えるのではないでしょうか。 教祖は、私たち人間の間違った心遣い、神様の望まれる陽気ぐらしに沿わない自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえ、神様の教えを箒として、絶えず心の掃除をするようにと諭されました。 心のほこりを払うとは、言わば雲や霧を取り去って、太陽のような、人間本来の明るい澄んだ心を取り戻すことです。ではどうすれば、ほこりを払うことができるのでしょうか。 たとえば、顔に泥がついてしまったら、鏡に顔を写して拭き取りますが、心のほこりを払うのもこれに似ています。私たちはややもすると、自分のことを棚に上げて、人の欠点をあげつらうことが多いものです。 しかし、その目に映った人の欠点こそ、実は自分の心のほこりを映し出している鏡なのです。鏡に映った人のほこりは、自分のほこりの影であると反省し、心を治めるところに、たすけ合いの精神が生まれ、陽気ぐらしへの道が開かれるのです。 「心というのは、コロコロ変わるから心というのだ」などと言われます。単なる語呂合わせのようで、実に本質をついています。要するに、心は自由で、どんな姿形にも変わるということです。 私たちは誰しも、明るく楽しい、陽気な暮らしをしたいと望んでいます。そうであれば、皆が求める楽しい暮らしに向けて、心が自由自在に動いていけば何の問題もありません。ただ、お互いに相手のあることを忘れてしまうと、自分だけの楽しい暮らしへ向かうあまり、知らず知らずのうちに人を不快にさせることがあるかも知れません。これは自由ではあっても自分勝手な心であり、反省しなければならないほこりの心遣いです。 神様は、 「皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん」(M30・12・11) 「勝手というものは、めん/\にとってはよいものなれど、皆の中にとっては治まる理にならん」(M33・11・20) と仰せられています。 (終)
ある女性教友の終活
07-06-2024
ある女性教友の終活
ある女性教友の終活  インドネシア在住  張間 洋 先日、ジャカルタ郊外で教友のAさんが81歳で出直されました。その知らせに、その月のインドネシア出張所月次祭に参拝した誰もが耳を疑ったと思います。なぜなら、祭典でてをどりをつとめ、直会の席で談笑し、自分の足で公共交通機関を使って帰るAさんの元気な姿を皆が目にしていたのですから。しかも突然の訃報が入ったのは、その月次祭の翌日のことでした。 ただでさえ歩行者に優しくないジャカルタの交通事情の中、公共交通機関のみで片道二時間かけ、月次祭に毎月欠かさず参拝してくださる姿を見て、常々頭の下がる思いがしていました。 知らせを受け、夕暮れ前にジャカルタ郊外にあるAさんの自宅にうかがいました。寝室に通してもらうと、白布を掛けられている亡骸が目に飛び込んできました。布をとってお顔を見た瞬間、前日お会いしたばかりでこんなことがあるのかと、感情を抑えきれませんでした。 Aさんはここ数年、人生の終わりを見据え、終活に取り組んでいました。生涯独身で、親戚も海外在住の実の姉と、疎遠になっている義理の妹がいるだけだと聞いていました。 数年前に持ち家を手放し、家具や家電も少しずつ処分し、写真や思い出の品なども整理しているとのこと。私にも「出張所でこのDVDプレーヤーを使ってね」とか、「このこけしは日本に行った時のものだから、出張所で引き取ってね」などと声を掛けてくれていました。 また、寝室にはすでに死装束として、教服一式や下着などが一つのかばんに入れて準備されていました。出張所の月次祭でも以前は教服を持参していたのですが、それをしなくなった理由がこの時に分かりました。 Aさんは1987年、インドネシア出張所が開設される年におさづけの理を拝戴して以来、ずっと途切れることなく足を運び続けた方で、出張所では世間話もお好きでしたが、いつも教祖のお話をすることを好まれました。ここ数年はさらに熱心に教えを求め実践し、周囲の方々に伝えることを地道に続け、時折そうして声を掛けた方を出張所に導いていました。 また終活の一環として、近隣の方々とのお付き合いをとても大事にしていました。訃報を受けて自宅を訪れた際、「あの、もしかしてコミュニティからの方ですか?」と声を掛けられました。 何のことかと思ったのですが、よく聞いてみると、コミュニティとは天理教のことを指していました。Aさんは「私にもしものことがあったら、後のことはすべてコミュニティの人たちに委ねてほしい」との遺言を、近隣の親しい方や町内会長さんに託していたのです。 インドネシアでは、一般的に「宗教」とみなされるのはイスラム、カトリック、プロテスタント、ヒンドゥー、仏教、儒教の6つで、全国民がこの中のどれか一つに所属し、宗教省という行政機関のもとに管理されています。ゆえに、出生や結婚、死亡などの節目の際には、所属宗教の認可と書類手続きが必要になるのです。 Aさんの遺言は、当然それを理解した上でのもので、どのように見送ることができるか、私たち天理教の者数名と近隣の方々で話し合いを持ちました。 まず、遺言通り天理教式で葬儀をすることは現実的に不可能なので、所属している宗教に則った葬儀を行うことになり、葬儀ののちは火葬し、海へ散骨してほしいとの遺言についても検討しました。喪主となるべき家族や親族が不在で、決定権があいまいな中、その夜のうちに居合わせた者で相談し、まずは斎場を押さえるところから動き始めました。 すると、数珠繋ぎのように信じられないことが立て続けに起こりました。まず斎場に行くと、夜中にも関わらず、同行していた近隣の方の同級生だという神父さんがたまたま居合わせ、その方に頼んで葬儀を取り仕切って頂くことになりました。その神父さんはその場で実に手際よく、斎場への亡骸の搬送から、式に至る段取りまでつけて下さいました。 さらに驚いたことに、斎場に寄贈者不明の棺が届いていたり、町内会で霊柩車を所持していたことも重なり、日付が変わる頃にはすべての準備が済み、その日に葬儀を行い、夕方には火葬まで終える手筈が整ったのです。 疎遠だった義理の妹さんとその家族にも連絡が取れ、葬儀への参列が叶い、無事見送って頂くことができました。 斎場での式が終わった後、出張所において、天理教式の葬後霊祭という形をとって信者一同で見送らせて頂きました。その直会の席で、いかにAさんの出直し、去り際がきれいなものだったか、そして、Aさんをいい形で見送りたいという近隣の方々の思いがどれほど強いものであったかが話題になり、それもAさんの温かい人柄と、何より信仰者としての日々の通り方によるものであったのだと感心せずにはいられませんでした。 このインドネシアで天理教の信仰を続けることがいかに大変なことかを考えると、今さらながら頭の下がる思いがします。 そして、出直す前日の月次祭の参拝は、親神様がAさんの真実のつとめに対して与えられた最後の贈り物だったのかもしれないと、今、思いを馳せています。 だけど有難い  『幸せの条件』 私は時々、若い学生さんが集まった席で、こう尋ねることがあります。「幸せの条件って、どんなことだろうか?」。そして、手を挙げてもらいます。 たとえば「財産がある」―意外に手は挙がりません。若いですから、お金なんか要らないと思っている人もいますし、そんなことはあまり重要ではないと思いたい、という気持ちもあるのでしょう。そこで「本当に要らないの? なかったら困らない?」「何回、手を挙げてもいいよ」と言うと、ジワジワと増えていって、最後には大半が手を挙げます。 「大好きな人と結婚する」―これは文句なしにたくさん挙がります。 「健康」―これも文句なし。 「仕事」―これは全員ではありませんが、男子はほとんど手を挙げます。 「生き甲斐になるような趣味」―これも、そこそこ挙がります。 「子供」―これはたくさん挙がります。 ほかにも「地位」や「名誉」―これも数は少し減るけれども手が挙がります。こんな調子で列挙していくと、「幸せの条件」はいろいろあるのです。 そこで次に、「大好きな人と結婚して、仕事が順調で、子供も生まれて、家族みな健康。言うことなしの状態で一年経ったとして、幸せだろうか?」と聞くと、あまり手が挙がらないのです。「先ほど挙がった条件が入っているのに、なぜ手が挙がらないんだろう」と尋ねると、「そのときになってみないと分からない」という答えが返ってきました。 そうなのです。実は大好きな人と結婚しても、一年経ったら大好きかどうか分からないのです。財産があっても、揉めている家もあります。子供がいたらうれしいなと思っても、子供で困っている家もある。つまり、「幸せの条件」が与えられているからといって、幸せとは限らないのです。世界中で一番お金持ちの人は、きっとどこかにいるに違いありません。じゃあ、その人が幸せかといえば、それは分かりません。 では、幸せの元はどこにあるのでしょうか。それは心です。「子供がいることがうれしい」「配偶者がいることがうれしい」と思えたら幸せですし、「嫌だなあ」と思ったら不幸せなのです。 以前、ある六十代の女性がおたすけを願ってこられました。その方は、喉頭ガンで食道を全摘出されました。大変苦しいと、泣きながら訴えられます。全摘出ですから食べ物が入りにくくて苦しい。体は手術の跡も生々しい。「自分は手術してほしいと思っていたわけじゃない。承知した覚えがない。痛い苦しいと言っても、家族が分かってくれない」と泣いて訴えられるのです。 その方の話を聞いたうえで、私は尋ねました。 「教祖が貧のどん底を通られたときに、明日炊く米がないなかを、『世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある』と子たちを励ましながら通られたというお話があります。私はそれを聞いて知っているけれども、実際にその状況になったことがないので、どれだけ有難いことなのか実感はありません。奥さんは、水も喉を越さない状況で長い間過ごされましたが、初めて物が通った瞬間はどうでしたか?」 すると、その方の顔色が変わって、「そら、美味しかったよ」と。  「そんなに美味しかったですか」「あんなに美味しいと思ったことはなかった」と、先ほどまでの涙とは反対の、うれし涙で話されました。私が「奥さん、それをお子さんにお伝えになったらどうでしょう」と言うと、「良い話を聞かせていただいた」と喜ばれました。 これは心の向きが変わったということですね。心がたすかったということなのです。来るときは悲しくて苦しくてたまらなかったのに、おさづけを受けて、帰るときは笑顔でニコニコと帰られました。 つらいこと、苦しいこと、悲しいことは、わざわざ数えなくてもつらいし、苦しいし、悲しい。それは誰しも分かっているのです。この女性が、水が喉を越した喜びを感じたときにうれしくて泣けたように、私たちも数えてみれば、ご守護をいっぱい頂いています。そのご守護を喜ぶ心になったとき、実は体もたすかっていくのです。 (終)
トゥクトゥクに揺られて
31-05-2024
トゥクトゥクに揺られて
トゥクトゥクに揺られて タイ在住  野口 信也 私がタイへ初めて来たのは35年以上前、22才の時です。タイ語の勉強のため、タイ語学校へ通っていました。また、生活の中でも出来るだけタイ語に触れるために、信者さんのお宅に下宿させてもらっていました。 その下宿は、旧市街地のトンブリという地区にありました。地区の主要道路から小路を5、6キロほど入り、さらにそこから車一台が通れるぐらいの細い砂利道を200メートルほど入っていきます。 毎朝、お手伝いさんが「元気が出るから飲みなさい」と言って作ってくれる、砂糖と練乳の入ったあま~いコーヒーを飲んで出発。砂利道を出たところで、満員の乗り合いトラックにつかまって大通りまで出ます。 そこから、6人ぐらいが乗れるトゥクトゥクというオート三輪で船着き場まで行き、定期船に乗っておよそ20分で学校近くの船着き場に到着。そこからさらにバスに乗って2、30分、ようやくタイ語学校に到着します。バスだけを使って学校まで行くルートもありますが、バンコクの朝のラッシュ時は渋滞が激しく、船を使ったルートが最も快適でした。 私の通っていたタイ語学校は、キリスト教の布教師のために開かれた個人経営の学校で、クラスメートは10人全て違う国の方々で、私以外は全員がキリスト教の関係者でした。授業はベテランのタイ人の先生が、ほぼ英語も使うことなくタイ語のみを使って教えるスタイルで、みんな和気あいあいと楽しく勉強していました。 授業が始まって数日後、その日の会話の内容は自分の兄弟についてでした。私は11人兄弟ですので、兄弟の話になるといつもみんなに驚かれて、色々と質問されたりします。タイでも同じような反応をされるだろうと思い、構えていました。 先生はまず最初に、カナダ人女性に「あなたの兄弟は何人ですか?」と尋ねました。すると「13人です」とのこと。私はびっくりしてその人のほうを見ましたが、他の生徒は驚きもせず少し違和感を感じました。 でも、すぐにその意味が理解できました。次に聞かれたアメリカの婦人が「私は14人兄弟で、末っ子の双子です」と言ったのです。その隣のオーストラリア人も10人以上の兄弟でした。ですから、私が「11人兄弟です」と答えた時も、当然誰も驚きませんでした。実にクラスの半分以上の人が、10以上の兄弟がいると答えたのです。 キリスト教という宗教を少しは知っているつもりでいたのですが、神様を信じて、授かった子供たちを大切に育てる。そうした信仰を持つ人たちに囲まれていることに、強い安心感や親近感を覚えました。 また、私のクラスメートの共通点の一つは、疑問に思ったことは遠慮なく率直に聞くということです。自分たちより若いタイ人の先生に、タイで見聞きして疑問に思ったことを遠慮なく質問するので、内容によっては先生も大変答えにくそうでした。 例えば、消防署について。家が火事になれば、当然どの国でも消防署に連絡を入れ、すぐに消火活動が行われます。ところがタイの場合、消防署に電話を入れると、まず最初に行われるのが金額の交渉です。いくら支払うかによって、消防車が何台出動するか、といったやり取りがされるというのです。さすがに先生も、「恥ずかしいので本当のことは言えません」と答えてその場をしのいでいました。 私はそれを聞いて、日本で教わっていたタイ語の先生が、「『地獄の沙汰も金次第』と言いますが、あれはタイのことです」と、冗談ぽく仰っていたことを思い出しました。タイは貧富の差が激しく、首都バンコクには多くの方が田舎から出稼ぎにやってきます。貧しい人々が身を寄せ合って暮らすスラムも多く存在し、障害のある方が道端で物乞いをしたり、子供が路上で車の窓ふきや花売りをしている姿を見かけることも多いのです。 こうした問題は何もタイだけの話ではありませんが、若かった私は、こうしたタイの現実に少なからずカルチャーショックを受けました。 さて、そうした中、ある日知り合いと遅い夕食を終え、繁華街から下宿へ帰る時のことです。道路の混雑もないので、トゥクトゥクで帰ることになり、運賃は交渉の末、60バーツに決まりました。 途中、半分眠りかけながらトゥクトゥクに揺られていると、急に停車しました。どうしたのかと思い目を開けると、検問のようです。警察が次々にタクシーやバイクやトゥクトゥクを止め、運転手から免許証を取り上げていきます。私が乗っていたトゥクトゥクの運転手は、免許証を警官に渡す時に「どうしてですか」と、聞き取りにくいタイ語で尋ねていました。警官は彼の免許証を一瞥すると、返事もせずにそれをポケットに入れ、別の車の方へ歩いて行きました。 なるほど、普通に走っていただけなのになぜ捕まったかと思えば、酔っぱらった警官が小遣い稼ぎで車両を止めているようでした。100バーツを支払った運転手にはすぐに免許証が返され、解放されるという仕組みのようです。 運転手は「お兄さんごめんね」と私に申し訳なさそうに謝り、「私は地方からバンコクへ出てきたばかり。今日も今、仕事を始めたところで売り上げもなく、警察に払うお金がないんだ」と状況を説明してくれました。 私は運転手にではなく、警官に対して腹が立っていたので、何とか粘って100バーツを払わずにここを通り抜けることを考えていました。しかし、警官は我々を気にも留めず、やって来る車両を次々に止めて同じことを繰り返しています。とうとう私も粘り負けで、運転手に100バーツを手渡しました。 こうした状況の場合、普通なら乗客は警察に止められた後すぐに下車して、近くを走っている車に乗り換えてしまうのですが、私は運転手が気の毒でそうはしませんでした。私のような外国人が乗っていれば、警察が諦めるのではという期待もあり頑張ってみましたが、結局だめでした。 100バーツを支払い、免許証を返してもらった運転手は、合掌して何度もお礼を言ってくれました。そして再びトゥクトゥクを走らせ、下宿前の砂利道の入り口に到着。「砂利道に入るとUターンが難しいので、ここからは歩いて行きます」と言って、降ろしてもらいました。 私が運賃の60バーツを渡そうとすると、運転手は驚いて「結構です」と断りました。警官への100バーツを払ってもらった上に、乗車賃までもらえない、という意味であろうと理解しましたが、運転手に責任があるわけではないし、また、彼の優しい人柄にほだされた面もあり、「乗車賃ですから」と言って、何とか受け取ってもらいました。 すると彼は急に涙を流し、合掌をしながら何度も何度もお礼を言ってくれるのです。私も少しはいいことをした気持ちになっていましたが、まさか涙を流されるほどとは思わず、驚いてしまいました。彼としては、本当に切羽詰まった思いだったのでしょう。 下宿までの砂利道を、色んなことを考えながら歩いて行きました。この砂利道は周りが木々に覆われ、電灯などもなく、夜は真っ暗です。しかし、ふと「いつもより明るいな」と感じて後ろを振り返ると、何と先ほどの運転手が、私の歩く砂利道をトゥクトゥクのヘッドライトで照らしてくれていたのです。どこまで行っても、ずっとずっとです。私は手を振り下宿へと歩いて行きながら、何とも言えない気持ちになりました。 「むごいこゝろをうちわすれ やさしきこゝろになりてこい」 と、天理教の教祖「おやさま」は教えてくださっています。当時の私は警官の所業に腹を立てていましたが、運転手の純粋な心に、嫌な思いも全て吹っ飛んでしまいました。そして、彼には無事で元気に頑張ってほしいと、心から願いました。 人を責めるようなむごい心遣いは、争いや苦しみを生むだけです。そうではなく、困っている人や苦しんでいる人に、少しでも優しさを届ける。そうした行いが自分を含め、人に幸せをもたらしてくれるのだとあらためて思う、今日この頃です。 はなしのたね 天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、「みかぐらうた」の十下り目において、   三ツ みづのなかなるこのどろう     はやくいだしてもらひたい   四ツ よくにきりないどろみづや     こゝろすみきれごくらくや   五ツ いつ/\までもこのことハ     はなしのたねになるほどに と教えられています。 三ツと四ツのお歌で、水と泥のたとえを用いて、人間の心の欲について仰せられています。このような話になると、厳しい禁欲的なイメージが思い浮かぶかもしれません。しかし、教祖が欲を離れるように促されるのは、あくまでも、それによって私たちが陽気ぐらしを味わうことができるからなのです。 江戸時代末期の人々には、病気や事情などのつらく苦しい状況が表れると、やみくもに神仏に祈ったり、あるいはこの世での解決を諦め、理想の世界を極楽浄土に求めたりする風潮がありました。そんな中、教祖は、自らの心を濁らせている「欲」を取り払い、心を澄み切らせることによって、この世で極楽のような世界が味わえることを教えてくださいました。 現在は医療が発達し、昔ほど神仏にすがる状況ではありません。しかし、医療がどれほど発達しても、それによって根本的な心の問題を解決することは難しいでしょう。 この世界には、自らの人生に希望を見出せずにいる人が多く存在します。そのことからしても、私たちが本当の幸せを手に入れるためには、自らの欲の心に向き合っていくことが必要であり、そこに誰もがたすかっていく道があるのです。 そして教祖は、続く五ツで、これらの教えは、いついつまでも話の種になる。つまり永遠に変わることのない、人々がたすかっていくための真理であることを仰せられています。 (終)
じいちゃんにまた会える日
24-05-2024
じいちゃんにまた会える日
じいちゃんにまた会える日 埼玉県在住  関根 健一 先日、立て続けに親戚や知人の訃報が届きました。人が亡くなるというだけでも悲しいことですが、まだ私と同年代の50代の知人や、私よりも若い人、特に娘の同級生の訃報を聞いた時には、同じ親として何とも言えない気持ちになりました。 親戚の葬儀は天理教式で執り行われました。天理教を信仰していない参列者も多く、開式前に葬儀業者が式次第や作法などを丁寧に説明してくれました。亡くなった親戚は80代でしたが、家族にとってはいくつであっても悲しい気持ちに変わりはありません。悲しみの中にも、故人の人柄同様の温かさに包まれた葬儀になり、無事に送り出すことができました。 天理教式の葬儀では、故人の生い立ちや人柄について書かれた「誄詞」というものを読み上げます。故人と参列者との関係性はそれぞれ違いますが、どんな人だったのかをより詳しく知ることで、祈る気持ちも深くなる気がします。 そしてもう一つ、天理教式の葬儀を特徴的にしているのが「出直し」の教理だと思います。天理教では、人の死を「出直し」と呼び、親神様からの「かりもの」である身体をお返しすることだと教えられています。死は再生の契機であり、新しい身体を借りてこの世に帰ってくる、「生まれ替わり」のための出発点でもあるのです。 以前、ある天理教の教会長さんから、「葬儀は天理教を信仰していない人も多く参列する貴重な機会です。故人との別れを惜しむ人たちに、少しでも前向きな気持ちになってもらえるように、必ず出直しの教理についてお話しさせて頂きます」と聞かせてもらったことがあります。死は「永遠の別れ」だと思っていた人が、出直しについてのお話を聞いて、心が前向きになる場合もあるとのことでした。 二十数年前、57歳だった父が亡くなりました。当時25歳だった私は、何も分からない中、言われるがままに喪主を務めることになりました。鳶職人だった父を偲んで多くの方が弔問に来てくださり、皆さんへの対応をするので精一杯でした。 当時、一番上の姉の子供で、小学一年生の姪と幼稚園に通う甥がいました。父にとっては初孫と二人目の孫で、父は二人をとても可愛がり、姪と甥も「じいちゃん、じいちゃん」と慕っていました。 そのじいちゃんが突然亡くなったのです。小学一年生の姪は父の亡骸と対面するなり、目を真っ赤にして泣き始めました。 その一方で、甥の方はというと、まだ人の死を理解することができないのか、「じいちゃん何で寝てるの?」と不思議そうな顔をしていました。周囲もその姿を見て、まだ理解できないことで却って傷つかないで済むだろうと、ちょっとホットした気持ちになりました。 自宅で数日亡骸を安置した後、式場に向かうために納棺をする時のことです。棺に納められた父の姿を見た甥が、突然大きな声で泣き出したのです。 「じいちゃん!じいちゃん!どこに行っちゃうの?」 家中に響き渡る甥の泣き声に、たちまち大人たちも涙を誘われました。送り出す準備が整い、家族がひと通り父に声をかけ終わっても、甥が泣き止む様子はありません。見かねた二番目の姉が、「じいちゃんはね、一度お空に行って、また身近な誰かのお腹に戻ってくるんだよ」と言うと、それまで泣いていたのが嘘のようにピタッと泣き止み、「ほんと?」と聞きます。 家族みんなで「ホントだよ」と答えると、甥は納得した様子で、それからは泣くことはありませんでした。式場での姪と甥は、「いい子にしてたら、じいちゃんが戻ってくるからね」とみんなに声を掛けられ、大人でも退屈になりがちな葬儀の時間を、きょうだい揃ってお利口に過ごしてくれました。 そして葬儀が終わり、火葬場に移動しました。火葬炉の前に父の亡骸が到着すると、最後のお別れに参列者のすすり泣く声が父の周囲を埋めていきます。そんな中、甥を中心に最前に並んだ私たち家族にもう涙はありません。 「さあ、じいちゃんがお空に飛び立つぞ!」 「じいちゃん、また帰ってきてね!」 姪と甥に聞かせるように大人たちが声に出します。 火葬炉の扉が閉まり、参列者のすすり泣く声がピークに達すると同時に、カウントダウンが始まりました。 「5、4、3、2、1、0!」 最後は甥の「出発、進行!」の声に見送られ、父は旅立って行ったのでした。 葬儀が終わり、私たちは父のいない日常に戻りました。父が亡くなってから葬儀が終わるまでの間は、目まぐるしく時が過ぎ、悲しむ暇もありませんでした。ですが、日常に戻り、ふと、いつも居た場所に父がいないことに気づくと、涙があふれてきました。 そんな中、「じいちゃんにまた会える日」を楽しみに元気よく過ごす甥の姿が、私たちに希望を与えてくれました。 教祖から教えて頂いた「出直し」の教理が、父の死という大きな節を、我が家の希望に変えてくれたのでした。 くちわにんけん心月日や 天理教は、元の神・実の神である親神様が、いち農家の主婦であった当年四十一歳の中山みき様、私たちは「おやさま」とお呼びしてお慕いしていますが、その教祖の身体に入り込まれ、教祖が親神様の話を取り次ぐ「月日のやしろ」とお定まりくだされたことにより、始まった教えです。すなわち、教祖のお心は親神様のお心そのままですが、お姿は私たち人間と何ら変わるところはありません。 このことを、直筆による「おふでさき」に、   いまなるの月日のをもう事なるわ  くちわにんけん心月日や (十二 67)   しかときけくちハ月日がみなかりて  心ハ月日みなかしている (十二 68) と記されています。 また、『天理教教典』には、 「教祖の姿は、世の常の人々と異るところはないが、その心は、親神の心である。しかし、常に、真近にその姿に接し、その声を聞く人々は、日頃の心安さになれて、その話に耳をかそうとしないばかりか、或は憑きものと笑い、或は気の違った人と罵った。」 とあります。 とかく私たちは、理解できないものに対して警戒心を抱き、時にそれを否定し、排除しようとします。浅はかな人間思案とはいえ、それはむしろ当然のことと言えるかも知れません。   いまゝでハをなじにんけんなるよふに  をもているからなにもハからん (七 55) 何も知らない人々に納得を与え、真実の道へ導こうとされる教祖のご苦労は、並大抵のことではなかったでしょう。その深い親心たるや、まさしく一れつ人間の親である所以です。そのご苦労に思いを馳せ、次のお言葉をかみしめたいと思います。 「神の話というものは、聞かして後で皆々寄合うて難儀するような事は教えんで。言わんでな。五十年以来から何にも知らん者ばかし寄せて、神の話聞かして理を諭して、さあ/\元一つの理をよう忘れんように聞かし置く。さあ/\それでだん/\成り立ち来たる道。」(M21・8・9) (終)